ひとときの平和
奇妙な空間が広がっていた。
上も下も、前後左右もはっきりしない海の中のような空間がどこまでも。
見渡す色は何だろうか。黒ではない。白でもない。明かりの下で瞼を閉じたときのような、形容しがたい世界の色彩に『無』を意識させられ、自身の輪郭がぼやけていきそうだ。
「あーあ……、何にも見えねえ……」
八城大和はそんな空間をあてもなく彷徨っていた。
呟いた声に対する返事もない。どころか、音が反響する様子すら全く見えない。
何も、無いのだ。色も、音も、時すらも。
ここは幽世。世界から切り離された、風吹かぬ凪の時間を永久に続ける魂の箱庭。黄泉とは違い、外敵はおらず苦痛も無い。しかしながら当然喜楽も存在し得ず、無辺際を迎え入れ、身も心も砂と化すのを待つばかりの凪の世界。
「自業自得とはいえ……ざまぁねえな」
自嘲ぎみに漏らす大和。
肉体も精神も、神力や命すらをも燃焼し尽くしてしまったがゆえ、彼は幽世へと堕ちてしまったのだ。
ぼやいて、ごちて、そしてまた歩いてぼやく。
そうでもしないと、呑み込まれそうだったから。この何も無い世界に。
けれど、次第にそういった僅かばかりの気力さえ溶け落ちてしまって……。
「……寒い」
孤独という現実に滅多打ちにされ、加速度的に肉体も精神も衰弱する。
「あー、気持ち悪い……。力、入んねえ……」
そして、ついに大和は足を止め、その場に座り込んでしまった。
そのまま仰向けに倒れ込み、不可思議な色の空を見上げる。
「……勝ったんかなぁ。つーか、世の中は大丈夫なんだろうかね……」
木星の磁場と放射線に蹂躙された地球。
少なくない人間の命が散ってしまったことは大和とて感じ取っていた。
生き残った人たちや動植物、自然環境にも甚大な被害と影響が出てしまっているだろう。
これでまた、尚のこと生き辛い世界になってしまったかもしれない。
「……あーあ」
そこまで考えて、大仰にひとつため息。
生き辛いのかもしれない。多くの悲劇が生まれたのかもしれない。
悲愴と困難が溢れ返っているのかもしれない。
けれど、それでも……。
ぼそりと、大和は続けた。
「帰りてえな……」
力無く、けれど意志を持ってはっきりと。
悲しい世界、荒れた世界。しかしながら、そこは間違いなく大和の居場所なのだから。
陽だまりがある。お日さまの笑顔を向けてくる美琴。
団欒がある。人を食ったような態度を取るチェルシー。
安心もまたある。不遜な態度がまた頼れてしまう曹玲。
みんなの顔がはっきりと浮かんでくる。だから、帰りたい。
心の底から、願ったから――
「じゃあ帰るかー?」
「……!?」
耳朶を打つ羽音。気楽そうな声音。
濡れ羽色をはためかす怪鳥が、大和の眼前へと現れたのだった。
「お前……八咫烏……」
「おうよー、久しぶりだな大和ー」
気の抜けたような調子で、三本足のカラスが大和の側へと降り立つ。
「なんだなんだー? この上ないアホ面晒してよー。そんなビックリしたのかよー」
「いや、だってお前……」
「俺もおめーらの最終決戦に立ち会おうかと思ってたんだけどよー、感謝しとけよ曹玲に」
「……え?」
そこで出た名前に対し、思わず聞き返す大和。
「無茶する馬鹿がいるだろうからって、俺をここに待機させてたんだぜー」
「……俺のことかよ」
いやまあ、当たっているのだから言い返せないのだが。
「でも、本当にここから帰れるのかよ?」
「おいおい、俺を誰だと心得るんだー? 天照さまの使いであり、導きの化身だぜぇ」
「…………っ」
息を呑んだ大和がむくりと身体を起こしていた。
実感は湧かない。帰りたいと願ったものの、それは決して叶わぬ夢だとも理解していたから。
「また地球に帰れる……」
「おうよ。ホレ、あっち見てみ」
「――」
言われた方向を見据えれば、そちらから仄明るい光が差し込んでいたのだ。
まるで大和を導く朝日のように、懐かしくも暖かい明かりが彼を優しく照らしてゆく。
「あれは嬢ちゃんたちだなー。オメーも何だかんだでハーレム野郎だな大和ー」
「……は。っせえよバカ……」
「ありゃりゃ、泣くなよいい歳こいて」
「泣いてねえよ……っ」
陽光に照らされた雫を手で拭う。
そのまま立ち上がり、ごまかすように頬を叩いた。
見やる八咫烏が軽く笑んでから大和を促した。
「おーし、じゃあ俺に付いてこいやー」
「ああ……!」
そして、八城大和は歩を進めてゆく。
八咫烏の後に続いて、一歩また一歩と。
光の奥から差し出されていたのは、白くて繊細な少女の手。
それが一つ、二つ、いや三つ。
伸ばした右手を、三人分の手に引っ張られながら、大和は再び現世へと舞い戻ってゆく。
戦いは終わり、世界は傷を受け止めながらも時計の針を進めていった。
「すげー久々に着た気がするな……」
ブレザーに袖を通し、姿見で全身をチェックする大和。
