覚醒
――な、何だ、アレ……?
――あれって、え……? も、木星……?
どよめく人々が突然の怪異を目の当たりにし、目を皿にして呟く。
見上げた果てに、この世の地獄が顕現されていたから。
赤茶と薄水色で出来た斑模様が流動し、その中で特に激しい嵐によって創造された大赤斑が、まるで目玉のように地上を睥睨している。
木星。強大な重力により、長い年月を掛けて数多の星屑を呑み込み、遠く離れた地球を守護してきたガス惑星。しかし、距離を無視して肉薄してきたその星が、今度は強力な磁場と放射線を呵責無しに浴びせかけてくる。
人々は、彼方の星だったからこそ独特な色と柄に魅せられた。遠い存在だったからこそ組曲に聞き惚れた。
けれど、今は全く違う。月と同じ距離に位置し、夜空を占める斑の帯は比喩無しに毒そのもの。事情も知らずに慄き、慌てふためき、あるいは呆然と立ち尽くす人類は殺虫剤を吹き付けられた蟻の群れに等しかった。
泡を吹き、喉を抑えて倒れる子供。我が子を案じて必死に抱いて呼び掛ける母親が、数秒後には後を追うように呼吸を止めて力尽きる。
そんな光景が連鎖、連鎖、止め処なく拡がり、溢れ返っていく。
まさしく地獄絵図だった。弱い者からどんどんと死んでゆく。
彼らにできることは、無駄とは分かっていても物陰に身を潜めて震えることのみで――
『ふ――くっ、くっふふふふふふ……!』
零れる笑み。邪悪な嗤い。
喜悦を刻んだ堕天使が人間どもの怨嗟を感じて居直った。
『見えるかお前たち、あの雄々しき斑の星が。歓ぶがいい、さあ快楽に身悶えろ。座して腕に抱かれていれば、等しく終極へと誘ってやろう』
尊大な物言いと共に、激しく振られるその右手。
勢い受け止め、背後に生える一対のシンボルが微かに揺れた。
そう、羽である。夜空の大半を占めるほどの存在を放つ木星と同じく、茶色と蒼の斑に染まった天を翔ける使徒の羽。
『ああ、身体が重い。だというのに気分は昂揚するがまま。分かる、分かるぞ、羽化したばかりの蝶などは、得てしてこのような気持ちだったのだろう』
変わり果てた面貌だった。穏やかなかつての面影はどこにもない。
目玉全てが真っ黒に塗り潰された様相で、目を焼くブロンドを靡かせたロゼネリア・ヴィルジェーンが言ってのける。
天翔光輪――翼を我が物とし、地上を見下ろす究極の法。
「くっ…………!?」
その場にいる全員が目を剥き、為すがままに戦慄していた。
特に大和などは真正面からその莫大な神圧を浴びせ掛けられているため、気が触れそうになるのを抑え込むので精一杯である。
『そう怯えるな。この神気に満ちた境内ならば、木星の放射線も幾分か緩和されているはずだ』
「…………ッ」
緩和されてこれだと? 冗談じゃないと大和が歯を食い縛る。
手足が震え、喉が干上がる。自分がきちんと呼吸をしているのかも疑わしい。
埒外の神力に蹂躙され、不気味な木星に睥睨される。魂そのものが踏み潰される感覚は、如何なマッカムやウォルフでも持ち得なかった重圧感。掛け値なしに今のロゼネリアこそが最凶最悪な相手であった。
それもそのはずだ。第一、第二、第三のみが踏み入れた領域に、遂に第四が並び立ってみせたのだから。
彼女が必要だったのは生命樹における『均衡の柱』の確保。及びそこに付随されるセフィラの掌握。
第十は大和に敗れて黄泉の奈落に滑落し。
第九は三日月なまま戦闘に駆り出され、敗北。
そして第六はご覧の通り心身共にがらんどう。
瀕死の状態で尚その謀に気付いた第五は始末される。
結果、ロゼネリアはギーメルを用いて天翔し、大願を叶えたのだ。
『私が真に治めたかったのは第六だ。残る四つは折を見て迎えた新たな同胞に任せるさ』
「ティファレト、だと? お前が……?」
『そうだ。この私が生命樹の心臓となって理を循環させてゆく』
大和の疑問を受け止め、ロゼネリアが不遜に返す。
背後に浮かぶ、月の距離と同じ位置に陣取った木星を目で示して。
『あの星こそが新たな太陽であり、月だ。とは言え、質量不足なのは百も承知。よって木星には、白道を通り道としてこの地球を昼夜問わず照らしてもらうことにした』
白道とは月の通り道。太陽の通り道である黄道では距離が開き過ぎて木星の輝きが届かないため、ロゼネリアは第九の領域をも支配下に置いたのだ。
そう、今しがた空に浮かんでいた三日月と、持ち主を消滅させることによって。
『情けない話だが、ウォルフは私の予想を大きく超える力を持ってしまった。それこそ私が手に負えんほどにな。体よく当時の生命樹を引っ掻き回させるために人間へと転生させてやったが、正直後悔したものだ』
