引き起こされる奇跡
赤い閃光は凍てつかされ、白濁する霜の奥底に封印される。
まさしく朝露が如く。破滅の光は払われて、境内に再び斑の邪気が浸食していた。
それと同じ翼をはためかせた木星の堕天使が、真っ黒の双眸をぎらつかせて喉を鳴らし笑んでいた。
『ククッ、聞こえる、感じるぞありとあらゆる脈動が。悲鳴も鼓動も魂も、全てを綯い交ぜにして樹の活力へと変えてやる』
今このときも、世界は空を牛耳る木星の暴虐に嘆き喘いでいた。
人も草木も動物も、大地や海さえ莫大な磁場と放射線に侵されている。
その光景に目を細め、氷細工と化した大和を見やるロゼネリア。
『人間とは虚しいものだな八城大和。生き足掻いて食い縛ったところで、結局は貴様のように上位種に踏み潰されるというのに。八百万を呼び出し天使を打倒? くだらん。驕りが過ぎるぞ劣等種』
不遜に物言う彼女に対し、傍でうつ伏せになっている曹玲が憎々しげに言い放った。
「驕って、いるのは貴様のほうだ……! 大それた奸計を実行した挙げ句、その人間に潰されそうになった分際で……!」
『黙れよ曹玲。お前はもう少し賢しいと思っていたが』
対するロゼネリアは一瞥をくれてからやれやれと返答する。
『以前の私が言っていただろう、私は強くなどないと。その考えは今も変わらん、弁えているんだよ』
「なに……?」
『私の神力だけでは翼も、木星も、そして均衡の柱も創り出すことなど出来はしなかった。そしてこうやって天翔したところでメイザースの足元にも及ばん。力など、要りはしないのさ』
諭すように、ロゼネリアが尚も続ける。
『私が欲しいのは、悠久に続く生命樹の安寧だ。だから私自身が第六となり、樹に血流を送り込むのではないか。柱を通して第一へと、樹全体へと己が神力を循環させるのだ。……このように、なあ!』
吠え立てたロゼネリアが右手を振れば、バギン! と大和を覆う氷結が僅かに凝縮し、細かなヒビが全体に入り込む。それにより不透明の白色となった氷は中の大和を一層圧縮し、彼の神気を略奪する。
結果、境内中央の天へ伸びる柱がより太く強健に肥大した。
「貴、様……!」
『焦るな、お前はヤツの次だ。文字通り人柱になれるんだ、光栄に思うといい』
「グ……ッ!」
歯噛みする曹玲を眺め見て、口元を三日月型にしたロゼネリアに上空から別の声が届いた。
「あなたは……一体何が目的なの……!?」
『聞こえなかったのか女神さま、何度も説明してやったろう。悪いがもうこれ以上は――』
「そうじゃ、ないっ!」
ロゼネリアの嘲笑を、しかし神崎美琴が斬って捨てた。
束縛された苦悶に顔を歪めながら、それでも喝を入れるよう手足に力を込めて。
「あなただって……元は人間だったのでしょう? 家族は? 友人は? 大切な人だっていたんでしょう!? それを、何でこんな酷い真似ができるのよ……!」
『小娘らしい小便臭い戯言だな、くだらん。それに人間が人間を最も殺すんだ』
「あなたのやってることは戦争以上に最悪なことじゃない!」
『所詮、地球など第十の象徴でしかない。水に沈もうが砂漠と化そうが、大勢に影響は無い。なればこそ、脆弱な命を樹の養分として有効活用しようと言うのだ。なに、心配せずともそれなりには残しておくさ。欠けた同胞の代わりを見つけねばならないからな』
「その同胞を、仲間を……、あなたが利用して、裏切ったんでしょう……!?」
『裏切ったわけではない。使い捨てたのだ』
美琴の訴えを真正面から受け止め、そして冷徹に返すロゼネリア。
諧謔が混じっていない、ある種真摯とも言えるその返答に、美琴は声を詰まらせてしまう。
「そこまでして……あなたは、一体‘何’がしたかったのよ……!?」
『先ほどの質問の続きか? そうだな……メイザースや生命樹の為というのは無論だが』
斜め上を向いたロゼネリアが数瞬だけ思索して、
『光……そうだな、私は光になりたかった』
「ひか、り……?」
『そうとも。見ろ、あの木星を。あの美しいマーブル柄を。これからは昼夜問わず、私の光源が常に世界を覆うのだ。太陽とは違う、何とも情緒のある光景だろう。畏れ仰ぐ人間どもを、この私は見下ろしてやるわけだ。ああ良い! 良いぞ! 仮初めの玉座などではこうはいかん!』
「…………っ」
興奮して顔を鷲掴むロゼネリアを見て、美琴は心底恐怖した。
ダメだ……話など通じる相手ではない。
目尻に涙を溜めて尚、それでも彼女は言わずにはいられない。
「人が……大勢死んじゃうんですよ……?」
『そうだな』
「動物も、自然も、何もかもが枯れてしまうんですよ……?」
『その通りだ。八城大和を、お前たちを――柱と木星に捧げることによって、な』
「――――っ……!!」
その言葉が止めだった。
堰を切ったように美琴の両目から涙と感情が溢れ出る。
身を捩り、歯を食い縛ってロゼネリアを睨み付けるも神力の戒めはビクともしない。
どうしようもなく、神崎美琴は無力であった。
次いで、再び眼下の白い彫刻が嫌な音を発して氷塵を爆ぜさせる。
「――大和ぉ!!」
更に柱は頑強に。当然人柱は脆弱に。凄惨極まる光景を凝視して、神崎美琴が絶叫する。
だが、身動き取れない今の彼女は手を伸ばすことすら許されない。
「く……ううぅ……ちくしょう……!」
一体あなたは何の権利があってと強く呪う。
人を何だと……、命を何だと思ってる!
