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影武者

(私は何故こんなところにいるのだろうな)


 藩主や主立った重臣達を前に平伏しながら、永穂(なんごう)新次郎は胸中で呟いていた。


 藩武芸指南役を決める奉納御前試合。

 今、新次郎がいるのはその会場である。

 本戦を前に、対戦者同士の顔見せ、並びに藩主への口上の儀が執り行われているのだ。


 自分は決して立つ事のない筈だった表舞台。試合など見る事も叶わないと思っていた。


 それがどうだ。


 まさに自分が当事者となっている。しかも出場者としてだ。

 運命とやらは、よほど悪戯が好きらしい。


「永穂新十郎忠明」

「はっ」

 進行役を務める若年寄の呼び掛けに、当たり前のように答えながら一歩進み出る。


(皮肉なものですね。兄上をこそ、この場に立たせるために、私は働いてきたというのに)


 二つ違いの兄、新十郎。

 永穂応現(なんごうおうげん)流剣術表業(おもてわざ)正統後継者として、堂々と表舞台を歩いていた兄。


 いい思い出ばかりがあるわけではないが、剛毅な、強い兄だった。

 流派を継ぐに相応しい武才と気性とを併せ持ち、常に真っ直ぐ前を見詰めている、尊敬すべき兄だった。

 そう、そんな新十郎を立てるためにこそ、隠業(かくしわざ)を受け継いだ弟は、その人生を懸けてきたのである。


 新次郎は殺し屋だった。

 両手で数え切れないほどに人を斬った。


 もちろん、世間は太平の世に浸っている。

 その影で、いや、それを支えるために、自分は血塗られてきたのではなかったか。

 その自分が今、「新十郎」としてこの場に立つ。新次郎ならずとも思う筈だ。

 何と皮肉な事だろうか。


 記憶は数日前に遡る。


「新次郎」

 父はそう呼び掛けた。


 父が「新次郎」と呼ぶ、それが最後になるとは、その時、思いもしていなかったものだ。


「これより、お前は新十郎忠明となれ」

 注文は聞き慣れたものだった。反射的に肯きかけ、新次郎の眉が怪訝そうに顰められる。


 新次郎と新十郎、その面差しはよく似たものである。幼い頃は、年齢差がそのまま体格差となり区別もついたものだが、二十歳を過ぎれば二年差などものの数ではない。

 今となっては双子と言っても疑う者がないだろう。新十郎として道場に立った新次郎が、そのまま疑われもせず、「新十郎師範」として通じる程なのだ。

 そして、それはまた、家ぐるみで丹念に作り上げた像でもあったのである。


 古くから続く武家とはいえ、藩内において永穂家の地位はさほど高いものではない。道場こそ格式あるものと認知されてはいるが、家格としては直参も許されない家柄に過ぎないのだ。

 だからこそ、数代かけて人脈を築き上げてきた。そんな根回しの果てに何としても武門の誉れ、指南役の座を勝ち取る、それが永穂の家に生まれた者の悲願と言っていい。


 そして、その極みに立ったのが、現当主、新九郎(しんくろう)義忠(よしただ)である。

 比類なき武才と共に、権謀術数の才をも持っていたのかも知れない。いかなる手段も厭わないその姿を、人は苛烈と称するだろう。


 そんな父の元にあって、長子たる新十郎はそれこそ、身が一つでは足りない程の働きを強いられてきた。

 そんな時、兄の代役を務められるよう、否、新十郎として務めを果たせるよう、新次郎は半ば影武者として育てられてきたのである。

 そして、事実上「新十郎」は身が二つあるかのように働けたわけだ。


 永穂家に新次郎という次男がいる事を知る者は少ない。まして姿を見た者など皆無と言っていい。

 藩への報告も含め、公式には病身として表舞台から抹殺されてきたのが新次郎なのだ。


 ある時は兄の代役として、そしてまたある時は兄に危険が及ばないように。

 そして何よりも、永穂新十郎忠明を表舞台に立たせるために邪魔者を消す。

 その為に新次郎は闘ってきたのである。


 その意味で、父の言葉は珍しくもないものと言えた。だが、何か引っ掛かる。

 何かに際して代役をせよと言うなら分かる。だがこれより、とはどういう事なのか。


 そして、当然とも言える新次郎のその疑問には、最悪の答えが提示される事になったのである。

「急な病でな」

 父の言葉は短いものだった。


 ただ一言、死んだ、と。


 そして、永穂家当主は告げる。

「御前試合に出るのだ。そして、指南役の座、何としても勝ち取れ」


 いったん命が下れば黙って実行する。そこに私情は挟まない。

 それが新次郎という男だった。ただ、挟まないからと言って、私情がないわけではない。

 そして、その時新次郎の胸中を襲ったのは、不思議な事に悲しみではなかった。


 兄の死を悼むには衝撃が大きすぎたのか、正直な所、まだ実感がないと言ってもいい。

 これから予想される大任に対する、重圧を感じていたというわけでもない。

 驚きに幾分か麻痺したような心のどこかで、新次郎はただ思っていたのだ。あの雪姫の可憐な笑顔を。


 大事な秘密を打ち明けるかのようにそっと寄り添い、花の咲いたような笑顔を浮かべて彼女は囁いた。

 「新十郎」に嫁ぐ日が楽しみだと。


 ああ、そうだ。

 あの笑顔も、何もかもを「新十郎」の前へ並べるためにこそ、自分は働いてきたのに。

 それが何と皮肉な事だろうか。


「これ、永穂、いかがした」

 若年寄の呼び掛けにはっとして、新次郎は我に返った。幾分か、意識が遊んでいたようだ。今はまだ口上の真っ最中である。

「いえ、仔細ございませぬ」

 一言、答えると何事もなかったかのように口上を終え、新次郎は元の座に戻った。


 「新十郎」に続き、対戦相手が前に出る。すれ違う刹那、一瞬だけ相手の表情が見えた。

 手強い相手だろうという事は分かる。腕も立つようだ。仮にも武芸指南役を目指しているのだから、当たり前ではあるのだが。


 ただ、平和な時代だ、と新次郎は思う。


 何しろ、この相手からは血の匂いがしないのだから。


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