ウォルフによって当時の第九を、そして僥倖なことに第六までも空きの状態にさせたのはロゼネリアの目論見だ。結果として均衡の柱を得るために、都合の良い仮初めの後任を配置することが出来たのだから。
しかし、誤算だったのはウォルフ・エイブラムという獣の牙。その凶悪さはロゼネリアの喉元にすら届き得た。ロゼネリアの能力の特性上、彼が本気で気配を殺した場合は対処が難しくなるからだ。
『そこで利用したのが大アルカナの面々さ』
墨汁を垂らしたような目玉を歪め、三日月のような笑みを零す。
『大アルカナを創り上げた第三は確かに天才だが、まだまだ心身共に未熟でな。自分の玩具を自ら壊すことに躊躇しないが、他人に取られることは酷く嫌うお子様なのだ』
言ってしまえば単なる駄々に過ぎないが、しかし第三のそれとなれば影響力も計り知れないものとなる。
ゆえに、ロゼネリアはそれを利用した。大アルカナの一群を扇動し、ウォルフに嗾けて踏み潰させたのだ。後は、抑えきれない単純な怒りが第三を掻き立てる。結果としてロゼネリアの思惑通り、ウォルフも月も第三に消されてしまったというわけだ。
『神童といえど所詮は子供だ。それでいて妙な見栄もある。腹いせに私に手を出せば、してやられたことを認めることになってしまうからな。まあ最も、来るというなら受けて立つがね』
「えらく……饒舌だな……。自分よりずっと年下のガキに見下ろされんのが気に喰わねえのかよ」
『否定はしない。あのような子供がメイザースのお力を直接賜っているわけだ、良い気分もしないさ。ついでに言えば、慈愛が反転した負の感情が私をそうさせているのかもな。……なんだかんだで、私も第四の影響を色濃く受けているのかもしれんな』
自嘲気味に呟いたロゼネリアだったが、『お喋りはここまでだ』と斑の羽を広げてから大和へと向き直る。
『さて、私自身こうして飛翔できたものの、未だ目的は達成されていなくてな。貴様らの命を以てして、均衡の柱を創造させてもらうぞ』
「な……に……?」
『柱が出来れば、生命樹の心臓となった私の理力もより効果的に樹に行き渡る。なにせ、ギーメルを通じて第一へ届くのは確定的なのだからな。天照に悩まされたメイザースの苦労も、今日を以て払拭されるのだ!』
告げて、ロゼネリアがギーメルを境内中央に生える大きな神木へ埋め込み、
『さあ、まずは貴様からだ伊邪那岐。木星へくべられる薪となれ!』
「な――、が――ガアアァァァァアァァアアッッ!?」
大和へと指を向ければ、ギーメルを内包した神木から突然光の柱が天へと伸び上がった。
略取しているのだ。大和諸共、奥底に眠る伊邪那岐の生命力と神力を根こそぎに。
それと同時、彼方の木星までもがドクンと鳴動してから肥大されてゆく。
「あ、グウゥア……! ウアアァァァアアアアァアッ!!」
『ハハハハッ! 良いぞ、素晴らしい! せっかくなんだ、叫んでいないで貴様も見てみたらどうだ? この美しい柱の姿をな! ハハハハハハッ!』
犬歯を見せ、真っ黒な目玉を喜悦に染めて哄笑するロゼネリア。
「――大和ォ! ち、くしょう……! あたしからやれよ、くそぉ!」
『慌てるなよ天照さま。お前は伊邪那岐と大国主を喰らい尽くした後でゆっくりと相手をしてやるさ』
上空から投げ掛けられる美琴の言葉に、しかしロゼネリアは顔すら向けず腕を組んだまま言い放つ。
と、そこへ――
「ロゼェ……」
ふらふらと、黒猫の首を抱いたまま、チェルシーが顔中を涙で濡らしながらもロゼネリアへと歩み寄る。
「……なんで? なんでこんな酷いことするの? 優しかったじゃん、微笑んでくれたじゃん。ねえ……いつものロゼに戻ってよぉ……!」
『……ガキが』
チェルシーの懸命な訴えを目にしたロゼネリアが嫌悪を隠さず右手を掲げた。
『錯乱のあまり現実逃避か? ならばもう一度言ってやろう。貴様の家族は私が間接的に殺したし、その汚らしい首は私が千切り取ってやった。全てはお前を第六の代替品として置いておくためだ』
「ぁ……」
『才能も無い置物にもう用など無い。ついでに言えば私は子供が嫌いでね、貴様と過ごした日々など、ああ反吐が出そうだったよ』
「ぁぅ……、ぁ」
それこそ吐き捨てるように、ロゼネリアは斟酌無しに口舌の刃でチェルシーを斬り裂いた。呆然とする彼女を眺め、『せっかくだ、最期だけは優しい母の顔を見せてやろう』と右手を上げて――
『それでは、死んでください。チェルシー』
「――――」
にこりと、絶望を晒すチェルシーに光弾を放射する。
