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 色鮮やかな反物が部屋中に広がっている様は、まるで花畑のようだ。


(けど、どんな綺麗な花だって、うちの姫様には及びやしませんよ)

 見守る視線はまるで母のように、女中頭のお勝が心中でそっと呟く。

 幼い頃から丹精を込めて磨き上げた掌中の玉。母代わりのお勝にしてみれば、何物にも代えがたい大切な娘だ。


 名は紗雪(さゆき)。もちろん姫とは言っても、たかだか一藩士の娘である。それでも、お勝にとっては、仕えるべき殿にも勝る「姫」だった。


「ねえお勝、こっちの方が良いかしら」

 涼やかな声が、物思いに浸っていたお勝を現実に引き戻す。

 鮮やかな牡丹柄に染め上げられた布を当て、紗雪が物問いた気に見上げてきていた。


 当年とって十六才。小さな瓜実顔に、黒目勝ちの大きな瞳。柔らかな線を描く鼻梁と、慎ましやかな桜色の唇。

 まさに花のかんばせである。花に勝るとは、お勝の贔屓目だけではないようだった。


「ああ、でも少し派手すぎるかしら。あっちは赤が強すぎて、なんだかはしたなく見えてしまいそうだし……」

 聞くだけ聞いておきながら、答えも待たずに言葉を継ぐ紗雪を見て、思わずお勝も苦笑を浮かべる。気持ちは分かる。今、紗雪には夢中になっている事があるのだから。

「やっぱり白が良いのかな。私はあの若草色が好きなのだけれど、新十郎様も気に入って下さるかしら」


 それだ。

 その「新十郎様」である。


 武をもって鳴らす剛直な家柄、永穂(なんごう)家の後継ぎで、じきに藩の武芸指南役になろうか、と言われている人物だ。


 真面目で腕も立ち、世間の評判も上々。将来も約束されているとなれば、娘の嫁ぎ先としていくつもの家が狙いを定めていておかしくない相手である。

 その新十郎様と結納を取り交わしたのが、篠田(しのだ)の雪姫、お勝の大事な紗雪というわけなのだ。


 ところが、実のところお勝は新十郎の事をあまり良く思ってはいなかった。

 どこが、と問われても困る。母代わりではありながら、気持ちは大事な娘を奪われる父親みたいなもので、文句の一つも言わねば気が済まない、といったところだ。


「新十郎様なら、何着ていったって気付きやしませんよ。あの方は武辺の塊ですからね。ご立派な剣客でいらっしゃる分、頭が固いったら……」

 あまりと言えばあまりに気のない返事に、案の定、紗雪は頬を膨らませた。


「そんな事ないわ。新十郎様は風雅も嗜まれる立派な方よ。私が落ち込んだ時、花を贈って励まして下さったもの」

「おやまあ、それは知りませんでしたよ。意外なものですねえ。武張った事ばかり一所懸命で、姫様の方にはあまり気をかけて下さらないんだとばっかり……」

「私は知ってるの。新十郎様は本当は優しい方なのよ」

「本当にそうなら良いんですよ。けど、あたしなんかの前じゃそんな素振りはちっとも見せやしませんからね」


 と、これはお勝の失言だった。まさに墓穴と言っていい。その瞬間、紗雪は何とも幸せそうな笑みを浮かべたものである。

「そうよ。あの方は私にだけ、本当の姿を見せて下さるの」


 これにはお勝も降参するしかないだろう。もはや何も言えるわけがない。

 もっとも、それで構わないのだ。紗雪さえ幸せであるならば、お勝にとってそれ以外の事などどうでも良い問題なのだから。


 改めて衣装合わせに没頭し始めた紗雪のもとへ、文が届けられたのは、それからすぐの事であった。


 中継ぎで受け取ったお勝が何か言うよりも早く、紗雪は花が咲いたかのような笑みを浮かべている。想い人以外の差出人を全く度外視しているのだ。

 言いたい事は山ほどあったが、ここで何かやらかすほど、お勝も大人気なくはない。


「ほら、そのお優しい新十郎様からですよ」

「もう、お勝なんかキライよ」

 つんと唇をとがらせて、文を受け取った紗雪だが、怒ってみせた顔も長続きする訳がなかった。すぐに期待に胸を膨らませ、文面に目を走らせる。紙を広げる手間さえもどかしそうだ。


 と、突然、その姫の表情が凍りついた。


 反物を揃えていたお勝が、思わず手にした布を取り落とす。

「姫様、姫様? どうされました、姫様?」

 愕然として駆け寄ったお勝を、紗雪はまるで迷子のような、何か縋るような瞳で見上げていた。何か言おうと口を開いてはいるが、声が出ない。


 紗雪の手から半ばひったくるように手紙を受け取り、目を走らせたお勝の表情もまた、凍りついた。


 文面は簡単なものだった。見間違える筈もない。

 詫びの言葉こそ添えられているが、書かれていたのはたった一つの事だ。


『婚儀の件、お断り致す旨、言上仕り候』


 婚礼の儀、その白紙撤回の申し入れである。

 信じられない。

 だが、笑い飛ばせる話でもない。


 永穂(なんごう)新十郎忠明(ただあき)、その署名に添えられた花押を、紗雪は言葉もなく、ただじっと見詰め続けていた。


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