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本日、二話同時投稿します。

こちらは、二話のうち、一話目です。

「兄上ーっ!」


 倒れゆく刹那、新十郎は新次郎の体を押しやり、離れるように倒れていた。

 それは兄としての最後の優しさだったのであろう。

 癩は伝染病だ。そのまま倒れかかって血を浴びせるわけには行かなかったのだ。


 新十郎の体に沿って、床板が一通り軋み、それっきり沈黙の(とばり)が降りる。


 そして数瞬。

 突然その帷が引き裂かれた。新次郎が絶叫を張り上げたのである。


 肺腑の底を抉るように叫び続け、天井の梁がビリビリと震える。

「畜生、もう嫌だ! 何が永穂家か、何が役目か! こんな殺し合いっ、何で……!」


 叫びながら手にした刀を放り投げる。


 刀は一直線に空を裂き、壁に半ばほどまで貫通して止まっていた。そして空手となったその拳が、床に叩きつけられる。

 だが、二度、三度とは打ちつけられなかった。一撃で床板は粉微塵になり、消し飛んでしまったからだ。


 ただ、激情の波は引くのも早い。残るのは空漠たる砂浜だけだ。肩を裂かれたせいで動きにくい左腕を抱え、床に座り込む。

 涙の雫が床にはねていく。


「畜生……」


 なぜ兄と闘わねばならなかったのか。

 新十郎を変貌させた、そして己を縛り続ける、役目にこそ重きを置く価値観、それに対する嫌忌の念が、ついに爆発したのである。


 今まで新次郎はずっと自分を殺してきた。だが、何故に殺さねばならないのか。


 役目も何もかもお構いなしに、ただ自分の意志で紗雪のために闘った時、新次郎は限りなく自由だった。

 もう、縛られたくはない。新十郎と、もう二度とぶつかり合いたくない。

 その思いが高じ、彼は刀を捨てたのだった。


 力無く肩を落とし、新次郎は泣き続ける。

 その姿を、遠くから紗雪は見詰めていた。


 お勝の言う「武張った」新十郎ではない、紗雪のよく知る「新十郎」の姿が、そこにはあった。


 武辺の新十郎と、優しい新十郎。

 紗雪の惹かれたのがどちらなのか。それは比べるまでもない。


 ただ一人、新次郎だけが紗雪の血筋を知らなかった。だからこそ、彼が見せてくれた優しさは、紗雪自身に向けられた優しさだ。

 そして、真実を知っても、決して変わらなかった想い。


 紗雪の心の中に、新次郎の言葉が響く。

『御落胤なんか知った事か!』


 それが全てを教えてくれる。


 彼がなぜ婚約を破棄しようとしたのか。

 それも今ならよく分かる。


 新次郎が「新十郎」であり続ける。

 彼にとって、それは戦場に行くのと同じ意味だったろう。そして、戦地に紗雪を巻き込むまいとしてくれたのだ。


 紗雪の胸に、ちくりと悔しさがわく。

 理由は分かる。けれども、どうして一緒に闘おうと言ってくれなかったのか。


 新次郎が決して打ち明けられなかった理由。それを今、紗雪は知った。

 ならば、迷う事などない。

 力無くうなだれている、紗雪の「新十郎」。

 その傍らに歩み寄る。


 肩に、そっと手を伸ばし。

「新十郎様」

「違う! 私は……」

 まるで駄々っ子のように、新次郎が首を振る。だが、紗雪は揺らがない。


「傷を、見せて下さいまし」

 露わになった上半身を見て、刹那、紗雪は息を呑んだ。

 血の滲む真新しい肩口の傷、それが霞むほどに、新次郎の背は傷だらけなのだ。


 それが、新次郎の刻んできた歴史だった。


 細い紗雪の指が、一つ一つ古傷をたどる。新次郎の生き様を、そのまま共有するために。

 この男と、これから共に征く。

 紗雪はそう、決めたのだ。


 そう思えば、何も怖いものはなかった。


「覚えて、いらっしゃいますか」

 今、新次郎は悲嘆の内に沈み込んでいる。

 紗雪の闘いが始まった。


「花を贈って下さいましたね、覚えていらっしゃいますか」

「……ええ」

「新十郎様は、怖い人でした。道場から叩き出された事だってあるんですよ?」

「……覚えていますよ」

「そうでしょう。あなたは怖い方です。でも、怖いだけじゃない。たまに見せて下さる優しさが、私はとても嬉しかった。分かりますか」

「……」


「新十郎様、私はあなたが好きです」

「姫、私は……」

「あなたが、新十郎様です」


 新次郎を「新十郎」と断ずる、それは紗雪なりの共闘宣言と言えた。


 微かに息を呑み、新次郎は紗雪を見やった。

 問いかけるような新次郎の視線を正面から受け止めながら、紗雪はただ、じっと待つ。


 やがて、新次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。

「そうか、そうだな」

 呟いて、新次郎はすっくと立ち上がる。


 紗雪が見つけてくれた新次郎は一体何か。


 「新十郎」である状態の新次郎を見ていたのではなかった。「新十郎」であろうとする新次郎自身を見つけてくれたのだ。


 歩を進める新次郎は、身の内に震えるような喜びが湧き上がるのを感じる。

 紗雪が共に闘うからではない。紗雪が共に闘おうとしてくれるから嬉しいのだ。


 目の前の壁に、刀が突き立っている。

(兄上……)

 その刀に刻まれた想いは何か。

 ゆっくりと右手を伸ばし、だが、しっかりと柄を握りしめる。

 そして。


「私は新十郎だ」

 一息に引き抜く。

 その刀は永穂応現流正統に継がれてきた太刀だ。いずれそれは若丸に継承されていくのだろう。

 だが、今、それを新次郎は掴む。


 まるで眩しいものを見るかのように目を細めて、紗雪が新次郎を見詰めていた。


 そして、「新十郎」は宣言する。

「さあ、早く戻らなければ」

 御前試合まで、もはや時間はない。このまま全力で戻ってもなお、間に合うかどうか危ないところだ。

「行こう、紗雪殿」

 花が咲いたような笑みを浮かべ、頷こうとしながら、紗雪の心がそれに待ったをかけた。


 行く? どこへ? まさか……。


「駄目ですっ!」

 思わず紗雪は叫んでいた。


「そんな、無茶です。今闘ったばっかりですのに、それに、それに、えーと、そう、肩も、手も動かないじゃないですか! 駄目です! そんなの、いけません!」

「あはははっ」

 本当に珍しい事に、新次郎は声を上げて笑っていた。空まで突き抜けていくような、晴れ晴れとした笑いだ。

 慌てふためく紗雪が、とても愛おしく思えたのである。


 「新十郎」として生きるという以上、御前試合は避けて通れない。だから当たり前のように新次郎は行く事を決めていたものだ。


「紗雪」

 縋るような紗雪の瞳に視線を重ね、新次郎が言葉を継ぐ。


「共に、来てくれるんだろう」

「は、はい」


 新次郎はにっこり笑った。右手だけで紗雪を引き寄せ、力を込めて抱きしめる。

 そうとも、紗雪が共にいる。


「今なら、鬼神とて斬れそうだ」


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