天秤の傾きはどちらへと
雷獣が次元を刻む。それは言葉通りの疾風迅雷。二柱分の神威を爆発させた紫電と共に、一本の閃きとなった大和の速度は雷に等しい。
「ラ――アッ!」
「――ヂィッ!?」
雷撃の薙ぎ払いは肉を断ったがしかし浅い。
飛沫かせた血霧を気にする間も無く、雷閃を描いた大和が遥か彼方へ疾駆する。
「づ――ぐ、ぅ……!」
いや、疾駆せざるを得なかったのだ。迅雷と化した大和だが、あまりに速すぎて彼自身が二神の力を制御しきれていない。
ブヂブヂと、筋繊維が悲鳴を上げて千切れてゆくが歯を食い縛って抑え込む。
靴底で強引にコンクリ削り、轍を残して無理くりに速度を落とす。屈み様に地面を掴んだ左手を軸にし急転――環状に弾け飛んだ大和はすぐさま最高速度に到達した。
墟街地に大きな弧が描かれる。枯れ木や廃屋を巻き込みながら猛進するその姿はまさしく雷獣。夜闇に蒼光を散らしながらなおも彼は疾走した。
その距離は二キロ、三キロ、まだ伸びて――まさしく無駄と言う他ないが、これは力の代償だ。稼いだ距離に反比例して大和の肉体と神力が削れてゆくが、この閃きに付いてこれる者はそうはいまい。先の銀狼も反応こそすれ、身体は追従してこなかったのだから。
「ギ――ッ!」
彼方を見やる。連なったビルの窓越しに透けて見える狼男の面貌を。
刹那に視線が交錯した。だがあろうことか、ウォルフは笑みを刻んでみせたのだ。
対して、眉間に皺を寄せた大和が嫌悪も隠さず舌打ちする。
「後悔――しやがれッ!」
右足で大地を砕いて跳躍一閃。勢い殺さずビル群をぶっ壊しながらの猪突猛進は秒に届かぬ瞬時の事象。
雷迅が、瓦礫と咆哮引っ提げ魔獣へと雪崩れ込む。けれどそこに浮かんだのは「ハハッ」という嘲笑だった。
なんと、狼男はその超速をかすり傷さえ負わずに躱してみせた。
「バカが、直線的過ぎだ! 力に翻弄されてるヤツなんざ取るに足りねえ――」
そこでウォルフが驚愕の色に染まった。
彼の目線の先にあったのは、地面に剣を突き刺して急停止していた雷獣の姿。
身体を反転させる流れのまま、再び剣を抜いた大和が銀狼へと斬りかかる。
「ヅぅ――ァ!?」
肩口に神威の爪痕が刻まれた。
ヂヂッ! と銀狼を蝕む激痛と紫電の痺れ。
「オォ――ラァァアア!!」
その隙を大和は逃さない。足を踏ん張り、両手を固め、雷光の刃を裂帛の気合いで往還させてゆく。目にも止まらず行き交う神威は血河を流す溝を刻み、赤い飛沫は飛んだ間際に雷熱で消され散る。
斬撃は寸毫掛からず加速、加速――遅れ響くパンという派手な音を彼方に置きつつ銀狼の全身を血染めに変えて、
「ッソが!」
反射かそれとも本能か、攻撃の間隙を縫った最上のタイミングで反撃してくる魔獣の爪だが、当たり前のように雷獣には届かない。
振るわれた暴力を十全に引き込んでから八城大和は爆ぜ消えた。バヂン! と稲妻の残滓を残し、中空に飛んでから敵の背後に急襲して蹴り飛ばす。
吹き飛ぶ魔獣へと追躡し、反撃されるかまいたちを裂帛の神威で掻き消して――
「――終わりだ」
こちらを見て歯噛みする銀狼を射抜きながら、大和は諸手に神力を込め始めた。
天之尾羽張から迸る稲妻。それが雷神と化して辺り一帯を巻き込む異常気象を発生させた。
大雷が大見得するよう絶大な神威を迸発させ。
火雷が弾けば焦熱の炎を巻き上げて。
黒雷が夜空に黒雲を敷き詰めて。
拆雷が鋭利な閃光を見せつけ。
若雷が死んだ街に活力を漲らせ。
土雷は大地に潜って疾走し。
鳴雷は怒りを轟音に乗せて稲光り。
伏雷がそれら全ての紫電と共に目を焼く明滅で夜の闇を掌握した。
――八色の雷神。
八方した雷の理を、八城大和が引き寄せては十束の剣に収斂させていく。
加えて、更に根拆と石拆の神威をもそこに横溢させ、黒い刀身が十柱分の紫電で激しく発光して火花を散らせば、
「いい加減に……くたばっちまえッ!!」
大上段の構えから一息に振り下ろす。
剣身から生まれ出るは神に等しき雷霆の龍。まさに標的に向かって真横に墜ちる雷轟が、銀狼の肉体を呑み込み――そのまま廃墟に奔って爆砕した。
弾け飛ぶ光と音が夜の世界を蹂躙し、蜘蛛の巣のように広がる放電が爆心地から数十メートルを炭クズの更地へと変えていた。
