想い
御前試合会場となっている社の森は、広かった。
そして、静かだった。
神木の前が大きく開けていて、ちょうどそこに幾重にも陣幕が張られている。
一見したところ、まるで戦陣と言っていい。
顔見せ、口上の儀はつつがなく終わり、午後の本戦を控えて、新次郎ら出場者には一時の休息が与えられている。
一際立派な中央の陣幕内からは、雅やかな楽の音が漏れ聞こえていた。重臣達や招待客を前に、奉納の舞が行われているのだ。
その喧噪を離れ、新次郎は森を歩いていた。
必要以上とも思える厳重な警戒態勢が敷かれた永穂家の陣、そこに戻る気にはなれずに抜け出してきたのである。
この御前試合に先立つ事三日。城下では辻斬り事件が発生していた。
犠牲者が永穂道場の門弟であった事から、藩武芸指南役を巡る暗闘の一部、との噂が根強く広まっているようだ。
事の真偽はともかくとして、その時点から永穂道場は厳戒態勢とも言える警戒網を敷いている。
もしこれで内弟子、つまりは永穂応現流の師範代を務める実力者が斬られでもしていたなら、仕官話など一発で消し飛んでいた筈だ。
辻斬りに劣るような流派を、指南役に据える藩などない、という理屈である。
この御前試合に全てを賭けている永穂家が、だから敏感にならない筈はなかったのだ。
微かな楽の音の名残を惜しみながら静まり返った森を歩いていると、少しは気も晴れる。
そこにいるのは、ただ己一人。
一人きりの世界。
それが、そのまま新次郎の生きてきた世界だった。
だから安心できる、とでも言えようか。周りを気にしなくて良いというのは、確かに新次郎にとって楽な事だったのである。
警戒網は門弟達が敷いているのだから、新次郎がここで気を張る必要もない。
気侭に森を散策するのは、とても楽だった。
これまでずっと、公的にも私的にも、新次郎という人間は、いないに等しかったものだ。
唯一の隠業伝承者たる身、道場で仲間と汗を流すような世界とも無縁だった。
影働きなど最たる例で、己の才覚以外全く頼れるものなどない。たった一人任地に赴き、そして指令を遂行する。
最初から、最後まで、たった一人。
最初から、最後まで、ずっと一人。
新次郎の生きてきた世界が、それだった。
ところが、そんな彼だけの世界にたった一人、踏み込んできた人物がいる。
兄ではない。ましてや父などでもない。
世間に許される想いかどうかは二の次だった。ただ、新次郎は出会ってしまったのだ。
きっかけは兄の代役だった。
「新十郎」として、婚約者たる雪姫、篠田紗雪と会う。
それが始まりだった。
いつからか、新次郎は待つようになっていたようだ。「新十郎」として紗雪に会いに行く事を、である。
もちろん、あくまで代役であり、どこまで行っても命令ではあったが、それでも、いつしか会える日を、待つようになっていたのだ。
理由など、彼自身にも分明ではない。
ただ、感じていただけだ。
彼女の笑顔は、決して「新次郎」に向けられたものではない。だが、同時に、「新十郎」に向けられたものでもなかったのである。
もちろん紗雪は、相手を新十郎だと信じていただろう。それでも、彼女の笑みはその場にいた彼に、彼女と向かい合っていた新次郎自身に向けられたものだったのだ。
婚約者だから笑顔を向けてくれたわけではない。「新十郎」だから笑ってくれたわけでもない。
それは新次郎の生まれて初めて得た、人間としての付き合いと言っていい。
新次郎の生き方、人生にはまず役目があった。新次郎の被った、被らされた仮面が、周りの人間と付き合っていたのだ。
そんな中で紗雪だけが、仮面の奥の新次郎を見つけてくれたのである。
その瞬間、新次郎の中で紗雪が大きな意味を持ち始めたのだった。
恋や愛、といったものではない。
簡単に言ってしまえば恩人、とでも言えようか。
たった一人、仮面の奥の新次郎を見つけてくれた人。たった一人、新次郎と人間として付き合ってくれた人。
新次郎にとっては何者にも代え難い、正に恩人となったのである。
その時から雪姫という存在が、新次郎の中で不可侵の聖域となったと言っていい。
だからこそ、彼は「新十郎」の代役を務める上で条件を出した。生まれて初めて、与えられた役目に注文を付けた。
条件、それは篠田紗雪との婚約破棄である。
元々、代役任務自体がそう長くなるものではなかった。
いかに影武者として育てられたとはいえ、所詮代役は代役である。いずれボロも出よう。
だから、三年間だけ何とかやり過ごす、それが役目なのだった。
三年経てば年の離れた弟、永穂家三男たる若丸が元服する。その時点で「新十郎」は隠棲し、家督、及び応現流正統を譲る。それがこの代役計画の筋書きだったのである。
では、三年後、「新十郎」の妻たる紗雪はどうなるだろうか。
「新十郎」が新次郎に戻れば、紗雪の存在は宙に浮く。
全てのからくりを知った上で篠田家が婚儀に応じたのならば、まだ良い。
だが、そうでない以上、紗雪の人生を犠牲にした上で計画は進む事になる。あるいは、強制的に「新十郎」詐称の片棒を担がせる事になってしまう。
結婚後に真相を話すしかない以上、全ては事後承諾にならざるを得ない。それで彼女が納得したなら、陰謀の手伝いが始まるというわけだ。
そして、納得しなかったなら、真相が暴露されたりしないよう始末をつけるしかない。外部と触れられないように幽閉するか、最悪の手段を講じるか、である。
いずれにしても、紗雪が全ての犠牲になる事は明白だった。
もしこれで、相手がどこかの武家娘であったなら、あるいは新次郎も何も言わずに役目に徹していたかも知れない。
だが、相手は紗雪だ。
新次郎には、雪姫を犠牲にする事など出来なかったのである。
だから新次郎は、婚約破棄を条件とし、新九郎義忠は、それを認めたのだった。
一人、社の森を歩きながら新次郎は物思いに耽っていた。思考を遊ばせていたと言ってもいい。
森の清浄な空気に包まれながら、ただ取り留めもなく思いを飛ばす。
雪姫を思えば僅かな痛みが胸を走った。自分で選んだとはいえ、もう会えない。しかも一度は手酷く傷つける事になったのだから。
(泣いただろうな)
婚約破棄申し入れの手紙を受け取った雪姫が、どれだけ驚いた事だろう。その時の表情さえ想像できるような気がしていた。
大木に背を預け、木の温もりを感じながら、ただじっと瞑目する。
と、突然その目が見開かれた。
この場に近付く何かの気配を、鍛え上げられた剣士の勘が捉えたのである。
それは新次郎を目指しているわけではなかった。真っ直ぐ永穂家の陣を目指している。
殺気は……ない。
敵ではなさそうだ。だが、誰が、何の為に?
どこか、この気配には憶えがある。よく見知った誰か……。
その誰かに思い当たった瞬間、新次郎は走り出していた。
間違える筈がない。忘れなどしない。
なぜこんな所に来たのかは分からないが。
紗雪だ。




