愚かな選択
「……閑散としてやがるな」
八城大和は辺りを眺め、独りごちるようにして舌打ちした。
夕飯を作ってくれた神崎美琴を送り届け、再び家に戻る途中で空を見上げたのだ。
「気色悪ぃ色だ……」
目を眇めて射抜くその先に、不気味に嗤う巨大な口があった。
それは銀色の三日月。怖気を走らせるその煌々とした月光が、夜の世界を白銀一色に染めている。
閉塞感や圧迫感、そして奇妙な高揚感がこの夜には溢れている。人々の暴力的な衝動が噴出し、誰彼構わずそれをぶつけてしまえと悪魔の囁きが耳奥で蠢くのだ。
逢魔が時とは比較にならない、妖魔が完全に覚醒して闊歩する時間帯だ。超常に耐性のある大和なら自制ができるが、そうでない人間の起こす犯罪率は類を見ないほどに跳ね上がる。
まるであらゆる罪悪と共に瓶詰めにでもされたかのようだ。希望などありはしない。
だから、人々は表に出ず自衛する。月の光を避けるように。
さっさと帰るに限る。そう思いたい大和であったのだが、そのとき空の方から一瞬だけ激しく光るものが目に飛び込んできた。
「な、なんだありゃ、太陽!?」
その物体を、大和は驚きながらも凝視する。
「……ただの鳥じゃねえか」
恐らくはカラス。光ったのも気のせいだろう。
しかしなぜ、よりにもよって太陽などと勘違いしてしまったのか。
そのカラスが飛んでいった方角は、
「……墟街地か。ここからそう遠くないが……」
思い起こすのは八年前の情景だ。
父を殺した幼い天使。その結果、母まで瘴気の毒で亡くしてしまった。
今日はなんだか、色々思い出すことが多すぎた。
『墟街地には行ってはなりません』
「……」
夕方のロゼネリアの声が蘇る。
自分でも分かっている。行っても無駄だと。濃度の高い瘴気で身体を壊し、余計な災禍に巻き込まれるだけだと。だが――
「何かきっかけになってくれるかもしれねえ」
どんな小さなことでもいい。あの日の出来事の情報が欲しい。
仮に何も無くとも、ある程度の気持ちの整理にはなるだろうから。
「――行くか」
決心し、大和は銀闇の夜を独り歩く。
その選択が、彼の人生を大きく変化させることになるとは露知らず。
そして一方――
「あっちゃー……」
神崎美琴は自室で眉根を寄せつつため息をついていた。
「大和んちにスマホ忘れた……」
言いながら、カーテンを開けて外の様子を眺め見る。
飛び込んでくるのは目を刺すような銀月光。
当然、人っ子一人見当たらない。
「うーん、どうしよ」
この夜に出歩くのは危険だ。そもそも両親が絶対許さないだろう。
が、いくら大和が幼馴染とはいえ、男子の家にプライバシーの塊を放置しているのも気が気じゃない。まあ見られても困るものは……。
「――あ」
そこまで考えて思い至り、あんぐり口を開けたまま固まった。
胸が大きくなる方法が載ったサイトの閲覧履歴。友達に言われるがまま、初めて撮った自撮り写メ(ノリノリ)。好きな特撮の画像や主題歌。
「あいたたたた~…………」
結構あった。顔を覆うようにこめかみに手をやってしまう。
しかしまあ、それくらいなら構わないのだ。問題は……、
「何を隠そう、あたしってば大和からのメールは全保存してるのでした~」
明るく言って、即座にサーッと血の気が引いた。……そんなもん見つかったらどんな顔して接すりゃいいのよ!?
