表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
151/174

第152話  社会派紳士誕生



 鈴木太郎すずき たろうは我慢していた。何をそんなに我慢する必要があったのだろうか。だが小学校という閉鎖された空間で、皆と違う行動を取るという事はそれだけで、からかいの対象になる。


 太郎は小学校低学年の頃は大変大人しい性格をしていた。自分で声を出す事も少なく、ましてや声を掛けられても口数は少なかった。いじめられるほどの標的になる事もなかったが、今現在の状況は致し方ない事だと思われる。


「で~ この問題は~」


 一分一秒が長く感じていた。教師の声など耳にも入っていないだろう。太郎はずっとトイレに行くのを我慢しているからである。猛烈な尿意。それを我慢し続けられる精神も身体も出来上がっていなかった。


 ついに決壊の時が来た。流れ出てしまえば早いもので、椅子を十分に濡らした後には、表面張力からこぼれ落ちる水のように、尿を床へと垂らしていった。その異常な光景はすぐに級友たちに見つかる。


「せんせ~ すずきくんがオシッコもらしてま~す」


 太郎の身体が震え上がる。一度流れ出た尿は止める事も出来ず、盛大に漏らしていた。


「わ~ きったね~」

「こいつオシッコもらしてやんの~」

「だっせ~」


 心ない言葉が太郎の心を揺れ動かす。だが太郎はまだ知らなかったのだ。この程度の言葉や目線がどれ程に気楽だったのかを。


 ガタッ


 憔悴しきった太郎は椅子から落ちて、自身が垂らした尿の川へと身体を落とす。その瞬間に周りに跳ねる自身の尿。


「いやっ!」

「きたな~い」


 今まで事の成り行きを見守っていた、クラスの女子も抗議の声を上げる。それを皮切りに、太郎の精神は限界を超えた。


「おっ おぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」


「ぎゃー!」

「……うっわ」

「……マジかよこいつ」

「……さいあく」


「おっえ おぅ おろろろろろろろっ げふっ! げふっ!」


 誰もが太郎から距離を取った。まるでそこに爆発物が仕掛けられているように、クラスの皆が避難する。クラスの担任がようやく動き出して清掃用具を用意する。雑巾で流れ出た小便を数回拭いたが、水が必要と思い、そのままバケツを持って廊下に行ってしまった。


「……なんなんだよコイツ」

「……くっさ」


 小便を漏らした時よりも、強烈な嫌悪感がクラス内を支配していた。担任という唯一の希望を失った太郎は、自身の精神を保護する為に強制的に意識をシャットダウンしようとした。もちろん無意識でだ。


 だが薄れゆく意識の中、たった一人の女の子だけは太郎を心配していた。太郎の見た事のない少女。こんな女の子、クラスにいたかな、という所で意識は切れかかる。意識が途切れる最後の瞬間に聞こえたのは、その優しい優しい女の子の声だった。


「大丈夫……?」




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 その事件から一週間が過ぎた。太郎は学校に通う事なく、自室に籠もっている。幼い彼にとって人間の強烈で、むき出しの嫌悪感に耐えられる筈もなかった。当然のように学校を休み、何する訳でもなく、ベットの上に転がっている。


 あの事件後は太郎は自宅でむせび泣き続けていた。泣いても泣いても苦しさは取れず、より当時の状況を思い出すだけ。しかし泣くという行為は意外に疲れるもの。いつしか泣く回数が少なくなっていった頃、考えるのはいつもあの女の子の事だった。


「あの子…… だれだろう……?」


 太郎の疑問はもっともだった。何せクラスにはいない女の子。他のクラスの女の子だろうか。太郎は人付き合いが苦手だったので、他のクラスの事までは分からない。それでも、あんな特徴的な金色の髪をした女の子を見忘れる訳ではないとも思っていた。


「きれい…… だったよね……」


 初めてそういった感情を知った。太郎はその女の子の事をずっとこの一週間考えていた。太郎の事を心配してくれた優しさも心に響いたが、どうしてもあの綺麗な金色の髪が頭から離れない。


「かわい…… かった…… よね……」


 同じ子供とは思えない程に整った顔をしていた女の子。太郎は布団に顔を埋めながら、この淡い気持ちに耐え続けていた。すると誰もいないはずの自室に声がかかる。


「大丈夫?」

「えっ!?」

「大丈夫?」

「えっ!? ど、どうして…… こ、ここに……?」


 太郎は信じられなかった。今の今まで頭の中に描いていた、その存在が目の前にいるのだ。


「大丈夫? 元気になった?」

「あ、う、うん」

「よかった。心配したよ」

「ご、ごめんね」

「ううん。謝らないで」

「う、うん」


 どうやって部屋に入ってきたのだろうと太郎は考えたが、玄関から上がって来たに決まっている。そう当然の事を頭に浮かべて、その子と正対する。


「ぼ、ぼくね。すずきたろう」

「知ってるよ」

「そ、そう。じゃ、じゃあキミは?」

「……」

「……どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 本日を含めて、何回も何回も太郎はその女の子の名前を聞こうとした。だがその子はいつも名前を教えてくれなかった。「内緒」と一言いって終わってしまうのが、いつもの流れとなった。


