もうひとりの星詠み姫候補
出立までの三日間は、瞬くほどあっという間に過ぎ去った。
……どうしよう。
すっかりまとめられた荷物に囲まれ、更紗は自室で途方に暮れていた。
母の言葉に逆らえないとはいえ、王族を欺くのだ。才能が無いとはいえ、更紗は星詠みの一族である紅家の人間である。星詠み姫を決定する儀式が、どれだけ国家にとって重要なものか怖いくらい知っている。
東陽華国の星詠みは、政に関わるほど重要な位置にいる。しかも星詠み姫は、国中の星詠みの筆答となる人物だ。候補の少女は二人。一人は紅家の絹蘭。もう一人は璃家から慶花。
ごくり、と唾を飲む。
本当に、大丈夫だろうか。いくら顔の造りが同じだとしても絹蘭とは資質が違う。もし偽物だとばれたらどうなってしまうのだろう。
考えれば考えるほど不安が募る。震える手を必死に止めようと握りしめていると、不意に扉を叩く音がした。
「……入るわよ?」
控えめだが、有無を言わさない口調。どうぞ、と答えると扉がそっと開いた。
「絹蘭」
ここ数日床に就いていた絹蘭の顔色は、まるで蝋のように白く血の気がない。青ざめた薄い唇は固く引き結ばれている。ゆったりとした部屋着には、腹部を締め付ける帯はない。
少しの膨らみもない腹部。どちらかというと以前よりも痩せたくらいだ。まだ信じられなかった。絹蘭が身籠っているとなど。相手は誰かと、あれだけ母に問い詰められても絹蘭は沈黙を続けている。誰にも言えない相手なのだろう。
絹蘭はこれからどうするつもりなのだろう。
赤ちゃんを、産むつもりなのかな……。
聞きたいことは色々ある。言いたいことだって山のようにある。しかし訊ねたところで絹蘭が話してくれるわけもないだろう。言いたいことなど、ただの恨み辛みが口を付くだけ。
だったら何も聞かず、何も言わない方がいいのかもしれない。
それにしてもなんてひどい顔色をしているのだろう。体調が思わしくないのに、無理をして起き上がったりして……。
「体調は、どう?」
無意識の更紗の言葉に、絹蘭は瞠目する。
「……人の体調なんか、気にしている場合?」
一瞬、絹蘭の表情に怒りが点ったが、大きく頭を振ると苦し気に唇を噛みしめる。
「ごめんなさい……わたくしのせいで」
振り絞るように呟く。己の過ちのせいとはいえ、幼い頃から星詠み姫となるべく修行を積んできたのは絹蘭自身。念願の星詠み姫の候補に選出されたというのに、断念せざる終えないのはどれだけ無念であろうかと思う。でも。
ううん、気にしないで。
とてもじゃないが、そんなことは言えそうにない。だから、ただ小さく頷くことしかできなかった。
「璃家の慶花」
束の間の沈黙の後、ぽつりと絹蘭が呟いた。
「彼女なら、力になってくれると思うわ」
璃家の慶花?
「璃家のって、もう一人の星詠み姫候補の?」
「そう」
「そうって……対抗相手だよ? もしかして親しいの?」
「いいえ。ずいぶん前に、一度会ったことがあるくらい」
あっさりと否定される。
一度しか会ったことのない、よく知らない相手が助けてくれるわけがない。しかし絹蘭はいい加減なことをいう人間ではないことくらい、双子の更紗はちゃんと知っていた。
「もしかして、星詠み?」
「なんとなく。強いて言えば直感」
「直感?」
直感だなんて絹蘭の言葉とは思えない。曖昧な物言いを嫌っているはずだ。一体どうしたのだろうと不思議に思っていると、その気持ちを察したかのように絹蘭は苦笑する。
「自分がこんなことを言うなんておかしいと思うのよ。でも不思議と彼女なら力になってくれると感じるの」
感じるの、か。
感性。才能。資質。優れた星詠みには、常人とは違う感覚が備わっているのだろう。知識や技術を得ただけでは星詠みにはなれない。それは更紗自身が痛いくらい知っている。
「どんな人なの?」
「そうね……」
遠い目をしてから、ふっと小さく笑う。
「優しい人よ」
「本当に?」
悪戯を企むかのような絹蘭の笑みに、疑いの眼を向ける。
「本当よ」
少し気難しいところがあるけれど。と、さりげなく白状する。
「感情が豊かで、温かい人」
驚いた。絹蘭がここまで褒めるなんて珍しいことだ。
「感情の起伏に波があるから、星詠みの精度が少々甘いところもあるけれど。彼女は星詠み姫に相応しいと思うわ」
やっぱり珍しい。普段なら、絹蘭は相手に対してもっと辛辣な評価を下すというのに。
よっぽど璃家の候補者を評価しているのだろう。もしくは、身籠って多少性格にも丸みが出てきたのか。
「絹蘭がそうまでいうなら、間違いないね」
無理矢理、笑ってみる。絹蘭を安堵させるためでもあり、自分自身をも大丈夫だと信じさせるために笑う。
「更紗」
堅く握りしめられた更紗の拳に、そっと触れる。絹蘭の手は温かかった。
「わたくし……わたくし…………」
何かを言いたげに絹蘭は繰り返す。でも何を言ったところでどうにもならないのだと、お互いに痛いくらいにわかっていた。
絹蘭の妊娠はまぎれもない事実。純潔は星詠み姫の条件のひとつだ。よって絹蘭は星詠み姫の条件から外れてしまった。この事実を王宮に報告したとしたら、一体どうなってしまうのだろう。
「あなたのために祈っています。今のわたくしには、それしかできない」
璃家の少女が、次代の星詠み姫に選ばれれば。周囲に偽物だとばれずに十日間が過ごせれば。
……わたしは、元の生活に戻れる。