優しい光
『……馬鹿な』
斑に濡れる双翼をはためかせつつ、黒の瞳を見開いたロゼネリアがそう漏らす。
額からは一筋の汗が流れ落ち、吹き付ける風が彼女の頬を冷却してゆく。
ギチリ、と。爪が喰い込むほど握られた拳の戦慄きが心境を露呈させていた。
この現実が、到底信じられぬものだと言うように。
『……一体、それは何だ?』
双眸を引き絞ったロゼネリアが我知らず問い掛けていた。無理もあるまい、何しろ自身の切り札を、塵も残らず消滅させられたのだから。
「あんたも……気付いてるんじゃねえのか?」
ふらりと、姿を現した少年が息を吐きつつ一歩を踏んだ。
力無く剣を握り、全身から血を流し、けれども光の灯った両目で以て。
『都合が過ぎるぞ……』
「……かもな、御都合さ。でも見てくれよ、まさしく天が味方してくれたのかもしれねえ」
『貴様……!』
穏やかに語る目は暁の光のよう。
遥か空で、木星を浸食しながら昇る仄明るい陽光とまさしく同じ。
大和の言葉に気色ばむロゼネリアとは対照的に、放射線の嵐が止んでゆく。磁場の蓋が剥がされてゆく。穏やかに、撫でつけるように。
「……だっせえよな、一人でカッコつけて突っ走ったって、俺ぁ結局は周りがいなきゃこのザマなんだ」
赤い雷は消えていた。鬼の気配もどこにも無い。
蛍のようにか細くて、けれど淡く柔らかな光を放つ大和が、美琴の髪飾りをぶら下がった左手で握りつつ笑みを浮かべた。
「サンキュな美琴、おかげで目ぇ覚めたよ」
「っさいわよバカ大和……。シャキッとしろ、っとにバカ……」
上空の美琴は目尻に涙を溜めつつそう返す。
その声に、花を模した髪飾りが反応して発光した。
神崎美琴から八城大和の元へ紡がれた奇跡の象徴、それは――黒御縵。
幼少の美琴が大和の母より受け継いだ、ここ陽明神社に伝わる神具。
内包された神力もさることながら、美琴はその髪飾りを大切に、肌身離さず身に付けていた。従って、黒御縵には美琴の想いが込められている。命が吹き込まれている。
良質で霊的な力を帯びた物には心が宿り、意志が生まれる。だからこそ、美琴の決死の叫びに髪飾りが応えて離れ、御神体を失ったとある神を呼び寄せたのだ。
そう――天照に他ならない。
神崎美琴は天照を内包してはいるものの、大和たちのように自発的に力を発現できはしない。言ってみれば、彼女は拠り所のようなものである。
それゆえに、黒御縵を新たな御神体として天照をお呼びしたというわけだ。
この髪飾りは、神崎美琴が所有していたからこそ付喪神であり、そして御霊代となり得たのだ。
逆転劇は何人の横槍を許さぬ程に鮮烈で一瞬だった。
紅蓮地獄を形成するエウロパの世界へ到達した瞬間、まるで太陽を凝縮したかのような、夜を昼間と化す程の密度の濃い神威を迸発させていたのだ。
蒸発したエウロパの神気。絶対零度に近しいその冷極を、淡い光の焔が抱きしめるかのように溶かし尽くしていた。
天に坐する木星もまた同じ。邪悪に染まる嵐の塊は、全てを祓う夜明けの光によって浄められようとしていた。
『ふざけるな』
だが瞬間、堕天使の赫怒の情が迸る。
不可視の弾撃がボロボロの少年を叩き飛ばし、奥の神木へと打ち付けた。
「が――ぁ」
『ガキ共が、やってくれる。そんな虫ケラ同然の状態で私を怒らせてどうするつもりだ?』
「ぜっ……! ぜえ……ッ!」
『エウロパを破壊した。木星を太陽が侵している。確かに見事だ、お前たちの起こした奇跡とやらを否定するような過小評価を私はしない。だが……』
目を絞るロゼネリアの指先が大和へ向き――放射。
「づ……ッ!?」
