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悪夢

「ハアッ……、ハッ…………」


 小柄な天使が荒げた呼吸を繰り返す。合わせて墟街地きょがいちでは無機質な風が吹き抜けていた。

 戦闘を終わらせたチェルシーは、これからどう動くべきか考えを巡らせていた。


 まずは、ロゼネリアとの話し合いだろうか。そもそもとして、自分が住みたい世界にセフィラの反転は必要とは思えない。いや、本音で言えば受け入れられない。困難かもしれないが、やはり全てのセフィラを正道な状態へと戻すことが、生命樹セフィロトと世界の安寧に繋がる一番の近道なのではないだろうか。

 第六ティファレトを反転させて邪悪樹クリフォトが完成したとして、その安定は薄氷の如きだ。いつ悪の牙が天使や世界に向けられるか分かったものではない。


「マッカムも……きっと分かってくれる……」


 心根の優しい彼のことだ。それに今のロゼネリアの行動に、多少なりとも不信感を抱いているのは共通しているから。話し合えば、きっと――


「……うっ」


 チェルシーの光輪が明滅し、そして霧散してしまった。

 天使化の強制解除。それも無理もないことだ。ウォルフを斃すために全神力を使い果たし、全身は傷だらけ、おまけに極度の恐怖と緊張状態を維持していたのだ。肉体と精神共に、今のチェルシーは限界を迎えていた。


「一分。……一分だけ」


 呟いた彼女が弛緩したまま後ろへと倒れ込む。

 大の字で、血の滲んだお腹を上下させてボロボロの身体に酸素を送り込む。


「ロゼ、怒るかなぁ……」


 八城大和やしろやまとを見逃す命令違反、そして同胞殺し。どう見ても裏切り行為だ。

 楽な姿勢で呼気を落ち着けるチェルシーは、次第に冷静さを取り戻してきた。

 ロゼネリアには一体何と説明しようか、どうやって気持ちを伝えようか。


 ……ううん、きっと大丈夫。話せば絶対分かってくれる。だってロゼはわたしを救ってくれた人だもの。わたしを信じてくれるもの。


「信じ、て……?」


 呆然とチェルシーは呟いた。

 自分を信じてくれる人に、あの優しい目を向けてくれる人に、チェルシーは自分のした背反行為を認めさせようと考えている。それこそ、ロゼネリアの信頼に対する一番の裏切りではないか。


「…………ッ」


 なんて醜悪なのだ。ガキの駄々にすら劣る身勝手さに怖気が走る。自分という人間がいかに穢らわしいか思い知り、全身を掻き毟りたくなってしまう。


「ごめっ……なさいロゼ……。でも、わたしそんなつもりじゃ……」


 裏切るつもりじゃなかったの……。我知らず溢れ出す涙を拭いもせず、遂にチェルシーは感情を決壊させた。


「う……、ううっ……」


 ぐすりと、もはやただの少女となったチェルシーは唇を噛んで嗚咽を漏らしていた。そしてそのような彼女の頬を伝う涙が月光に照らされ、きらりと光る。


 そう、月光に照らされて――


「……?」


 突如、音がした。風を切り裂くようなヒュウッとした音が。

 続いて、空間が圧縮されたかの如く息苦しさと閉塞感。


「――――っ!?」


 飛び上がるように夜を見上げたチェルシーの視線の先には存在感を示す巨大な三日月が。雲など疾うに消え去っており、目が焼かれるほどの発光で辺りを銀色に染め上げている。

 喘いでいる。喘鳴している。苦しく嬉しく、そして――赫怒の念を以てチェルシーを射抜いていた。許さぬ許さぬ生かしておけぬと。


「あ――あぁああ――ッ!」


 まさか……、まさかそんな……! 全力でやったのに。力が残らないくらい絞り出したのに。

 それなのに――


『効いたぜ……』


 半壊した廃屋の屋根の上、血塗れになった狼男がチェルシーを見下ろしていた。

 ペッと血反吐を吐き捨てるも、軽薄な笑みは未だ健在。それすなわち、ウォルフ・エイブラムにはまだまだ余裕がある。


「正直死ぬかと思ったぜ。まさかテメーなんぞにこんな目に遭わされようとはびっくらこいたわお笑いぐさだ。きっちりお祝いしなきゃなァ。熨斗のしをちょうちょ結びにして送ってやるからありがたく頂戴しろや!」