 退屈な日常が楽しいものに変化した日でもあった。その女の子は、学校が終わる時間に来てくれたり、たまには午前中からずっと夜までいてくれた時もあった。太郎は少なからず心配した。まさか学校に行ってない時があるのではないだろうかと。そして、いじめられたりしていないか、とても心配になった。

  

 だが幸せな時間は長く続かなかった。太郎の両親は夫婦共働き。いつもなら帰ってこない母親が、その日に限って午前中に戻ってきてしまったから。女の子と夢中になって話していた太郎は、母親の帰宅に全く気が付かなかった。


「でね。これが本当におもしろいんだ」

「ふふっ 面白いね」

「でしょ! それで……」

「太郎!!!」


 勢いよく開かれたドア。そこに立つ母親の顔を見て太郎は驚いた。学校を休んでいる事は両親とも知っている。だが学校の女の子と一緒に遊んでいる事は内緒だったからだ。しかも学校のある時間に遊びに来てくれている女の子。太郎はこの女の子が怒られてしまうんじゃないかと心配した。


 だが太郎が思っていた事にはならなかった。何故なら母親はものすごく悲しい顔をしていたから。だが、一番驚いていたのは母親であった。


「誰と喋ってるの!?」

「ご、ごめん。お、おこらないで。ぼくを心配してきてくれたんだ。この子は」

「あっ……」


 くずれ落ちる母親。


「ほ、本当にごめんなさい。で、でも、こ、この子は悪くないから」

「どこにいるの!? 貴方しかいないじゃない!?」

「え?」

「じゃあ名前はなんていうの!?」

「えっと…… ナイショなんだって…… 教えてくれないんだ……」

「ほら!? おかしいでしょ!? いないの! あなたの横には誰もいないのよ!」

「え? だって…… いるよ……? ほら? 女の子が?」

「いいから来なさい! 出掛けるわよ!」


 結局怒らせてしまった事を後悔した太郎。女の子に挨拶する事も出来ず、外に連れ出されてしまう。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 連れてこられたのは大きな病院だった。太郎は何故病院に行く必要があるのか理解出来なかったが、必死そうな母親の顔を見て止める事は出来なかった。


 そこで太郎は優しそうな先生に色々な事を聞かれた。いつからその女の子と遊んでいるか。女の子の名前。住んでいる場所。趣味。何をして遊んだか。

 うんうん、と優しそうに頷く先生に嬉しくなって、いっぱい話した太郎。後になって少し後悔もした。それはあの子との大切な時間を、二人だけのものにしたかったからだ。


 太郎と入れ替わりで、母親が診察室に入ってくる。太郎は看護婦さんに付き添われるようにして診察室を出た。廊下にあるベンチに腰掛けて足をブラブラさせる。太郎は早く帰ってまたあの子に逢いたかった。


 長い時間待たされた太郎はトイレに行きたくなる。丁度、母親が診察室から戻ってきた。一つ母親に告げて太郎はトイレに向かう。トイレの事を考えると吐き気を催すようになった太郎。だが今はあの女の子の事で頭がいっぱいだった。


 何の気なしにこの病院に興味を取られて、ぐるっと一回りしてから戻ろうと病院内を探検する。いつもならこういった事はしないのだが、あの女の子に病院の事を話そうと思って実行した。


 たまたま誰もいなかった場所に勝手に入る太郎。ドキドキしながら散策していると、急に大人の声が聞こえたので、隠れた。意外に見つからないもんだなと、少し興奮したのを覚えていた。そこにいたのは他の先生と話す、先ほどの話を聞いてくれた優しい先生だった。


「あ~ 忙しいよホント。そっちは?」

「いや、よくある話さ。だけどお母さんが凄い心配性で……」

「よくある話?」

「イマジナリーフレンドさ」

「あぁ。空想の友達って奴か。実際にはいないのにってか?」

「子供の頃にはよくある事だからね。俺も目に見えない友人に全てを話したいよ……」

「ははっ 俺でよければ聞いてやるぜ」

「お前はすぐにバラしそうだから駄目だな」


 急に心が冷え切っていった太郎。信じていなかったんだ。あんなに熱心にあの子の事を聞いてくれたのに。そう思うと途端に裏切られたように思って悔しくなってしまう。何故、あんなにいっぱい大事なあの子との時間を話してしまったのか。そう後悔する。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 

 太郎は悔しかった。誰もあの子の事を信じてくれないから。でも本当にいるんだ。ここに。そう思うも大人達は一向に信じてくれない。もしくは信じたフリをするだけだ。けどどうでもよかった。その後も一緒にあの子がいてくれたから。