顔面蒼白のまま、美琴はその場で激しくもも上げをし始める。
「ど……どどどどどどどーしよーッ!? やばいやばいミコちゃんピーンチ!」
うわああぁあと頭を掻きむしり、ドッタンバッタンと部屋の中を行ったり来たり。
勢いのままベッドにダイブし、枕を抱えてごろんごろんと悶え苦しんだ。
「いいいいかんいかん……! これはいかんですよ……!」
何としてでも速攻回収せねばならない。
ギン! と射抜くように睨んだのは部屋のクローゼット。
「そうだ! 緊急用の靴があったはず!」
すると美琴はその靴をクローゼットから引っ張り出して履いていく。
電気を消し、両親にばれないように静かに窓を開け、器用に近くの電信柱を使って地面へと降りていく。
「お父さん、お母さんごめんなさい! 帰ったらいくらでも叱られるから!」
家の方へ向かって両手を合わせて謝罪し、美琴は銀闇の道を走り出した。
足は全く痛くない。ロゼネリアの治療は他の異能者と一線を画している。
喜びつつロゼネリアに感謝するが、しかしすぐに自身が発する違和感に気付いてしまった。
「っちゃー……、やっぱり胸がざわざわする……」
焦燥感や苛立ちといった感情が加速度的に増大していくのだ。
空を仰げば恐怖を煽る白銀の月。一体いつからあんな色に変わってしまったのか。
「……もう、こんなことは二度と無いようにしよ」
自分の浅慮な行動を反省しつつ、美琴はなおも走り続けた。
そのとき、だった。
「……えっ!?」
近所にある見慣れた林の中から、景色を霞ませるほどの瘴気が大量に発生していた。
呆然とするのも一瞬だ。キンキンと耳を打つ子供の叫び声が聞こえてきたから。
「なんなのよ……全く!」
湧き上がる恐怖をなんとか殺し、美琴はその木々の中へと全速力で駆け込んだ。
「っ! 君たち大丈夫!?」
「え……うぅ……」
「お、おねえちゃん……だれ……?」
「べつに悪い人じゃないよーん、ホラ立てる?」
林の入り口で、尻餅をついて動けない小さな子供が二人、恐らくは姉弟だろうか。
二人の手を取って半ば強引に起き上がらせて、捲し立てるように事情を聞いた。
「よるを……ちょっとたんけんしたかったんだ。そしたらおねーちゃんもついてくるって」
「だって……コウだけじゃしんぱいだったんだもん……」
「うーん……」
まあ、自分を棚に上げてこの子たちを叱ることはできない。
兎にも角にも園内にある大量の瘴気。この場から逃げるのが何よりも先決だ。
彼らの手を握って走り出そうとした――瞬間。
「トゥートゥトゥパッパー。あれあれ逃げるの、逃げちゃうの? さっみしーなぁ」
「――ッ!?」
「ひっ!?」
「き、きた……!」
毒の濃霧の向こうから、愛らしい見た目をした金髪の少女がケタケタと歩いてきた。
神崎美琴は瞠目する。彼女の特徴や雰囲気が、大和から聞いていたものと似ていたから。
そして戦慄する。この少女が、あまりにもズレていたから。
その笑顔は人を喰う羅刹のもので。その感情は針一本で支えられたように不安定で。その手が、その脚が、その小さな身体が、国すら滅ぼす大災害の集合体であるのだと理解させられた。
だから、神崎美琴は一つ息をはいてから、努めて明るく子供たちに言った。
「ま、ここはあたしに任せんさい」
「む、むりだよ。おねーちゃんしんじゃうよ!」
「そーだよ。あいついっぱいひとをころして、とかしちゃったんだ」
「…………」
その言葉を聞いて顔をしかめる美琴。
納得だ。あれは人間ではない。思わず抱きしめたくなるような見た目に反し、漂ってくるのはムッとした血生臭さだ。一体何人殺したらあんな臭いを発するのだろうか。そして――この少女は大和の両親を……!