久しぶりの制服姿になった彼が赴くのは休校状態からようやく再開された高校だ。
世の中は大打撃を受けてしまったが、それもどうにか回復に向かっている。勤め人は会社へ、学生は学校へと通う姿が増えてきている。
大和も、美琴も、元の生活に戻っているのだ。
そして――チェルシーは、
「大和さん、大和さん! 助けてください! 美琴さんがわたしをいじめるんです!」
「いきなり人ん家どころか俺の部屋に入ってきたと思ったら何を……、っておい!? ベッドに潜り込むなよ!」
「わたしは隠れないといけないんです! どうかご容赦を!」
「せめて靴脱げよ外人!?」
もぞもぞもぞーっと、靴はいたままチェルシーは大和のベッドの中にすっぽりと収まった。
ああ、シーツが土で……、なんて落ち込んでいた大和は第二の襲撃を許してしまう。
「チェルちゃんはどこ!? 隠すなよ大和!」
「っせえな……。お前のせいで洗濯物が増えたんだぞ? どーしてくれる」
「いいからあんたもチェルちゃんに納豆食べさせるの手伝ってよ!」
「外人に無茶言うなよ……。良いじゃねえかべつに。あんまいじめんなよ」
「あの子、あたしにブラックプリン食べさせといて、自分だけ逃げてるのよ! 絶対許せない!」
「うげえ……」
ブラックプリン。豚の血で作った黒いソーセージでありイギリスの珍味。
思わず大和は想像して軽くえずいてしまった。
「あ! そんなとこに潜り込んで! 出てきなさいよチェルちゃん!」
「やです、やです! 臭い! 臭いの嫌です! 美琴さん臭い!」
「あたしが臭いみたいな言い方しないでよ!?」
掛布団を挟んで攻防を繰り広げる女子二人を眺めつつ、大和は大きく息をはいた。
「……頼むから、その手に持った納豆だけは布団に落とすなよ?」
「うりゃあ!」
「なんの!」
「聞いちゃいねえし……」
なんやねんコイツらと、こめかみを押さえる大和。
チェルシーは借りていた、というか勝手に開いていた部屋に住み着いていた元のアパートを引き払い、美琴の家に居候している状態だ。
美琴の家とは言っても、こうしてしょっちゅう大和の家に上がり込んでは美琴と共に騒ぎを起こしているので、実際二つの家を行き来しているに等しかった。
鍵なんて掛けようものなら、人外の力であっさり抉じ開けられるので、留守のときと就寝しているとき以外は玄関の施錠をしていない。もはや諦めの境地だった。
「ふあーあ……」
騒ぎを横目で眺めつつ、大和は生あくびをかみ殺す。
「平和、かな?」
そう、ひとまず、この世界は一時の平和を掴んでいた。
木星が消え去って再び太陽が地上を照らし、何より夜は優しい月光が煌いている。
第十、第九、第六、第五、第四のセフィラが堕天から解放され、正道の理力を放出し始めたため、以前より格段に犯罪や争いの数が減少しているのだ。
とはいっても当然油断はできない。第八や曹玲に代わる新しい第七は生きているし、そして何よりも第一のメイザースを筆頭に、上位の天使は未だ果ての星で活動しているのだから。
だけれど、今しばらくは養生しよう。休むこともまた必要なことなのだ。
そしてゆっくりと、大和はベッドの方に目を向けた。納豆が落ちてた。
「あああぁぁぁああもうッ! お前ら二人とも正座ッ!」
大和の怒声に、かしましかった茶髪と金髪の女子二人は「はぁい……」と素直に従った。
「タータラッタター♪」
プリーツスカートが揺れ動く。
そこから伸びる脚が踊るように軽快な動きを見せている。
制服の脇腹の辺りには、ぎょろんとした顔を見せる黒猫のブローチが小憎らしく存在していた。
それを満足気に見やるミディアムショートの少女が、後方を歩む二人に向かって振り向いた。
「そーいえば知ってます? 曹玲、今度の体育祭で応援団長やるそうですよ」
というチェルシーの言葉に、ポケットに手を突っ込んだ大和が鼻を鳴らしながら答えた。
「はっ、ンな面倒なことよくやるもんだよあいつは」
「あはは、でも似合う気はするね」
大和の隣を歩く美琴が苦笑しながら付け加える。
「まあ、気合い入ったあいつを完膚なきまでに叩き伏せるのも面白そうだな」
「逆に叩き潰されそうですが」
「うるせいっ!」
冷静なチェルシーの突っ込みにそうとしか返せない。
唸る大和を見た美琴もまた冷静に言った。
「体育祭も良いけど、その前に中間テストあるかんね? あんた勉強してる?」
「はぁん? 世界を救ったこの俺が、何でチマチマ紙にペン走らせるセコイ真似しなきゃならね――」
「留年するわよ」
「…………」
ぐうの音も出なかった。
「……はぁーあ」
そして盛大なため息。
けれど、それでいて大和は満足していた。
月並みだが、この平穏な時間がとても大切なものだと噛み締めているから。
(さて、これからも頑張りますかね)
ポケットから手を出して、大和はお日様を仰ぎながらそう思ったのだった。




