敗北の味 ~相模の獅子~
今回の登場人物。
今川義元…玄広恵探との戦いに勝利し、今川家の新当主となった
太原雪斎…仏門時代から義元の教育係である僧侶。『黒衣の宰相』の異名を持つ深謀遠慮の持ち主。
寿桂尼…義元の父、今川氏親の正室。今川の政治の実権を握り、崇敬を集める女政治家。
北条氏綱…北条家二代目当主。父の北条早雲に劣らぬ名君で、義に篤い。
北条氏康…氏綱の嫡男。義元と同世代だが初陣で戦果を挙げるなど経験豊富の将。
松平広忠…三河の英雄松平清康の嫡男。父の暗殺後は本拠岡崎城を奪われる。
天文5年(1536年)
この時相模では伊勢新九郎の息子、氏綱が正式に『北条』という姓を名乗り、正式な大名としての道を歩み始めていた。
北条氏綱は戦上手であり、新九郎の広げた領土を拡大し、関東北部を拠点とする関東管領山内上杉家、その分家の扇谷上杉家と、武田家を脅かす勢力になっている。
それだけではなく政治家としても優秀で、更に義を重んじることでも有名な人物である。
一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。
この彼の教えを見ればその厳格さが推し量れるというものである。
だがこの頃の義元は恵探をあっさりと破ったことで浮かれていた。相手の力量を考えずに出陣したのである。
この戦、雪斎は領民の慰撫と銘打ち出陣せず、総大将の義元は自ら軍を率いて東の相模との国境へと進軍した。
「ふははは、北条などと古の執権の名など持ち出しおって、成り上がり者共が。全軍突撃だ! 武田の援軍も来る我らが有利な戦、一気呵成に攻めろ!」
義元は全軍に攻撃命令を出した。
当時信玄の父である武田信虎は、この頃から戦国最強の名を持つ屈強な軍団を作り上げていた。
武田信虎は非常に戦を好み、出兵のために農民の生活を厭わないほどで、当時の甲斐国は一年中戦争に明け暮れていた。農民は常に戦渦に巻き込まれ、畑を開墾する人間が徴兵され、回の民は重税と労働に苦しんでいたが、信虎はそれを諫める人間を手討ちにするなど恐怖政治を敷いており、その恐怖が武田の最強の軍団の力となっていた。
その屈強な武田軍団の力を借り、両者のぶつかり合いは俄然今川の一方的有利で進む。
「ははは、見よ、北条恐るるに足らず! かくなる上はこのまま追撃して相模の駿河侵攻の拠点となる城も我が物にしてやろう!」
義元は全軍に相模の国境を超え、自らが先頭に立って退却し始める北条軍を追撃した。
そして相模領の前線の城に辿りついた時、義元の陣に伝令が届く。
「伝令! 遠江の井伊氏、付近の豪族に呼応し相模国境へと出陣! 我等の背後で交戦中!」
「な、何だと! 我が領内の豪族が寝返ったと?」
井伊氏は花倉の乱では反義元派についていた。彼らは北条氏綱に既に懐柔されており、挟み撃ちにする手筈が整っていたのだった。
「はっ」
狼狽する義元の耳に、馬蹄の音が届く。
北条の城に退却した部隊が門を開き、義元達の陣に向かって突撃してきたのである。
「み、味方を呼べ!」
「駄目です、追撃を強引に行ったため後方の部隊は遅れ、兵站が伸び切っています!」
義元は功を焦ったために突出し、戦で疲労していた部隊は次々と引き離され、そこを背後からの奇襲にあった。今川軍は陣形も兵站も伸び切り、援軍もままならぬままの最悪の状況に陥ったのである。
「くっ――退くぞ! 駿河に戻る道、全力で切り開け!」
義元はこの時初めて自身の命の危険を感じ、冷や汗を流した。一心不乱に元来た道に馬を走らせる。
今度は追撃してくる北条軍の鬨の声――追撃を防ぐため、供回りの部隊が殿を務め、一部隊、二部隊と減っていく……
そして義元の供回りがたった数十騎となった頃に、千を超える北条の軍が義元を捉えていた。
義元も馬を捨てて槍を取り、応戦を始めるが多勢に無勢――供回りの者達が次々と義元の前で屍に変えられていく。
「うう」
「立派な出で立ちだ――貴様が今川の新当主か?」
義元の前に、上等の甲冑を着込んだ長身の立派な男が前に出た。年齢は義元よりほんの少し上――まだ二十歳を超えたばかりという凛々しい武者であった。
「……」
近づけば突くという殺気を込め、槍を握りしめる。
「貴様はこの戦、駿河でどれだけの金と民が駆り出されたか理解しているか?」