握り固めた拳をどうにか和らげ、美琴はおどけたように二人に言った。
「だいじょぶだいじょぶ。あたしってば実は神様だから」
神様? と訝る子供たちに対し、美琴は頭の髪飾りに手を持っていった。すると――
「わっ! すごい、ひかった!」
「おねーちゃんすごい!」
「でっしょー? ただこれは他の人には内緒だぞー? 人知れず戦うのが神様のルールなのだ」
花の髪飾りをポッと光らせ、えっへんと胸を張ってそう言った。
それから美琴は二人の頭にポンと手を置き、まずは姉に対して「弟を大事にしてあげてね」と言い、それから弟にも「お姉ちゃんを守ってあげなさい」と言い聞かせた。
元気よく返事をして駆け出す幼い姉弟。
自分は大和に世話を焼かれるのを嫌がるくせにそう伝えたのは、深層ではそういう願望でもあるのだろうかと自嘲した。
「あはっ! 逃がさないよーっだ」
「おーっと、待ったーッ!!」
走り去る姉弟たちに向かって邪悪な笑みを浮かべた金髪の少女に、美琴は大声を張り上げて制止する。
「まあ、今はあたしと付き合ってよお嬢ちゃん」
「ん~?」
動きを止め、舐るようにこちらを凝視する少女に、内心で震え上がる。実際先ほどの声は上擦っていたに違いない。というより、さっきからガクガクと膝が震えている。
何が……神様だと、乾いた笑みを浮かべる美琴。
髪飾りを光らせる。ああ確かにそれは不思議な現象だろう。でも、それだけなのだ。本当に、光るだけ。恐らくはこの髪飾りが陽明神社の宝物だからこそできる芸当で、美琴自身には敵を挫く力など皆無である。
でもあたしは、神崎美琴は、あの場で子供を放って逃げる選択肢など持ち得ていないのだ。
根っからのお節介で世話焼き気質。自分でもそう思うけど、お姉ちゃん然とした性格は今更直すことなど不可能だもの。それに、大和だってこんな状況に鉢合わせたら、あたしと同じようにしたと思う。だから、後悔なんてしていない。
(おばさん……)
きゅっと髪飾りを握った。どうか力を貸してと大和の母に語りかける。
隙を衝いて逃げるくらいなら、なんとかあたしにだって――
「あー、そっかー」
「ッ!」
甲高い少女の声に、美琴の思考が遮断された。
なおも、金髪の彼女は嘲笑を浮かべて美琴を射竦めている。
「その脚。ロゼの神気が溢れてる。きゃは、馬鹿みたいに目立ってる。あー、あんたが邪魔くさい太陽神ねー。あんたのせいで迷惑してんのよこっちはさー、キャハハハッ!」
「――え?」
彼女は、一体何を言っているのだろうか。太陽神? ……ロゼ?
聞き覚えのある名前がなぜこの少女の口から発せられるのか。くちびるを戦慄かせ、我知らず一歩後退した美琴は何かを踏んだ。
「――ひっ!?」
蛆だった。それも靴よりも大きなサイズのものが何匹も、美琴を囲うようにして大量発生している。
そして、ケラケラと嘲笑する声が飛ぶ。
「バーカ、逃がすと思う?」
「ぁ――」
天使がいた。餌を見つけて喜悦に浸りきった表情の上で、邪悪に輝く光輪を携えた堕天が。
その双眸は濁りきった殺意を迸発させ、美琴を捉えて離さない。
感情の発露と共に、大地から更なる瘴気を爆発させている。
やはり、この少女なのだ。日本を、世界中を毒ガスで汚染させているのは。
彼女なのだ。大和の父を殺害し、母をも瘴気で毒殺したのは。
歪んで、醜悪で、けれどそれに似つかわしくない可愛らしい音域で発声する。
「バーカバーカ、大バカね! わざわざ殺されに来るんだもん。ま、どの道こっちから殺しにいこーと思ってたし、ちょーどいいや!」
濛々と、ウゾウゾと、瘴気と蛆が美琴を捉え、自由を奪う。
一歩も動けない状況の中、神崎美琴は聞いてしまった。
「全く、こんな女のためにチェルシーが第六に認められないなんてねー。太陽はあいつのものなの、わかる? このバカ女!」
「――」
驚愕し、困惑し、美琴は遂に停止した。
ロゼネリア以上に、この殺人鬼から聞きたくなかった名前を耳にして。
なぜ? どうして――?
失意のどん底に突き落とされて戦慄する美琴に、悪鬼の凶刃が迫りゆく――