「こないだはごめんね」

「ううん。大丈夫だよ。あの後に怒られなかった?」

「おこられはしなかったかな」

「よかった。でもね……」

「なに……?」

「私も謝らなきゃいけない」

「なにを?」

「もうね。逢えないんだ」

「!? どうして!? ぼくが何か悪い事した!?」

「ううん。違うよ。あなたは何も悪くない」

「じゃあ、母さんがあの時におこったから!?」

「ううん。それも違うよ」


 太郎は色々な事を聞いてはみるが、全く心当たりはなかった。すると女の子はその場で立ち上がり、太郎の身体を抱きしめた。


「あっ……」

「ごめんね。もういられないんだ…… ここに……」

「どうして…… ねぇ…… どこに住んでいるの……? ぼくぜったい遊びに行くから!」

「……」

「どうして教えてくれないの……? ぼくの事がキライなの……?」


 太郎はもう一度女の子に抱きしめられた。今度は息が詰まるほどに強く抱きしめられていた。


「そんな事…… 絶対にないよ……」

「うん……」

「元気でね…… ずっとずっと元気でね…… さよならだよ……」

「イヤだよ! なんであえなくなるの!? どうして!? キライじゃないんだったら教えてよ! キミの事を教えてよ!」


 女の子は首を振る。それが太郎には拒絶のように感じられ、そこで蹲るようにして泣き出す。


「どうして~ なんで~ うっ うぅ~ うぅぅ」

「……どうしても逢いたい?」

「あいだい! あいだいよ!」

「一つだけ教えてあげる」

「う゛…… うん!」

「紳士」

「……し、シンシ?」

「そう。社会派紳士だって」

「しゃか……?」

「社会派紳士」


 太郎は忘れないようにノートにひらがなで、女の子の言った言葉を書いた。


「これでいいの?」

「うん」

「シンシになればいいの?」

「そう。優しくて、明るくて、勢いがあって、それでね、女の子の事が大好きな紳士に」

「うん! わかった! ぜったい! ぜったいシンシになる!」

「じゃあ学校にも行く?」

「行く!」

「紳士になる?」

「なる!」

「じゃあまた逢えるよ」

「いつ!?」

「ちょっと先になるけど逢えるよ」

「分かった! ぜったいだよ!? ぜったい!」

「うん。わかった。じゃあちょっと目を瞑って……」

「うん!」


 そうして太郎は女の子に口づけをされた。驚いた太郎が目を開けた時には、女の子はいなくなっていた。だが最後の最後に名前を呼ばれた気がした。


『タロさん…… さようなら……』




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「いなくなっちゃったの?」

「いなくなった」


 太郎は大きな病院の診察室にいる。お馴染みになった先生。物怖じをせず話すようになった太郎を見て先生は少し驚いていが、端的に話す様を見て一つ頷いた。


 嬉しそうに診察室から出てくる母親を見ながら病院を出る。ずっと笑顔な母親を見て、太郎の心が少しずつ固まっていく。


 自宅に着いて靴を脱いだ瞬間に、太郎は母親に抱きしめられた。


「もう見えないのね?」

「うん」


 機械的にそう答える太郎。


「本当に?」

「うん」


 どうでもよかった。


「よかった…… 本当によかった…… 本当に心配したんだから…… うっうぅ……」


 その瞬間、両親に対する太郎の心は定まってしまった。決して解けない氷を身体の中に抱える事になる。太郎は悔しかった。理解出来なかった。何故、あの子がいなくなるのが泣くほど嬉しい事なのか。


 でも関係が無かった。だって大人は分かったフリをするか、分かってくれないって事が、少なくとも太郎には理解出来たから。波風立てないように母親を振りほどき自室へ向かった。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 次の日の朝。太郎は悠然と登校する。陰口を叩かれながらも教室の一歩手前まで行った。一回軽く深呼吸をすると、勢いよく扉を開け放って挨拶した。


「みんな! おはよう!」

「……」

「……」

「……」

「……」


 誰も挨拶を返してこない事など、全く気も止めず席に着席する。クラスのリーダーと取り巻きが太郎に寄ってきて、からかおうとする。


「ちゃんとトイレ行ってきたか?」

「ぷっ」

「また、オシッコもらすんじゃね~の?」


 今までだったら俯いて何も出来なかっただろう。だが太郎はもう紳士なのだ。社会派紳士になったのだ。


「そうなんだ。オシッコはしてきたけど、ゲロはまだだ」

「ぷっ」

「なんだよお前。そんなキャラだったっけ?」

「いや、生まれかわったんだ」

「生まれかわった?」

「頭おかしくなった?」

「こないだオシッコもらしてゲロはいたろ? あれがオレの悪の部分だったんだ。だから今日からオレはシンシ! しゃかいはシンシなんだーーーーー!!!!!!?」

「やっぱこいつ頭おかしくなったよ!」

「なんだよ、その何とかシンシってのは!?」

「実はオレも分からん」

「ぷっ! お前も分からないのかよ!」

「けど、とりあえずシンシなんだ! よろしくな!」

「あぁ、ゲロはきシンシ!」

「おもらシンシでもあるな!」

「「「「「 あはははははははは 」」」」」


 こうして太郎は生きて行く。生まれ変わる事は出来なかったが、社会派紳士という仮面をかぶる事に成功した太郎。いずれその仮面が太郎自身になった時、再び彼女と出逢える事を信じて。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