「――ぜっ! ハッ! ……ハアッ!」
空中から降り立つ大和が剣を杖替わりにして息を荒げる。
汗がボタボタと大地に染み込み、また落ち着くための呼吸の反動で全身が絶叫するよう痛みを上げた。
「ぐ――づ、ぅ――い、ってえ…………ッ!」
歯軋りし、顔を顰めた大和はただ痛みに耐えていた。
決壊するように裂けた肉から間欠泉のように血が噴き出す。それだけでは当然済まず、彼の耳に届くのはブヂブヂという不吉な音だ。同時に凄まじい痛苦が肉体を踏み躙る。腱も筋肉も血管も、無茶を通した代償で多くが断裂してしまっていた。
「へ、へへ……、でも、これでようやく……」
勝負は付いた。そう確信した彼の耳に届くのは切羽詰まったチェルシーの声だった。
「八城さん! 前! 前です!」
「……あん?」
それに反応した大和が間の抜けた声を出して顔を上げ、そして戦慄した。
「バ――カな……」
「……ハア、ハッ……! ……よォ、元気してたか?」
「くっ――!?」
目を皿にした大和が目の前の現実に打ちのめされそうになり、我知らず半歩引いた。
息も絶え絶えにフラつきながら、全身ズタボロの有り様で、しかしウォルフ・エイブラムは生きていた。
信じられない。なんという生命力だ。自分とやり合う前、恐らくはチェルシーにも重傷を負わされているはずだというのに。
そんな大和の心情を見透かすように、口角を上げた銀狼はジャケット越しの腹部を指し示し、
「ほれ、ちゃーんとポンポン隠してたからよ、雷様に取られずに済んだのさ」
「――ッ」
神経を逆撫でする冗談を言ってのけたのだった。
歯噛みするまま咄嗟に剣を構え直した大和であったが、
「ずりーぜオイ。攻守交代、俺の番だ」
「が――!?」
一瞬で接近したウォルフに蹴り飛ばされていた。
風と化しつつ、「クソ……!」と犬歯を見せた大和が旋転して壁を蹴って舞い戻るが、
「そりゃ!」
薙いだ剣は躱され、隙だらけの脇腹に銀狼の膝が突き刺さっていた。
吐血と共に空気を吐き出し、ボギボギッ! という嫌な音が発生する。アバラを何本も持っていかれた事実は激痛となって大和の脳を支配する。
「ぐ――ァ…………!」
呻き声すらロクに出ない。口の端から血を滴らせ、くの字で脇腹を押さえる大和に呵責無しのつま先がぶち込まれる。
「クッハハハハハ!」
再び飛びゆく大和にウォルフが嗤笑浮かべて並走した。
宙空の彼に向かって追風よろしく浴びせる拳打の驟雨。締めに強烈な一撃を見舞って弾き飛ばし、側の朽ちた標識を引き抜いて、
「オラ串刺しいっちょう!」
槍投げの如く大和へと投擲していた。
「――クッ!」
間一髪、翻った大和が死の槍を避けていた。
背後で鉄筋を串刺すそれを尻目に根拆と石拆を召喚する。
反動で血が噴き出す。筋繊維がブチブチ弾け、アバラ骨が砕けてゆく。
「ヅ――アァ!」
気絶しそうな激痛に、けれど耐える。叫んで猛って痛みは消えろと無茶を通す。
爆ぜ拡がって目を焼く神威の蒼雷。華となり、光となった八城大和が銀狼貫く稲妻に。
振り下ろす雷刃はしかし、銀狼の毛皮で防がれた。慣性のまま数メートルは押し込んだが、ヂヂッと迸る雷光眺めてウォルフは嗤ってみせた。
「軽いぜ。相当ガタがきてるなテメー。カッコつけて背伸びばっかすっからだ」
「……そりゃテメーもだろ。腹見せて服従ポーズしろや犬っころ」
「上等こくなや人間が!」
頬をブチ抜くウォルフの拳。よろけた身体はけれど止めず、流れるままに半回転させて飛ばした踵を魔獣の顎に叩き込む――だけに終わらず互いに打ち込む連撃が加速度的に増幅される。
殴り、穿ち、切り裂いて頭突きを見舞う。爆ぜた闘気が迸発されて大地に亀裂を入れてゆく。
『……ッ!!』
互いに射殺し、睥睨し合う。同時に繰り出す拳同士が火花を散らして発光した。
鬩ぎ合うまま大和が天之尾羽張を敵手の首へと疾走させたが、咄嗟に後退したウォルフは道路を砕いて再接近。瞠目する大和のどてっ腹に肘を突き込んでいた。
「――ッフ……!?」
息が止まった大和が頽れる。追撃される蹴りを寸暇で飛び退き脱出する。
発現させる雷光神威。迅雷と化す大和に狂笑浮かべて追い縋る羅刹の銀狼。
空中で激突し、斬っては捌き、拳をぶつけ――
(こんの野郎……!?)
