宴の支度
眠気が一気に吹き飛んだ。がばっと身を起こすと、なぜか床の上にいた。
あれ……わたし、いつの間に寝台から落ちたんだろう。そんな疑問が浮かんだのは一瞬、さっきの怒声の持ち主が見下ろしていることに気づき、恐る恐る顔を上げる。
怒声の持ち主……慶花が無表情で見下ろしていた。
「あと半刻で迎えがきます」
冷やかな声に身が竦むが、慶花が自分を起こしに来てくれたのだと気が付いた。
「……ありがとう、ございます」
そうだ。宴の半刻前に迎えに来ると、あの二人が言っていたのを思い出す。
手を差し出され、無意識なままにその手を取る。ぐい、と予想外に強い力で引き上げられる。
「支度は?」
「したく……ですか?」
一体何ことだろう。そんな考えがもろに顔に出たのだろう。信じられないと言わんばかりに慶花の目が見開いた。
「まさか、そのままで宴に出席するおつもりですか?」
「ええ、そのつもりです」
そのつもりだったが、この白い衣のままでは不味いようだと彼女の姿を見て悟る。
慶花の衣装は鮮やかな青い衣に、細やかな銀糸の刺繍が施されたものに変わっていた。長い髪も結い上げ、繊細な銀細工の簪がしゃらりと音を立てる。化粧もし直したようだ。鋭い目つきや少々顔色が悪く見える白すぎる肌は化粧によって優し気なものに仕上げられていた。しかし、ふと疑問が首をもたげる。
確か星詠み姫は純白しか身に纏ってはいけないのではなかったろうか。
更紗の疑問を読み取ったのだろう。慶花は溜息を吐いた。
「私たちはまだ『候補』です。一応星詠み姫にならって候補者も純白のみを纏うとされてはいますが、それは公の場でのこと。今夜の宴は王を始めとする王侯貴族の方々との会合の場。装わない娘がどこにいましょうか」
ねえ、と同意を求められる。
「そう……ですね」
ここにいます、とも言えず曖昧に語尾を濁す。
宴があると聞いていたというのに、支度もせず寝呆けていた自分が急に恥ずかしくなる。しかし、あと僅かな時間でろくな支度などできそうにない。せめて慶花が宮女の申し出を断らなければと思うが後の祭り。
一体何をどうすればいいのだろう……。
寝台の枕元に鎮座する大きな鏡台の前に座った更紗は、たちまち途方に暮れてしまう。
せっかく綺麗に結っていた髪は寝転がっていたせいで、とてもじゃないが人前になんて出れやしない。襟足を覆うように下ろしていた髪も、さっきまでの艶やかさを失って、くしゃくしゃなって肩にまとわりついていた。
こんな頭じゃ……慶花も呆れるはずよね。
髪留めを外しながら、こっそり顔を赤らめる。ようやく下ろし終えた髪は、鳥の巣のようにぼさぼさだった。髪が細く、ほんの少し波打つ髪はちょっとしたことでも絡まりやすい。取り敢えず髪くらい梳いてみようかと、鏡台に用意された櫛を手に取り髪を梳き始める。
すると、再び背後から溜息が聴こえてきた。
「お貸しなさい」
「え……」
戸惑っている間に櫛を奪われていた。慶花は更紗の長い髪を手に取ると、毛先から丁寧にほぐしていく。
「あなたの……髪は細いから、無理やり梳いたら千切れてしまう」
「はい……」
怒ったような声に怯えつつ、怖いもの見たさも手伝って、鏡越しに慶花を盗み見る。
少し怒ったような面持ち。けれど櫛を操る手元に思わず見惚れてしまう。彼女はずいぶんと器用だ。毛先をほぐし終わると、頭皮からゆっくりと梳く。さらさらと彼女の手からこぼれる髪はさっきよりも輝いて見える。さらに杏子油を髪になじませていくと、くすんだ亜麻色が艶やかで色濃くなっていく。
「今後は毛先をほぐしてから、全体に梳くようになさい」
「はい」
上からの物言いだが、彼女の慣れた口調のせいか違和感なく受け入れてしまう。
わたし……学び舎でも、こういうことし合う友達もいなかった。
侍女に髪を梳かれるのは慣れている。でも同じ年頃の女の子に髪を梳かれるのは初めてで、なんだか気恥ずかしい。恥ずかしいというよりも、胸の奥がなんだかくすぐったい。
「髪はどのように致します?」
不意に訊ねられ、返答に困る。
どうすればいいだろう。ふと、鏡に映る自分の姿が不意に姉の絹蘭と重なる。
髪を上げたら絹蘭のようになれるだろうか。さっきみたいに襟足を下ろした子供っぽい髪型ではなく、大人びた、首筋が露わになるような髪型にしたら。
実はどのように髪を結い上げているのか、細かい細工までわからない。いつも絹蘭を見るのは遠くからだったから。姉妹だというのに、姉絹蘭は遠い存在だったから。
「上げてください」
どのように、と訊ねられたらどうしよう。しかし慶花は詳細については訊ねなかった。
「いつもと同じようでよろしいですか?」
「はい」
いつもがどんなものかはわからない。でも慶花は心得ているようで、迷いのない手付きで髪を結っていく。鏡台の引き出しには留め具や髪飾りも用意されていたようで、慶花はあっという間に華やかな髪型に仕上げてしまった。
きつくまとめず、ふわりと柔らかな曲線を描くようにまとまった髪には、乳白色の貝で細工した小花を散らしてあった。赤みを帯びた更紗の髪には白い小花が愛らしく映る。
「仕上げに紅を」
貝の器に入った黄金色に輝く紅を、そっと指先で溶く。ほんの少しを更紗の唇に乗せると、よく知る少女が鏡の中からこちらを見つめていた。
絹蘭……。
確かに似ている。双子なのだから当たり前かもしれないが、こうして濃い目の化粧をし髪型を改めると、確かに絹蘭と同じ顔立ちだったのだと思う。
「笑ってごらんなさい」
「え?」
突然、笑えと言われても。
更紗が戸惑っていると、慶花は付け加えた。
「口角を上げて、鏡の中の自分を挑むように見つめて」
「は、はい」
できません、とは言わせない物言い。更紗は言われたとおりに表情を作ってみる。
ぎこちないものの、どこか挑戦的な笑顔が鏡に映る。化粧をしているお陰で絹蘭の浮かべる表情に近い。
「ほら、そうするとあなたの姉上そのものでしょう?」
鏡の中で慶花が薄く笑う。
はい、と頷きそうになったが、慶花の言葉に息を呑んだ。
「え……」
鏡に映る慶花を見つめる。すると彼女は意味ありげに、にやりと……淑女らしからぬ笑みを浮かべた。