昨今の世界事情からしたら高尚な美琴の考えは、しかしロゼネリアの笑みすら崩せない。
許せない。許せない。何より自分が許せない。無力な……自分に!
「お願い、神様…………」
八城大和を助けたい。彼を救う力を――あたしに貸して下さい!
願い、祈り、信仰する。ひたすらに。ひたすらに。
だが――何も起こらない。彼女の内で眠る天照は発現しない。
そんなご都合は、到底彼女一人で引き起こせる次元ではなかったのだ。
「あああぁぁぁぁああぁあああああっ! 大和ぉぉおぉおッ!」
泣き叫ぶことしか美琴には出来なかった。
無様に、みっともなく。
首から上だけは動くため、長い髪を振り乱して感情のまま絶叫する。
そう、花を模した髪飾りを付けた陽色の髪を乱れさせて。
だから、これは偶然か、それとも必然だったのか。
その髪飾りが、美琴の髪からプツンと解き放たれて、中空へと躍り出る。
ゆっくりと重力に従って落下するそれが、大和の元へと辿り着き――
――ああぁぁあああ……ッ!
――苦しい苦しい、死にたくねえ……!
悲惨さを増す地獄絵図。道のあちこちで蹲って喘鳴する者、声すら出せずに痙攣する者、そして死体が転がっていた。
木星の毒は人間のみならず、大地や空気までも毒で侵し、無機物すら踏み砕いていた。
墟街地など比較にならない死の街が建設されてゆく。
人の尊厳、歴史の重み、一切合切無視されてひたすらに蹂躙される。
情けも希望も有りはしない。存在するのは悍ましい天空の木星だけだ。
人々は怖れ、泣いて仰ぎ見た。もうやめてくれと懇願するよう頭を垂れた。
だが、木星は何も答えない。どころか迸発させる毒を一層激しく叩き落とすばかり。
そのような、絶望の最中であった。
「ちょっとコウ! どこいくの!?」
「あれ! あれ見ておねえちゃん!」
「え? ――あっ!」
幼い姉弟が、突然家から飛び出してきたのだ。
弟を追っていた姉が、弟の指し示す方向を見やって瞳を見開き佇んだ。
「二人共なにしてるの! 早く家に入りなさい!」
そこへ姉弟の母親が決死の形相で追い付いて、二人を家の中へと戻そうとしたのだが、
「おかあさん、あれ見てよ!」
「良いから早く家の中に――……えっ?」
その母親も、息子の指し示す方角を眺めて呆然と言葉を止めた。
「……お、おいどうしたんだお前たち。外にいたら危ないぞ」
「あ、あなた……、あれって……」
「なに……?」
遅れて出てきた父親が窘めつつ家族の元へやってきたが、今度は母親が彼に手で指し示して促していた。訝しげに見上げる父親だったが、
「なっ!? あ、あれは……!」
瞠目していた。
なぜならば、空に陽が昇っていたからだ。
夜空を白む光で染め上げつつ、同時に木星を浸食しながら黄道を描いている。
気のせいか、木星の放つ磁場や放射線が幾分か和らいだような気がする。
そしていつの間にか、周囲の人々もざわつきながら空に昇る陽を見据えていた。
戸惑う皆を尻目にして、幼い姉弟が目を合わせて頷きあった。
思い出すのはそう、恐ろしい堕天から助けてくれた高校生の少女のこと。
不思議な力で髪飾りを光らせて、そしてそれはあの太陽にとてもよく似ていて……。
姉と弟が笑みを零す。ぎゅっと互いに手を握る。
「やっぱり」
「あのおねえちゃんは」
そこには、信頼に染まった綺麗な瞳が輝いていた。
『――神さまだったんだ!』