熱線が彼の左脚を貫いた。反動で地面へと倒れ込み、握られていた美琴の黒御縵も地面の土に塗れてしまう。
『そのザマでどう足掻く? 夢の時間はもう終わりだ。薄汚れた髪飾りと同じく、あの太陽も汚濁させて呑み込んでくれる』
「ハッ……、だからあんたは……負けるんだ」
『なんだと?』
無様に這い蹲ったまま、負け惜しみにしか聞こえない大和の言に対してロゼネリアが訝しんだそのとき――
『グゥ――!?』
彼女の脇腹を、突如弓矢が穿っていたのだ。
激痛に顔を顰めたロゼネリアが飛んできた方向を見やれば、
「ふん……余所見するなよ、だからこうして寝首を掻かれるんだ」
『曹玲……!』
矢を放った曹玲が弓を握ったまま残心の構えを見せていた。
ロゼネリアに突き込まれたそれは‘生弓矢’。
生大刀と同じく、素戔嗚から盗み出した宝の一つであり、曹玲の切り札。
天地の隔てを容易くゼロにする神速と射程距離。いかにロゼネリアが天使として覚醒していたとして、不意を突いた神の矢に対抗する術は持ち得ていなかった。
だがしかし、曹玲の一撃はロゼネリアに致命の傷を与えることはできなかった。
『残念だったな曹玲、心臓を貫けば貴様の勝ちだったものを』
「いや……これで良い」
『……なに?』
ロゼネリアを斃せずしても笑みを刻む曹玲。
眉間に皺を寄せて問い返すロゼネリアに語りかけていく。
「天道念仏……というものを知っているか?」
『……何だそれは?』
「主に春分など、力の弱まった太陽に再び輝きをもたらせるため、『柱』の頂に太陽を祀る行事のことだ」
『柱、だと?』
「ああ、そして行事の際、柱や祭壇に八咫烏と兎の絵を印すんだ。……その生弓矢の矢羽は特別性でね、大国主の友人の毛を貰って作られている」
太古の昔、鰐を騙して海を渡ろうとした者が彼らの怒りを買い、毛皮を全て剥ぎ取られた事件があった。
そこへ通りかかった大国主が治療法を伝授し、その者は見事回復。お礼に大国主と、後に彼の妻となる八上比売との縁を結んだ。
その者こそが、白兎である。
『――それで動揺を誘ったつもりか? 笑わせるな、貴様のもう片方のお友達がここにはいないことは把握済みだ』
たとえ曹玲の言が事実であり、中央の‘均衡の柱’を塗り替えようと企てていたとして、肝心の八咫烏の姿はどこにもない。
それは曹玲も認めているところで、ギリと奥歯を噛み締めている。
『苦労して企てた計画も、半端で終わってしまったな』
勝ち誇り、口角を上げた堕天が歩みを進めようとした――瞬間。
『ッッ!?』
彼女の胸部、そして脇腹の矢羽が光り出していた。
「ロゼネリアよ、お前が柱を用いた計画を起こすことは読んでいた。だから予め、私たちは貴様に対抗する準備を進めていたんだ」
『どういう、ことだ……!』
自身から発生した淡い光に驚愕しつつ問い掛けるロゼネリアに、曹玲が犬歯を見せる獰猛な笑みを浮かべて返していた。
「お前、神崎から何か重要なものを奪っていたんじゃないか?」
『――ッ!』
目を見開くロゼネリア。
一瞬で脳内に広がるのは神崎美琴が彼女に対して行ったこと。
神具を用い、決死の抵抗を見せた美琴。その傍ら、八咫烏の羽根を使おうとしていた。
だから奪った。万が一ということも有り得たから。
しかし――
『く……!』
その羽根をしまい込んだ胸元から忌々しい光が今も止め処なく溢れている。盤石な神力は完全に固定され、もはや羽根を取り除くことも矢を抜くことも敵わない。
始めから誘い込まれていたのだ。おのれ小娘とロゼネリアが牙を剥く。
憎々しげに振り返り、上空を射抜くように見据えれば、
「…………、」