「な、何?」
「戦の勝敗よりも、まず民の安寧を考え民が死ぬ戦をしないのが領主の務めだ。武田信虎はそれをせずに甲斐の民を相次ぐ出兵とそのための重税で苦しめている。貴様も同じだ。国を広げることしか考えず、兵の安全を考えずに無策で突っ込むなど――数千数万の兵の命を預かる大将の器ではない。貴様のような当主がいる限り、駿河の民が泣くことになろうな」
「な……」
「貴様のような男が、民の命を預かるな!」
それまで寺で暮らし、名門今川家の一族として生きてきた義元にとって、その若者の言葉は生まれて初めての全否定であった。
義元は北条を、父の部下であった伊勢新九郎が成り上がりで立てた田舎者と見くびっていたが、罠にはまった今、義元はそこに至るまでの北条の強き力の源――伊勢新九郎が応仁の乱の京で見た、戦禍に苦しむ民を救う国を作るという志を見た。
その正体を見た今、絶体絶命の危機の恐怖の前に、恥ずかしさが勝った。
自分の行動の軽薄さ、大名になったことの浮つきを指摘され、死にたいほど恥ずかしかった。
言い返したかった――やり返したかったが、それをすればするほど身勝手なものになることを義元は分かっていたのである。
「貴様は殺されぬであろう。一国の大名を捕縛したと喧伝すれば駿河や今川の名は天下の笑い者となろう。利用価値があるはずだ。生かして捕らえろ」
眼前の若者がそう部下に下知した時。
義元の背後から馬の嘶きが起こり、背中越しに無数の矢が飛んできたのである。
若者は自分に飛んできた矢を槍で払い飛ばす。
義元は後ろを振り向くと、今川の旗を背負った部隊が千騎程駆け付けていたのである。
「我が君! 後方にお下がりください! 雪斎殿が全軍撤退を進言しております!」
「雪斎が……」
後詰として駿河に残っていた雪斎が国内で義元の軍勢の背後を突く動きを止める際に、義元に撤退を進言し体勢を立て直す伝令を各所に放っていたのである。
「くっ……」
義元は認めたくない思いもあったが、ここで認めねば自分はあの若者の言うとおりの大将となってしまう……
「――全軍、撤退だ! この戦は我々の負けだ!」
こうして義元は命からがら駿河に撤退する。
だが北条の追撃は激しく、一度体勢が崩れた今川軍は、雪斎の機転で対処は早かったものの、河東(富士川より東側の地域、現在の静岡県富士市、富士宮市周辺)の支城を次々と奪われ、伊勢新九郎の大名としての基礎となった伊豆地方から西への領土拡大に成功した。
「義元の様子はどうじゃ」
義元が敗戦で帰ってきて数日後、今川館の寿桂尼は雪斎の許を訪ねていた。
「反骨心はあるお方です。へこたれはしません。今は薬が効いている頃でしょう。拙僧が様子を見てまいります」
雪斎はそう言って義元の私室を訪ねた。
部屋には六韜や孫子など、雪斎が寺での修業時代に授けた兵法書が床の間にまで置かれ、義元は目を充血させそれを読み漁っていた。
「――余程酷い負け方をしたようですな」
「雪斎、お前の言っていた無敗の軍を作る道、まだまだ遠い――私も今のままではいかんと悟ったぞ」
「あなたが当主となってまだ日が浅い――福島氏の支持者であった者達を懐柔もせず、天下を考えるのはちと早計でしたな」
「雪斎よ、すぐに奪われた領地を取り戻しに行けるか?」
「反撃をしたいのはやまやまですが、今は領主を一枚岩にし、民の慰労もせねばなりません。民は国の柱ですので」
「貴様もあの男と同じ意見か……」
義元は歯噛みする。
「くそぅ! あの男、私を大名の器ではないと抜かしおって!」
「何があったのですか?」
「先の戦場で私と歳近い一軍の将に出会ったのだ。立派な鎧を着ておったからおそらく北条の一族だと思うが……」
「それはおそらく北条氏康でしょう」
「何だそいつは」
「現当主氏綱の嫡男で、次代の北条当主です。あなたより少し年上ですが、初陣で関東管領上杉家を破る大功を挙げた戦上手です。伊勢新九郎や氏綱にも劣らない名将の器と関東では噂されている者です。既に『相模の獅子』と呼ぶ者もいるとか」
「相模の獅子――北条――氏康……」
義元はこの時、自分の進む道に一つの答えを見た。
自分と同世代の北条当主、氏康――奴を恐れさせ戦を挑ませない軍を作ることがこれからの私の成すべきことだ。
奴に私を恐怖させることが、最強の軍への道となる!