泣き腫らして動けない少女を喰らうため、肉薄したそれが牙を剥いた――刹那。
轟ッ! と。黒の一閃が光の玉を薙ぎ払っていた。
「……っ…………、」
弧を描くは黒く玉散る神の剣。双眸を霞ませながら喘鳴するその持ち主。
「や……しろ、さん…………」
『ほう、その状態でよく動けたものだ、感心するぞ。とはいえ、つまらんことで死に急いでくれるなよ。貴様は大切な主賓なのだからな』
「…………、」
八城大和は答えない。チェルシーの声も、ロゼネリアの嘲笑も彼の耳には届いていない。
なぜならば、
――やれやれ見ていられんな。
厳めしい声が発せられていたからだ。
空間、次元を無視した領域に、不可思議な世界が展開されていた。
言葉を放ったのはその場に坐する偉丈夫。同時に大海原の波濤が飛沫と波音を掻き鳴らす。
荒れ狂う海面には十束の剣の柄が突き刺さっている。その一方で天を衝く剣先に、直接胡坐を掻いた男が嘆息しながら大和を見据えていた。
――情けない小童め。これでは伊邪那岐さまに顔向け出来ん。儂の心を動かしたくば、赫怒の炎とその証を見せてみろ。
「……っ、…………!」
ズルズルと、足を引きずりながら大和が歩む。
彼の脳内は、その異様な言葉だけが重く響いていた。
ボロボロになって尚進む様子を見て、嗤いを浮かべたロゼネリアが何か発しているが、大和はそれを受け付けない。否、受け付けられない。
忘我に等しい状態で彼は歩む。剣先が地面を引っ掻き、一歩、また一歩と不規則に前を往く大和が突然停止し、瞬間――弾け飛ぶ。
『――ッ!?』
瞠目し、ロゼネリアが即座に飛び退る。
彼女がいた場所には、自らの左腕を天之尾羽張で刺し貫いた大和が存在していた。
フン、と。見やるロゼネリアが鼻を鳴らす。
『自分の腕を貫くついでに私をも刺し殺そうとしたわけか? 私を直接狙ったわけではないため、第四の力は発動しないと。屁理屈も良いところだな』
言い捨て、しかしロゼネリアは自らの矛盾に気付く。
なぜ、自分は大和の攻撃から逃れる真似をしたのかと。
第六に移ったとはいえ、未だ玉座の力は生きている。今しがたの発言が正しければ、鷹揚に構えていたところで大和の剣は届かないはず。
だというのに回避を選んだのは反射か、それとも万が一を考えて安全策を選んだのか。
どちらも、違う。離脱せねばという強迫観念じみた本能が彼女を突き動かしたのだ。
まるで、単純な神力で大和が自分を超えたと思ってしまったかのように。
『馬鹿な』
有り得ない。失笑と共にくだらない思考を吐き捨てて――驚愕。
バヂン!! と、突如として目を焼く真っ赤な稲妻が迸ったのだ。
息を呑んだロゼネリアが射抜く先、八城大和の全身から。
「……ッ! ――ッガアァ…………ッ!」
そして、当の大和は獣のように吠え立てていた。
貫通した左腕から止め処なく鮮血が溢れ、十束の剣へと垂れ落ちてゆく。
ジュクジュクと、ボタボタと、剣先を伝う血はやがて根元へと溜まっていく。
同調するように明滅する赤い閃光。
夜闇を掻き千切るかのように光る暴力的なその光矢は、根拆や石拆の比ではない。
「あ、あれ……は…………!?」
離れでその光景を見つめる曹玲が戦慄していた。
彼女には見覚えがあったのだ。かつて熊野で大和が大樹を消失させたとき、一瞬だけ垣間見えた赤い稲妻を。それは曹玲をして寒気を覚える程のものであり――
――さあ寄こせ。血を、血を、貴様の魂を。
「ンなもん……、好きなだけ……くれてやらあ……!」
再度迸発される赫怒の雷。
ズチュル、と腕から剣を引き抜き、盛大に血を零れ落とす大和。
だらんと左腕をぶら下げて、痙攣するそれを放置した彼が両足を今一度踏ん張った。
地球の悲鳴が聞こえてくる。
木星に蹂躙される人々の絶叫が鼓膜へと突き刺さる。
「…………っ!」
耳が痛い。どうにもできない無力感が胸を穿ち、削ってくる。
いや、俺のことなんかどうでもいい。
今はただ……、ただあの非道な女が許せない!
だからッ!
「――だから! 黙って! 俺に力を寄こしやがれッ!」
顔を上げて叫ぶ。
開眼と共に二つの赤帯が追従するよう閃いた。
開かれた双眸は、雷と同じく血のような赤眼へと変色。
朱、紅、緋、赤、赫――――嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇嚇!!
憤怒、恐怖、そして血臭を辺りにぶち撒けながら、八城大和が弩級の神威を爆発させる。
――神帛血閃。
『な――!?』
刹那、瞠目するロゼネリアの左腕が斬り飛ばされていた。