大和は驚愕し、焦燥した。
ウォルフの力になどではない。肉体のタフさと精神力にだ。
攻防によって激しく動く銀狼だが、彼は一時も八城大和から目を離してはいなかった。その眼で、その嗅覚で、その立派な耳で、そして殺し合いに身を埋めたもの独自の勘を最大限に発揮して、大和がどう動くかを見据えている。
衣擦れ、筋肉の僅かな動き、目線、呼吸、その他諸々一つ足りとて見逃しはしない。
尋常ではない洞察力と集中力、加えて大ケガや咄嗟の事態にも対処出来得る胆力。この男の真に恐ろしい点とはこれである。感情のままに、悦楽に身をまかせ、ただ猛進するだけの頭の弱い畜生などでは決してない。
先ほどの大和の大技も、喰らう刹那にダメージを最小限に抑える工夫を施したのだろう。
見やれば、斬り込まれた傷など、もはやウォルフは全く意に介していなかった。どころか全身の裂傷は疾うに筋肉で固めて出血を止めていた。
人間とは違う、血と死に彩られた獣道を闊歩する誇り高き銀狼。彼こそ一面に輝く白銀世界の加護を受けた月の魔獣なのだから。
「…………っ」
ゾクリとした。一瞬とはいえ、生まれた怯えは瞬く間に伝播して強者と弱者の隔たりを明るみにさせていく。
それを鋭敏にキャッチしたウォルフが獰猛なまでに口端を上げた。
「ッハハァ! 目は口ほどに、ってなァ! 途端にテメーが弱く見える――ぜェ!」
「――ぎ、――ヅ……ァ――!?」
襲い来る猛打は速く、疾く、そして重い。
二柱の雷神でどうにか受けて、捌いて、いなして逃がし――否、捌き切れない。
敵の肉弾が擦過され、血を滲ませた大和が更に焦りを募らせる。
「……ゼッ! ゼェ……ッ、ハッ……!」
原因は何だ。無茶をした肉体の限界か、それとも神力か。あるいは月の寵愛を受けた銀狼が底無しに力を増幅させているためか。
それらは当然関わりある。だが、一番の理由はやはり大和の心情に由来する。彼が魔獣の猛進に呑まれ掛かっていることだ。
その牙に、その爪に、雷火の神威に焦がされることなどまるで頓着していない豪胆さに。
怯えは一歩を遅らせる。決意を鈍らせる。判断力と集中が脂汗と共に四散して、歯噛みする大和は見せかけの闘気で剣を握ることしか出来ていない。
それは威嚇にすらなっていないハリボテの虚勢だ。比喩無しに野生で生きてきたウォルフ・エイブラムには通用しないどころか、弱点を晒すに等しい行為であった。
よって、結果は当たり前のように訪れる。
「オラ――よ!」
顎先を掬い上げられ、仰け反る身体に追い打ちの回し蹴り。
空をゆく大和に追い付き、その足首を掴んだ銀狼が廃ビルへと接近し――
「そーら痛えぞォ!」
嘲笑浮かべて大和を屋上へと叩き込んでいた。
亀裂一閃。轟音巻き散らしながら爆砕して平らとなる鉄筋の死骸。
瓦礫と粉塵の塊となった巨大な墓のすぐ側に、尻尾を立てたウォルフが着地した。
「クヒヒカッカカカ……! わ、悪い悪い、このビルだけ無事だったからよ、地ならしをしてやったんだよ。え、偉いだろ? ハハッハハハ!」
哄笑し、鼻をヒクつかせた銀狼が瓦礫の一部を蹴り上げて手を伸ばす。
ずるりと弛緩し、夥しい量の鮮血を噴き出す大和を引きずり出していた。
僅かにピクリと反応を示す彼を見て、なおも魔獣は嗤ってのけた。
「脆いなオイ、俺ぁもっと痛かったぜ? ま、てめえら人間サマと違って野生の俺らは死や大怪我と隣り合わせなんだ。ふかふかベッドの上で優しく看護してもらわにゃならん柔な身体と一緒にするんじゃねえよ」
言いつつ、ウォルフが右手に力を込める。
ニヤけ顔が一転し、赫怒の色を曝け出す。
