葛藤
道なき道を抜け、木陰を縫いながら慎重に、紗雪は歩き続けていた。
本当は走り出したいくらいなのだが、下生えが歩を妨げてくるし、また、見咎められるかも知れないという恐怖が彼女の動きを押し止めている。
動き易いようお勝の着物を借りてきたのは正解だった。いくつか鉤裂きが出来てはいるものの、頑丈一点張りの布地はまだ、破れる気配も見せない。それでも小枝が着物に引っ掛かり、草が脚にまとわりつく。
苛立ちは焦りに変わりつつあった。
自分がどこを歩いているのか、それが不安になってくる。実は気付かない内に冥府に迷い込んでしまったのかも知れない。
じきに地獄の鬼が肩を叩いて……。
「紗雪殿」
いきなり掛けられた言葉は、紗雪の心臓をきっかり二秒は止めたかも知れない。
焦りと疲れからずっと足元ばかり見ていた視線を上げれば、いつの間にか「新十郎」が立っていた。彼女にしてみれば、音もなく、である。
新次郎には別に紗雪を驚かせるつもりなどなかったから、別段気配も隠さず、足音も消さずに来たのだが、どうやら紗雪の方には、気が付く余裕もなかったようだった。
そっとかけた声に対する驚き様に、かえって新次郎の方が面食らっている程である。
双方、一瞬言葉を失い、しばらく気まずい沈黙が続いた。
と、新次郎の方から最初に口火を切る。
「無茶をなさる。ここは今日、立入禁止ですよ?」
「……分かって、います。でも……」
「嫁入り前の娘が、社の森で男と密会。あまり良い話とは言えませんよ、戻りなさい」
「……随分と他人行儀ですのね」
「……」
「婚約を破棄した女とは、口もききたくないのですか?」
「そうじゃない」
「否定するのはそこなんですか! 婚約破棄なんて嘘だとは、言って下さらないの? 何故です! 私、何かしましたかっ?」
「違う、あなたのせいではない」
「だったら何故! お家の事情というなら、まだ分かります。でも、そうじゃないんでしょう? 新十郎様、今になって急にあなたが嫌だと言う。どうしてなんです?」
「……なんですって?」
「断る理由を教えて下さい。私のせいなら言って下さい。でないと謝れもしないじゃないですか。いきなり離縁だなんて、酷すぎます」
紗雪の激情をまともに受け止めながら、新次郎は唖然としていた。
父、新九郎に裏切られたのだ。
婚約破棄の理由は、まさに家の事情による。篠田家への正式な通知こそ父に任せはしたが、だからこそ彼は紗雪本人に手紙を送ったのである。
だが、紗雪の元に届いたのは新次郎の手紙だけだった。永穂家は、婚約を破棄しなかったのだ。
確かに直前での破談など、決して良い話ではない。様々に勘繰られ、探られる事になる。
下手に波風を起こせば、藪をつついて蛇を出す結果にもなりかねない。
新十郎が既に亡いという重大な秘密も、どこから漏れるか知れたものではなかった。紗雪一人の犠牲で危険を冒さずに済むなら、そんな安い話はないといったところである。
父がそう考えただろうことが、新次郎にははっきりと理解が出来た。理解出来てしまった。
だが、どれだけ紗雪に泣かれようとも、そんな事を真っ正直に話せるわけがない。
家の事情こそ、明かせる筈がないのだ。そして、新次郎には他に答えられる理由がない。
今まさに、新次郎は八方塞がりの中にいた。
愕然として言葉を失い、立ち尽くす新次郎を見て、ふと紗雪の怒りが弱まる。
言うに言えない何かを抱えて苦悩するその姿。それは確かに、彼女のよく知る「新十郎」の姿であったのだ。
「……紗雪殿、済まないが、今は戻っていただけないか。答えは必ず、後日……」
絞り出すような新次郎の言葉に反駁しようと思ったなら、いくらでも噛み付く事は出来たのだろう。先刻までの紗雪なら、或いはそうしていたかもしれない。
だが、その時紗雪はなぜか、頷いてしまっていたのだった。
苦悩に身動きが取れなくなっている新次郎の様子は、どちらかと言えば弱々しく、武辺の剣客「新十郎」とは思えない姿だ。
だがそれは同時に、彼女だけの知る新十郎、その本当の姿でもあった。
そのせいかも知れない。今一度、「新十郎」を信じてみよう、紗雪はそう思ったのである。
「じきに門弟たちが来ます。送らせましょう」
新次郎の耳には、随分と前からこちらを目指す、門弟達の騒めきが届いていた。
仮にもここは、永穂道場の警戒網の内である。これだけ大騒ぎして気付かない筈がないのだ。
驚いたのはこの場に駆けつけた門弟達の方だろう。結界の内に妙な騒ぎを察して来てみれば、陣内にいると思われていた新十郎師範の姿がそこにあったのだ。それだけでまず護衛失格である。
まして一緒にいるのが篠田の雪姫とあっては、門弟達の理解など遥か彼方と言っていい。
そして、雪姫に対する門弟達の態度がまた一つ、新次郎に確信を与える。婚約破棄の話など、欠片も進んでいなかったのだ。
「頼むぞ、持田」
「はっ」
新次郎の頼みに頑固そうな感じで頷いたのは持田甚之丞。永穂応現流を正式に学ぶ内弟子の中でも一、二を争う腕を持ち、永穂四天王の一角として恐れられている男だ。
客人を送るだけとして考えれば、破格の人選と言えた。それが罷り通るのは、門弟達の中で既に、紗雪が新十郎の正夫人として認識されているからに他ならない。
持田の他に二人、若手の門弟が護衛として付き従い、紗雪は帰路につく事になった。
「新十郎様」
別れ際、どこか哀し気ではあったものの、紗雪は新次郎に微笑みかけていた。
そして、深々と頭を下げる。
「御武運を、お祈りしています」
「……ありがとう。道中無事で」
「はい」
それきり、紗雪はもう振り返らなかった。
紗雪達の姿が見えなくなるまで見送ってから、新次郎は踵を返して本陣に向かう。
目指すは父、新九郎義忠である。
どうにもしがたい怒りとやるせなさを、新次郎は感じていた。
手段を選ばぬ父の手法は受け入れがたい。
だが、それが全て永穂家のためである事もまた、疑いようがなかった。
翻って己を見れば、その大義のもとで何人、斬り捨ててきた事だろうか。
そういう意味で新次郎には、新九郎の思いが理解出来てしまう。本質的な部分で、新九郎と新次郎のやっている事は、何も変わりがないのである。
違いがあるとすればただ一点、紗雪に対して割り切れるか、割り切れないか、ただそれだけだ。
だが、そんな新次郎が本陣に辿り着く事は、ついになかったのである。
不意にうなじの毛が逆立つような、ある意味で慣れ親しんだ感覚を新次郎は感じた。
それはあまりにも、彼の生きてきた世界に近しい。つまりは、殺気である。そして、その瞬間、弾かれたように彼は走り出していた。
殺気の出所、その方向が、まさに紗雪達の去った方向だったのである。
走る新次郎を追い立てるかのように、緊急呼集用の呼子の音が響き始めていた。




