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1997年に会員制創作小説サークル「迷夢」8.0に掲載した作品。その時のテーマは「みち」。少しだけ修正をしました。バベルの塔の絵のパズルが作品中に出てきます。今年はブリューゲルのバベルの塔が日本で公開されました。どうしてもそれに合わせて投稿したくなったのです。
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体の力を抜きなよ、と笑う彼はやさしい。
寒いからと布団を敷いて二人でもぐり込んだその中は、すぐに温かくなった。この狭い部屋にはストーブがなくて、布団にもぐり込んでいるかコートを着ているかのどちらか。彼はこの先もストーブを買わなかった。それは知っている。なぜだかは知らないけれど。
力を預けてみたら。私を抱きしめる準備をして彼は言う。私の体からは力が抜ける気配が一向にない。彼の言葉に従おうと思うのに思い通りにならない。それも知っている。
寒いね。
だからこそずらす。がっかりした彼の顔を見たくなくて、視線を合わせずに壁を見る。一ピースだけぽかんと抜けたパズルが目に入る。バベルの塔の絵はブリューゲルが描いたのだったか。
天まで届け、われらこそがてっぺんだと。でも叶うことはなかった。
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写真なら自慢できる。撮る腕ではなく、撮った写真の数を。毎日デジタルカメラで撮影して、その日の写真をぜんぶ、撮影した日付の名前のフォルダに入れる。彼の顔。彼と一緒にいる私。街並み。近所の人。野良犬。目に入るものすべて写したい。いつでもどこでも立ち止まってあるいは歩きながらシャッターを切る私にあきれもせず隣にいる彼はすごいと思う。私なら嫌だ。そのくせ私はシャッターを切り続けることをやめない。不安だから。
人が歩いているのは未来に向かって。未来のことを人は知らずに歩く。私が歩いているのは過去に向かって。死からはじまり生まれるために生きる。
一般の人の未来を私は通ってきたけれど、それは過去へ進んだ分忘れる。一般の人と仕組みは同じ。ただ歩いている方向が逆なだけ。
写真は一般の人と同じ流れ。撮らなければ過去にならない。写真で私は軌跡を確認する。そのことを教えてくれたのは彼だ。
見たことのあるあの写真を撮ったのは、今日だったかと私がその時に実感するために。
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暇なとき、彼とジグソーパズルをする。この先も度々した。それほど私は気に入っている。ジグソーパズルの良いところは結果が出ているところ。パッケージの写真を見ながら、その写真通りにピースを組み合わせていくという、過程を楽しむ遊びに私は自身を重ねているのかもしれない。
ジグソーパズルは千ピースのバベルの塔。バビロンの未完の塔。神のいる天へ近づくためのもの。それを神におごりとみなされ、阻まれてついに完成しなかったという話がある。これは本か何かで蓄えた知識だと思う。
あれ? パズルに夢中で寡黙になっていた彼が口を開く。ピースが一つ足りない。
未完の塔の未完のパズル。
今探しても見つからないとわかっていても、この部屋にあることは確かなのだからと二人でそこらじゅうを探すが、結局見つからなかった。
そのうちに雨が降ってきて、私は外に出した洗濯物と観葉植物を取り込むことに追われてしまい、なくしたピースの事はどうでも良くなってしまった。
そういえば半年後の年末大掃除の時に、わけがわからない模様の紙片を私が見つけて捨てたのだった。今、思い出した。あれがなくしたピースに違いない。
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誕生日にハート型の葉っぱの観葉植物が送られてきた。見た瞬間に既視感を覚えた。観葉植物が大きくなった姿の映像が浮かんだのだった。もらった時は、こんなに小さくて葉っぱも少なかったのか。
知らないからこそ存在するときめきというものに私は無縁だ。あれば楽しいとは思うけれど、なくても困らない。この冷めた女を好きだという彼の心理はわからない。この先もそうだ。わからないけれど私を好きでいてくれるのはありがたい。
私ではなくまっとうな時間の流れの中に生きている人を、彼が好きになってくれればいいといつも思うのだけれど、なぜかそうならないことも知っている。まったく彼の心理はわからない。
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彼から一緒に食事をしませんかと誘われた。フィールドワーク好きを自称する彼らしく、焼き肉ログハウスを案内してくれた。神社にあるような長い階段を上り、受付を経て山の中に入る。モンゴルのテント式住居のような小さな小屋が点在している。その中のひとつで彼と私は向かい合って、焼き肉を食べた。世間話からはじめて自己紹介へと話題をつなぐ。私のよく知っている彼のこと。その初々しさが愛おしい。ようやく彼のぎこちなさが解けてきた頃、突然彼は言った。
おつきあいをして下さい。
実直で誤解を招かない言い方。態度は動揺を隠しきれていなかったが。照れているのか、まだ残っていた肉を、黙々と鉄板に並べてゆく。あとで焦がしてしまって食べもしないのに。
人生において選択があるとして枝分かれした道を一つ選べるのなら、私は試してみたいと思った。あえて拒否すれば、未来つまり私の軌跡は変わるだろうか。