義元は今回の敗戦と氏康との出会いを機に、戦国大名として前進していくこととなる。
その折に義元の下に、新たな戦を招く火種が到着するのである。
三河の英雄、松平清康が暗殺された時、その嫡男、松平広忠はまだ十歳足らずであった。
松平家も織田信秀の織田家のように、宗家があり、分家があった。清康と広忠は宗家の人間であり、清康の三河統一は従わない分家の松平家の恭順を要求するものであった。
それは一時的に成功するが、清康が暗殺された隙を狙い、それまで清康と対立していた松平家の分家の人間が宗家の本拠地、岡崎城を占拠。
広忠はこれにより帰る家を失ったのである。
だが宗家の当主が生きていれば占拠した分家にとっては邪魔以外の何物でもない。広忠は伊勢に逃れて追手から逃げ、長い間隠遁生活を送っていた。
そのような状態の三河を他国が放っておくはずもない。尾張の織田信秀は清康がいなくなり分裂状態の三河に侵攻し、その領地を切り取りにかかっている。
その有様の中、広忠が義元に謁見を願い出に来たのである。
「広忠殿。そなたは清康公が身罷られてから、苦労もあったようじゃな」
寿桂尼が広忠を労った。
「して、わざわざ駿河を訪ねてきたその用向きは?」
「単刀直入に申し上げます。我が本拠、岡崎城の奪取に協力していただけますでしょうか」
広忠は深く平伏し、義元に乞うた。
「岡崎城を奪った分家の人間に、尾張の虎、織田信秀を退ける力があるとは思えませぬ。ですが今川なら――今川の力であれば父祖伝来の血を守ることはできましょう」
「広忠殿」
雪斎が口を開いた。
「その奪還に今川が手を貸した際、松平は今川に臣従する――というのはよろしいか?」
「無論です」
「その約束、口約束だけでは足りませぬぞ」
「信用していただけませんようなら、私の子――嫡男を今川に差し出しましょう」
「何?」
同盟は婚姻、もしくは子供を人質に出すのが通例であるが、嫡男である長男を人質に出すのは戦国時代でも例が少ない。他にこれをしたのは毛利元就など数例である。
だが嫡男を人質にするというのは、それだけ裏切らない心情を現していることになる。広忠の思いは本物であり、これ以上ない二心なしの誓いと言えた。
義元は心の奥でほくそ笑んでいる。
岡崎城を奪還し、広忠を帰還させればそこに臣従した広忠が三河を収める。
つまり労せずして三河一国が今川に落ちたも同然なのである。
既に駿河、遠江と二国を支配している今川にとって、分率状態の三河の一城を制圧することは非常に容易い。今川としても願ってもない話である。
「広忠殿、あいわかった。岡崎城への帰還、任せておくがよい」
上機嫌で義元は返事をした。
この時天文9年(1540年)――松平広忠は十四歳。
嫡男である竹千代(後の徳川家康)が生まれるのは、これより三年後のことである。