建御雷(タケミカヅチ)
「ぐ……、うぅ……ッ」
カチカチと、歯の根が合わない曹玲が瞳孔を拡げて慄然していた。
その瞳に焼き付けられているのは赫色に爆ぜる雷火。暗黒に染まる夜の世界を、そのドス赤い灼熱が喰い潰して蹂躙していく。
閃き、輝いて明滅し、されどねっとりと空間にこびり付く赤き稲妻が、まるで血で出来た手形よろしくいつまでも残像と呪いを遺していた。
その神威は想像を遥かに凌駕する。
夜空に浮かぶ巨大な木星や、境内中央で天へと伸びる均衡の柱すら、あの烈火の雷の前では霞んでしまう程の超常だった。
「う、ぐ――……」
何よりも、曹玲はこの場で最も、それこそ本能レベルで恐怖していた。
なぜなら、彼女は今や大国主に等しい人間だからだ。
大昔、その大国主が苦労して治めた地上で暮らしていたとき、支配権を明け渡せと攻め込んできた神がいた。
その力は強烈無比。無双を誇る大国主の息子も容易く倒され、その結果大国主は為すすべなく地上を譲るはめになってしまう。
脅しと威武だけで地上の統治者を屈させたその神は、伊邪那岐や素戔嗚にも引けを取らない武神であり――
『づ――うッ!』
ロゼネリア・ヴィルジェーンは血飛沫く左半身の痛苦に顔を顰めて後退していた。
中空に跳んだのは自身の腕。持ち主を失い、玩具のように地面に転がるそれを見やって猜疑の心を加速させる。
『どういう、ことだ……!?』
眉間の皺が一層深く刻まれる。
攻撃された。斬り飛ばされた。玉座の力は未だ健在しているというのに。
つまりそれは、ロゼネリアの能力が八城大和に及んでいないという事実。
『馬鹿な……!』
信じられるか。たかが人間の分際で。いや、だがしかし……。
額から流れる汗が彼女のブロンドを顔に貼り付かせ、隙間から覗く双眸には理解を得ようと思索する色が浮かんでいた。
激痛に耐えながらも視線を飛ばす両の瞳が捉えるのは禍々しい雷。
ロゼネリアの腕を斬り飛ばした少年は、離れた所でだらんと全身を弛緩させて俯いている。
顔色は窺えない。だというのに全身から迸発される鬼気だけでロゼネリアを射竦める。
何だあれは? 馬鹿げたまでの神力だ。第三は疎か、第二にすら届き得る。
十束の剣で自らの腕を突き刺した異常行為を草創に、奴は変わり果てたが……。
『――そうかッ』
歯を食い縛って意を得たロゼネリア。
八城大和は自身の血液を、まるで剣に捧げるかのように大量に流していた。
その鮮血が向かった先は天之尾羽張の根元の部分。
かつて、天之尾羽張が迦具土を斬り裂いたとき、剣の根元に溜まった血が飛び散った際に生まれた神がいた。
そしてその神は、天之尾羽張から生誕した八柱の中で最も有名で強力な個体。
それを八城大和が自らの血を捧げ、共鳴させて呼び起こさせてしまったのだ。
決して、目覚めさせてはならない神を。
『お――のれ……!』
名を――建御雷。
バヂン! と雷光が閃爍された。見る者すべてを焼き殺さんと赫焉する稲妻が、夜闇を喰い焦がして増殖し――
『ク……カカ…………』
宿主の面貌から、鬼の如き赤い瞳が閃いた。
瞬間――
『グオァァアァァアアッ!!』
『――!?』
血紅色の双眸をひけらかしながら、咆哮する大和が爆ぜ飛んだ。
寸暇、寸毫、いや刹那。時の概念を力業で掻っ捌きつつロゼネリアへと肉薄。
ベギン!! と。全霊で展開させたロゼネリアの障壁を天之尾羽張が斬り砕く。
『グ……ッ』
そうやって生まれた一瞬の余白により、ロゼネリアは九死に一生を得る。生存本能に従って障壁を発動していなければ、今度は彼女の首が宙へと舞っていた。
が、しかし、
『ッガアァァ!』
『餓鬼が……!』
猛る災害は収束しない。どころか剣呑さを深めて暴力を撒き散らす。
つづら折れる剣閃はまさに雷速。血を流してぶら下がった左腕は放置され、片手で振るわれる剣の道に人の心は籠っていない。
鬼のそれだ。圧倒的な速度と膂力だけを用いて放たれる力業の剣は羅刹の牙と遜色ない。
赤い眼が歪み、吊り上げられた口元から尖った犬歯が覗かれる。人の肉を喰らい尽くす悪鬼の牙が人間から現れている。
明らかな暴走だった。誰の目から見ても力に呑まれているのが良く分かる。
本来、建御雷は武神とはいえこのような暴虐性を見せる神では決してない。戦争において被害を最小に抑えるなど、理知的な面を持つ雷神なのだ。
ではなぜ、ここまで八城大和が荒んだ面貌を晒しているのか。それは鬼が彼の心に入り込んだことに他ならない。
八百万の神も、付喪神も、そして鬼や妖怪も、念を込めた行動や心の在り方によって突然産まれ出るのだ。
憎い、憎い、許せない。何がなんでも斃してやる。自分はどうなっても構わないと。
負の情でありながら芯の通ったそれは建御雷の心を動かしたが、しかしその昏い情念は羅刹において恰好の住処となってしまった。
力を求めるあまり、大和は自我というものを放棄してしまったのだ。
必然、心の隙を生み出す愚かな選択だが、しかし、
『グ――、ヅゥ――』
暴力の桁がド外れていた。