そこには当然、未だ神崎美琴が呪縛されていた。
だが、美琴の脳内に絶望の文字は無い。
あるのはそう、いつの日か取り決めた約束事。
相手の顔も声もおぼろげで、本当に会ったのかも怪しいけれど。
でも、確実に覚えているあの言葉。
――そのような酷いことをする人には、あかんべえをしてあげましょう。
桜の香りがふわりと鼻孔をくすぐった。
積もった恨みは数知れず。ここにいる全員がロゼネリアにしてやられているから。
だから、食らえ、あたしの渾身の仕返しを。
「……べぇ~~っ」
『お、のれェ……ッ!』
舌を出して挑発する美琴に、まさしく鬼の形相を見せるロゼネリアが目を剥いた。
沸騰しかけた頭をどうにか律し、次いで曹玲を見やって咆哮した。
『よくも――狡辛い真似をしてくれたなァ!』
「……狡辛い、だと?」
絶叫を浴びた曹玲はしかし数瞬だけ間を置いて、次いで奸計に斃れた強敵の顔を思い浮かべた。
――ごめんねぇ……シェイク…………。
「貴様が……」
手に持つ弓が、カランと虚しく地を叩く。
「貴様が……言うなぁ……!」
肩を戦慄かせ、声を震わせた曹玲の訴えはロゼネリアの咆哮以上に境内に響いていた。
グイと目尻を拭った彼女が呼気をはき、そして凛と言い放つ。
「――行け大和ォ! この戦いを終わらせろ!」
『フン、馬鹿が、あの小僧なら地面に這い蹲って』
「そうでも……ねぇよ……」
『――――』
遠方から発せられたその声に、我知らずロゼネリアが息を呑む。
立ち上がろうとしていた。産まれたての仔馬よろしく、四つん這いのままみっともなく。
『貴様……なぜ足掻く。なぜ大人しく死を受け入れない。そうやって抵抗したところで、苦痛が長引くばかりだろう。まさか、世界の為などと言うつもりか?』
「そんなんじゃ、ねえよ……」
ロゼネリアの問いに、淡い双眸を見せる大和が地面を引っ掻きながら黒御縵を拾い上げ、
「女が、よ……」
『……なに?』
「女が……こうまでやって、託してくれたんだ……。ここで……男の俺が意地張らねえでどうするよ?」
言い放ち、立ち上がってみせた。
『小僧が、死にかけの分際で……!』
対し、ロゼネリアはこめかみの血管を浮き立たせて憤怒する。
斑模様の翼を拡げ、獰猛な神気を迸らせて声を上げた。
『ならば死ね! 貴様はもう絞りカスだ、用は無い!』
「生憎と……死ねねえんだよ」
左腕をぶら下げ、足を引きずり、無様にゆっくりと大和が歩を進めていく。
見やる堕天は嗤笑を浮かべて嘲弄する。
『馬鹿め、その飾りに天照はもうおらん。所詮は即席、一回限りで空っぽだ。太陽の力が無い貴様には、どう足掻いても勝利は無いぞ』
「……かもな」
言って、黒御縵をしまい込む大和。
「けどよ、きっかけは貰ったぜ……?」
『なんだと?』
淡い光の両目で以て、八城大和が歩みながら右手の剣を掲げてゆく。
彼の目に映るのは、穏やかな陽の世界。汚濁された魂を、そよ風と陽光が浄める景観。
生き急がず、ちょっと立ち止まって上を向き、陰惨でカビ臭い思考を振り払おう。
「さあ、行こうぜ」
天之尾羽張が煌いた。
黒い剣身が、大和の双眸と同じ色に染まっていく。
そして――融解するよう形を失い、燃焼し始めた。
ゆらゆらと、ゆらゆらと、キャンドルのように穏やかに、静けさを伴いながらゆっくりと。
剣身から光輪が生まれ出る。小さく淡い御光が仄かに境内を照らしゆく。
まるでそれは――朝日のよう。
「――甕速日」
『な、に……!?』
静かに顕現された夜明けの光。
天照の力をきっかけに、天之尾羽張に眠る太陽の神がその顔を覗かせた。




