焦燥
現場は凄惨の一言に尽きた。
周囲を警戒している者達もいたが、幾人かは壁となってその場を隠している。隠さなければならないような、現場だったと言える。
遺体は三つ。
永穂道場にとって、それはけして看過し得る事態ではあり得なかった。内弟子の中でも上位に位置する剣士が倒れたのである。
永穂四天王の一角を崩す、それほどの剣客がどこにいたものか、事態は深刻だ。
最初に到着した時の新次郎は、半分我を失っているような状態だった。紗雪を失ったのではないか、その恐怖が彼を縛り付けていたのである。だが、その場の遺体は三つ。みな、紗雪の護衛についた永穂の門弟達だ。
新次郎が、本当に総毛だったのは、まさにその瞬間である。
紗雪は、拐かされたのだ。
三人の内、一人は不意討ちを受けたようだった。刀は抜いておらず、後ろから腰椎を断たれている。遠山要介、即死。
二人目は刀を抜いている最中に小手を落とされていた。抜刀の機先を制された事になる。そこから返した刃が、その首を薙いでいた。抵抗は出来なかったろう。斉藤杢造、即死。
そして三人目、持田甚之丞。
左の肩口に刺突、それが引き抜かれざま袈裟斬りに変化したようだ。ただ一刀である。刀身には刃こぼれと、僅かな曇りが残っていた。一合、摺り合わせたのだろう。
それは恐るべき事態と言えた。
止まっている相手を斬る訳ではない。お互いに動き続けながらの攻防なのである。そんな中で完全に機先を制する為には、相手を上回る圧倒的な速さが必要だ。あるいは完全に、相手の動きを見切る事が。
二人の未熟な門弟が斬られた事は、だからこそまだ分かるとは言えた。
だが、持田は仮にも、永穂四天王の一角である。それを圧倒的に凌駕しうる剣客の数など、おそらく藩中でも十指に満たない。
実力差が敗因とは考えにくかった。
剣の闘いは根本のところで言えば、相手との読み合いが中心だ。隙を見抜きさえ出来れば、後は太刀行きの速さが結果を決める。
その隙を読ませぬ為、そして相手の隙を誘う為にこそ、技は磨かれるのだ。
持田はその読み合いに敗れたのだろうか。
だが。
(この太刀筋、永穂のものではないのか?)
持田の遺体を見た刹那、新次郎の胸に疑問が湧く。
相手の剣の位置や動き、視線の向きなど様々な要素を見極め、そこから次の動きを予測する。それが剣を読むという事だ。
だがその時、相手がどう動くかあらかじめ分かっているとしたら?
相手の動きを予測するまでもなく、知っているとしたら?
「師範代が斬られちまうなんて、やっぱ多田さんが……」
その呟きは、誰に放たれたという訳でもない。思わず口をついた独り言であったろう。
だが、それを新次郎は聞き咎めた。
「村野、もう一度言ってみろ」
「えっ、あっ、あ、済みません、あの、その……噂なんですけど……」
村野利助は表情の端々にあどけなさが見える、まだ若手の門弟である。いきなり師範に名指しで呼ばれ、かなり動転していた。
同じ噂を共有しているものか、同年代の門弟達としばらく気まずげに視線をやり取りしていたが、すぐに意を決する。
「道場生とはいえあっさり斬られすぎてるもので、身内の仕業じゃないかって最初は冗談で言ってたんです。けどそしたらその時から多田師範代も行方不明になっちまってて」
「冗談では済まない話をしているな、貴様ら」
「うっ、す、すみません」
その時新次郎の脳裏には、常に温和な笑顔を浮かべた真ん丸顔が浮かんでいた。
多田継治は永穂四天王の一角を担う内弟子で、師範代筆頭でもある。
内弟子達の中でも四天王は特に永穂家子飼いと言っても良く、立場上、永穂家の秘事にも詳しい。新十郎と新次郎の関係を知る僅かな身内でもあった。
中でも多田は、年が近い事もあり兄の信頼が篤かった事を新次郎も覚えている。
「多田は修練中の怪我で自宅療養中、そう伝えた筈だ」
うつむいて縮こまる村野を一瞥しながら、だが新次郎はそれ以上構わなかった。今、新次郎の胸には疑惑が渦巻いていたのである。
三日前起きた最初の事件の時、新次郎はその場に居合わせなかった。だから、どう斬られたのかを新次郎は確かめていない。
その時の太刀筋も永穂の剣に似ていたというのだろうか。しかも門弟達の間で噂になるほどに。
そして、多田が実際にどこにいるのかを、新次郎は自分の目で確かめたわけでもない。
もし多田ならば、永穂の剣を見切る事もたやすいだろう。
(まあいい。自分の目で確かめるまでだ)
内心で言い捨て、新次郎は踵を返した。
「遺体の処置は任せる。衆目には晒すな」
「はいっ。あの……師範はどこへ?」
「知れた事、下手人を追う」
「待てい、新十郎っ!」
門弟達に後を任せ、新次郎は振り返ろうとも思っていなかった。今の彼の関心事は紗雪の安否、ただそれだけだったのである。
だが、そこに制止がかかった。本陣から駆け付けてきたのだろう、父が追いついてきたのだ。傍らには四天王の残り二柱、増田と広田も控えている。
「……父上」
「新十郎、役目は分かっておろう。控えよ」
新九郎の処置は手早いものだった。呼子の召集で次々と集まってくる門弟達をいくつかの班に分け、一隊を残し下手人の捜索に当たらせる。残された一隊の役目は遺体の処置だ。
「新十郎、この件は我らに任せよ。お前は試合に集中するのだ。永穂家代々の悲願ぞ」
「まだ時間はあります。お願いです、父上。行かせて下さい」
「ならぬ」
門弟達は速やかに行動を開始していた。人波が去ってゆく中、親子二人が睨み合う。
「父上、この我が儘だけは認めて下さい。私は拐かしがどんなに惨いものか知っている、よく知っているんです」
父は頑固だったが、新次郎も負けていない。結局は似たもの親子なのである。
だが、今回の分は、新次郎にあった。
今、新次郎を突き動かしているのは、いかなる正論をも薙ぎ払う感情だったのだ。
もはや論議は無用とばかりに、新次郎が背を向ける。
「行くな、新十郎。試合前に万一の事があったら何とする。相手は永穂の剣を知り尽くしておるのだぞ!」
新九郎の声は半ば悲鳴のように、新次郎には聞こえていた。だが、その言葉は決して歩みを止める力を持ってはいない。
(やはり、多田か……)
父の言葉に、新次郎は確信を得る。多田は内弟子の中で最も腕が立つ男だ。道場で竹刀を取っては、新次郎とて勝てるとは言い切れない。父もさぞ心配だろう。
だが、殺し合いなら。
皮肉気な笑みを浮かべ、一言、言い放つ。
「永穂の剣に『新十郎』が負けては、話になりますまい」
そして、隠業の男は走り始めた。
ただ一心に、前だけを見詰めて。