天翔光輪によって翼を得たロゼネリアが、完全に防戦一方という現実。
滅茶苦茶に奔る雷速の剣戟を、辛うじて神力の壁を発動させて凌いでいた。
首元に迫る刃を、心臓に放たれた剣先を、都合や型などどうでも良いと全身を適当に振り抜いてくる殺意の雪崩を致命の一線で捌き貫く。
奇跡に等しかった。瀬戸際で踏ん張る彼女はまばたき一つ許されない。
『図に……乗るな』
だがそこで、致死の隙間を踏破したロゼネリアが大仰に飛び退いた。
黒い眼差しを怒りと殺気で満たしながら、翼を拡げた彼女が不穏な神気を右手へと収斂させる。
同時、天空の木星までもが蠢動して共鳴した。
『――朽ち果てろ』
空へと飛翔したロゼネリアが禍々しく光る右手を見せつけ、眼下の大和へ向かって構え――極大の光線を放射する。
茶と蒼の斑に染まる死の一閃。絶大な神力に、放射線と磁場を込めた木星の鉄槌。
喰らえば即死は免れない。誰しもがそう判断する汚濁の閃光は、
『……馬鹿な…………!?』
ロゼネリアがそう漏らしてしまう結末を迎えていた。
八城大和が、天之尾羽張で一払いしただけで四散させてしまったのだ。
驚愕に全身を戦慄かせるロゼネリアに、しかし小休止する時間は訪れない。
『――八色』
『ッ!?』
呟きが彼女の鼓膜に届いた瞬間、その僅か頭上を八匹の赤い蛇雷が駆け抜けたのだ。
反応できず、呆然とするロゼネリアを尻目に、赤色の蛇たちはそのまま宙まで疾走すれば――大轟音。遥か木星の大赤斑を消し飛ばしていた。
『――な!?』
地球数個分はあろうかという、木星が誇る巨大な大嵐。それをいとも容易く消滅させた現実を、ロゼネリアはしばし受け入れることが出来なかった。
遅れて届いた爆風が地上を荒々しく舐め上げ、ロゼネリアの金髪をも激しく躍らせる。
この威力、ウォルフと戦ったときの八色とはまるで比較に成り得ない。
『貴、様……』
彼女の狼狽を眺め見て、歪んだ赤眼を光らせる大和がさも愉快そうに喉を鳴らす。
右手に握った十束の剣から間欠泉の如く赤き雷光を発しつつ、一息に大地を蹴り砕いた。
『……次は私を斬るというのか?』
迫る雷獣を見据えつつ、空に位置する天使が問い掛ける。
『その剣で! その雷で! 私を斬り裂き! 焼き焦がそうというのか!』
大口を開けて喝破する。肩口から未だバシャバシャと噴出する鮮血を意に介さず、憤怒の情を曝け出し、
『――驕るな人間ッ!!』
『っ!?』
絶叫めいた咆哮が僅かに雷獣を怯ませた。
それを当然のように流れに組み込むロゼネリアが、次いで周囲に奇妙な天体を発現させた。
『イオ!』
手掌で数個あるうち一つを操り、大和へと飛翔させる。
黄土色の天体が雷獣へと到達すると、それは不可思議な空間を形成して対象を呑み込んでいき――
『ッガ――アァァアァアア!?』
焦熱の火砕流で八城大和を焼き尽くしていた。
立ち昇る火炎、煙、岩石が、疾走する獣を捕縛し踏み躙る。
赤い双眸をかっ開いて酸素を吐き出す大和を、口元を歪めたロゼネリアが見やっていた。
『活火山の味はどうだ、熱いか? クク、ならば冷やしてやろう――カリスト!』
続いて飛びゆく第二の天体。先程と同じく大和を捉えて呑み込んで、絶無の冷気で彼を凍結させていた。
熱気、冷気が同時に迸って境内を蹂躙する。その心地に目を細めたロゼネリアが威丈高に発していた。
『ガリレオ衛星という言葉を聞いたことがあるか? 木星の周りを公転する四つの衛星の呼び名のことだ。今のは内二つのイオとカリストが起こす現象を叩き込んでやったのさ。といっても聞こえていないか。せっかくだ、水星をも超える巨大さの、ガニメデの磁場を味わうといい』
言って、嗤う堕天が三つ目の天体を動けぬ大和へと見舞っていた。
『――ゴ、オオォォァァ……ッ!?』
超級の磁場が大和を踏み砕く。皮膚や臓器を不可視の毒が浸食して躙ってゆく。
決して地球では目に出来ない、異なる三つの災害を浴びた彼は心身共にズタズタにされていた。
腱が千切れ、臓器も侵され、大量出血に加えての火傷と凍傷で全身は屑同然。
だが、それでも――手負いの獣の眼は決して死んではいなかった。
『ヅォ、ッガァァアァ!!』
『――なにっ!?』
袈裟に横薙ぎ大上段。三度の破砕音を引っ提げて、八城大和は三つの衛星を斬り千切っていた。斬った勢いそのままに、前のめった身体を爆発させて突貫。驚愕の顔を晒すロゼネリアへと攻め掛かり――
『……惜しかったな』
『――ッ!?』
氷漬けにされていた。
『エウロパ。私の一番の切り札だ。絶対零度に近い大紅蓮の地獄だ、絶対に抜け出せん』
手こずらせてくれたものだと、息をついたロゼネリアが転がる自身の左腕を拾い上げる。
それを切断面へと接着し、神力を用いて元通りに結合させてしまう。
繋がった左手を啓閉しつつ、氷像と化した大和を睥睨した。
『……危険な男だ。だが私にもう油断は無い。その彫刻姿のまま、一滴残さず貴様の神力を搾り取って均衡の柱へと捧げてやる』
メイザースもお喜びになるだろうと、ブロンドを靡かせた堕天の笑みが境内へと染み渡った。