ごめんなさい。
そう返事をしたつもりだった。が、目の前の彼は喜色満面で、鉄板の肉をひっくり返している。肉はすでに焦げかかっていた。
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借りていた傘が乾いた。
乾いて不恰好に歪んだ名刺を見ながら、私は電話をかけた。その人の会社は私の家から近い所にあったので、返しに行こうと思ったのだ。この時なぜ、電話をかけたのかはわからない。場所は知っていたから、こっそり傘立てに入れておけばすむことだった。その人も自分の傘くらい覚えているだろう。柄の部分がアヒルの形をしている折りたたみ傘だから他人のと見間違えることはまずない。自分の中の時間の流れゆえに、人とあまり関わりを持ちたくないと思っている私が、この時に限って関わりを持とうとした。その謎は、後になってもわからないとこの時点でわかっている。ただそうしたいと思ったのは事実でしかない。
会社のロビーに現れた彼は、笑顔で私を迎えてくれた。
やっぱり。あなたなら返しに来られるんじゃないかと思っていました。まさか本当に来られるとは思っていませんでしたけど。これも何かの縁ですから、今度お食事にお誘いして構いませんか。
彼にそう言われたとき、私はうなずいてしまった。たぶん彼の笑顔を壊したくなかったから。
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正月恒例の山登りへ参加した。普段は山登りなんてしないのに、この時はどうしても行きたくなった。
朝の空はすこし曇っていた。にもかかわらず、集合場所には多くの人が集まった。年配の夫婦や仲間、家族連れが多く、私のような年齢の人は見あたらなかった。
二時間もしないうちに頂上に着いてしまう。現地解散なので、私はすぐにもと来た道を引き返した。知り合いがいないのに群れの中にいるのは嫌いだ。
最初の分かれ道で私はすでに道がわからなくなっていた。この町は私の住む町ではなく、隣町。このあと一度も来なかった。道に迷ったことは覚えていても、どう迷ったのかはわからなくなっていた。前方に歩く人たちが見えたので、彼らについていくことにした。しかし、彼らは見慣れない道を行く。もと来た道は舗装されていたのに、彼らの行く道は土の道。それでもなお、彼らについて行く。そのうち私のうしろに一人ついてきた。分かれ道にさしあたって、前を歩いていた彼らは右を、後ろを歩いていた若い男は左を目指すという。私はどちらへ行くべきか悩んでいた。前を歩いていた人たちは早くも右の方へ歩いていってしまった。戸惑っている私に若い男は道案内をしてくれた。山から見える橋の右側が駅の方角、左側が国道の方角。男は国道へ向かうという。私は駅の方へ行きたかったが、一人で知らない道を歩くほど不安なものはないと気弱になってしまい、男と同じ方角だと嘘をついた。国道に出てからでも駅には行くことが出来るのは知っていた。問題はない。
道すがら、男は自分の身の上を世間話程度に話した。この町に住んでいて、私の住む町で仕事をしている。山登りは好きでよく出掛ける。この山に登るのはこれがはじめてだと言う。このあと彼からは何度も山登りのことは聞いたんだった。中に何が詰まっているのか彼が背負ったリュックは、はちきれそうになっていた。
道を進むうちに突然の雨に出くわした。男はリュックから折りたたみ傘を取り出し、私にも差し掛けてくれた。傘は柄の部分がアヒルの形をしていて、男の人の持ち物にしては妙に可愛かった。馴染みのある傘にホッと気がゆるんだ。
雨はなかなかやまず、国道に出た時もまだ降り続けていた。
まだ歩くのですかと男は私に尋ねた。自分の家はすぐ近くなので、と私に傘を差しだし、自分はウィンドブレーカーのフードを被った。傘は返さなくてもいいと言う。ためらっていると彼はまたリュックをごそごそして、名刺を取り出した。名刺に雨粒がかかり、たちまちのうちに濡れそぼる。
あなたは気にする人のようだからと男は言って、私に名刺を押しつけた。
じゃあ、と手をふって彼は走り出した。濡れた名刺をどこにしまおうかと、一瞬私は立ち止まって考えた。雨足は強くなっていくばかりだ。
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そのとき、私の頭の中には砂時計の映像があった。ふたつの同じ大きさのガラス。そのふたつをつなぐ細く短い道。砂は必ずふたつのうちどちらかに溜まっている。砂の量は変わらない。ただ、どちらかに移動するだけ。移動しているその間だけ、そこに時間は流れる。そもそも砂は最初どちらにあったのだろう。何度もさかさまにしているうちにわからなくなってしまっている。最初なんてあるのだろうか。
そんなことを考えながら朝、駅に向かう。鞄から定期券を取り出す準備にかかる。そこでいつも頭の中に彼の写真が映像として割り込んでくる。けれどあまり気にとめない。もう当たり前のこととして私の中にあるからだろう。
横断歩道にさしかかる。信号は赤から青へ。たくさんの人がこちらへ向かって歩いてくる。けれどこちらから行くのはいつも私ひとり。こちらへ向かってくる人の顔。顔の洪水。
あ、デジャヴ。
たくさんの中に彼の顔。いつも頭の中にある写真の彼。彼はまっすぐこちらに向かってくる。私もまっすぐそちらへ向かう。すぐそばまで行って、手が届きそうなくらい近づいて、お互い通り過ぎる。
横断歩道を渡りきった後、私は振り返る。人波にもまれて彼の後ろ姿はもう見えなかった。