「俺様を斃すってのはな、あのお月さまをぶち壊すことと同義なんだよ。テメー程度が掴めんのか? あ? 手ェ伸ばせんのか? つま先立ちしてみろやコラ」
「っがァァア……!」
魔獣の牙剥くがまま、大和は片手で吊り上げられた。
震える手でほぼ無意識に剣をウォルフの身体に突き出すものの、難なく逆の手で掴まれる。
「お得意の雷様はどうした? 神力も通ってねえんじゃただの棒っきれだな」
「……ぐ、ぎぃ、……」
首に掛かる圧が増し、頭から次々溢れる鮮血が大和の視界を真っ赤に染める。
景色がブレて、抜けた四肢の力は戻らない。
微かに知覚できたのは、悲痛極まる少女の声だった。
「八城さん!?」
「邪魔だチビすけェ!!」
「――あぅッ!?」
凄惨な状況に我知らず駆け寄るチェルシーを、しかしウォルフが吹き飛ばしていた。
廃墟にぶつかって気絶する彼女を、大和は血混じりの眼で見据えていた。
「チ……チェルシー……!」
「心配すんな、テメーらは閻魔様もドン引きするくらいズッタズタにしてやるよ。そうなりゃお情けで天国行きにしてくれるさ」
言って、ウォルフは大和を投げ飛ばしていた。その際に彼の剣を掴み取ったまま。
「そーら、返すぜ!」
そして、天之尾羽張の剣先を向けたまま大和へと投擲。
ブシュル、という水音が鳴り響く。彼方の壁に、十束の剣で速贄よろしく串刺しにされた大和が強制的に立たされていた。
「おーおー、いったそー。可哀想に」
悪辣な笑みを浮かべた銀狼が三日月をバックに歩を進める。
敵に止めを刺すために。想い人に勝ち名乗りを上げるために。
「…………」
一方の八城大和は、自身の腹を突き破った天之尾羽張をどこか呆と眺めていた。
バチャバチャと、冗談のように溢れ出て地面を濡らす鮮血も実感無く見やるだけ。
急所を穿たれ、血も足りない。どう見ても致命的なのに泣き言一つ出ないのは諦めからか、それとも失血ゆえの意識の混濁が原因か。
「手こずらせやがってボケが。さあお祈りの時間だぜ」
「……」
目前にやってきたウォルフの気配を辛うじて感じた。
反射からか、カタカタと震える両手で剣の柄を握る大和。
そう、べっとりと血に塗れた手で――
「……あ?」
銀狼の呟きは廃墟に呑まれ――その直後。
「――ゴォァ!?」
苦痛の色に塗り替えられていた。
いつの間にやら、柄と剣身の向きが流体のように滑らかに反転していたのだ。
ウォルフの腹から背へと貫かれていたのは流麗な刃であった。
妖しく、美しく、見る者の心すら奪うほどに。
名を――闇御津羽。
「は、は…………、効いた、ろ……」
薄く笑んだ大和が力無くそう漏らす。
彼は思い至ったのだ。血に染まった両手を見て。悪逆な魔獣に最も効果的な力の本質を。
それは‘水’である。とくに、清らかな流水こそが悪の存在を払い流す。
先ほど、ようやく大和は気付いた。この戦闘で最も手ごたえを感じたのが、チェルシーを救う際にウォルフを殴り飛ばした己が拳だったということに。
なぜなら彼は、美琴と共に黄泉から帰ってきて以来、毎日欠かさず境内の手水舎で手を清めていたから。
だから大和は、狂熱発する腹の中でこの場に相応しい神に語りかけた。
敵を斃す力をくれと、己が血を神饌として。
闇御津羽は天之尾羽張の柄に溜まった血によって生まれた水の神。
よって、邪悪な銀狼を屠るに最も相応しい。それが証拠に、
「ォ――オォ――、ア……ッ!」
腹を貫かれたウォルフは息も絶え絶えに目を剥くことしか出来ていない。
「は…………」
見届けた大和は小さく笑んで、勝ちを確信して意識を手放した。