 諧謔かいぎゃく混じった言葉には、しかし冷酷な笑みが貼り付いていた。

 剥かれた牙の先端にはチェルシーの喉笛を噛み千切らんとする鋭利な殺気。


 彼は狼。彼は銀狼。

 月に選ばれた誉れ高き魔獣であり、腹を空かせた虚腹こふくの餓狼。

 天を喰う。世界を喰う。天女も王も神様も、臓物掻き出し飲み下すのだと。


 けだものの本性を遂に彼は披露した。言いかえれば完璧にキレていた。

 満遍なしに垂れ流された殺気が一帯を戦慄させる。木々も大地も無機物さえも区別なく。

 そして、チェルシー・クレメンティーナも殺意に呑まれ、慄然する。


「わ、わたしは……」


 そんなの……要らない。痛いのも、死ぬのも嫌だ……!


 遂に――今このときを以てして、天空の女神の心は完全に折れ、地に落ちた。

 余力もない。戦う意志も消えた。逃げ出す力すら残っていない。

 今ここにいるのは女神などではなく、年相応のただの非力な一人の女の子であった。


「ハッ」


 そんなチェルシーをつまらなそうに眺め見て、屋根から飛び降りたウォルフがゆっくりと少女のもとへ歩き出す。

 なぁおチビちゃんと、目を眇めて威嚇する。


「俺が怖えかよ?」

「――ひっ!?」

「可愛い悲鳴だ――なァ!」


 怯えるチェルシーの顔を鷲掴み、全力で廃ビルの壁へと投擲。

 破砕音が轟いて、れ穴からコンクリ片がガラガラと虚しく散った。


「ィ――アァ――……ッ」


 壁を貫通してビル内で呻くチェルシーの周囲は血溜まりになっていた。

 脇腹からなおも漏れ出る生暖かな少女の生命。

 傷口を、我知らずチェルシーは押さえ込む。さして意味も無いのに零れぬよう、縋るように。


「ハッ! ――ハッ! ハアッ……!」


 喘鳴して、もがくように這っていく。うつ伏せのままズルズルと。無様に血で出来たミミズを描いてズルズル、ズルズル……。


 ようやくたどり着いた物陰に身を潜め、身体を掻き抱いて震えるチェルシー。

 ガタガタと、ガタガタと、目尻に涙を溜めて縮こまる彼女を、しかし魔獣は見逃さない。


「ヘイ、見ーつけた」

「――ッ!?」

「慌てんなよ、まだチャンスはあるからよ。缶蹴りって知ってるか?」


 目を見開いたチェルシーの視界には、ニヤニヤと嗤笑を浮かべたウォルフが空き缶片手に立っていた。 それを見せつけるようにしてチェルシーの眼前にトンと置く。


「ほれ、蹴っていいぜ。そしたらまた俺の鬼だ、やったな」

「……ァ…………ァァ……」


 だがチェルシーは口元を戦慄かせるばかりで動けない。

 その態度に舌打ちした銀狼が犬歯を剥いて、


「あんだそりゃ! 立てやコラ腑抜けチビ!」


 激昂して空き缶を踏み潰し――とどまらずに振り抜かれたその足が、チェルシーの身体を捉えて弾き飛ばす。


「がぁ――ふ……っ!」


 無抵抗のままガラスを突き破り、対面のビルに叩き付けられ、その壁に血痕の線を描きながら滑落する彼女。

 強かに地面に打ち付けられれば、ずるりと弛緩したまま人形よろしくチェルシーはうつ伏せに倒れ込む。胃液と血が込み上げたうえに砂利まで口内に侵入してきたが、咳き込む気力すら彼女には残っていなかった。


「どーしたおい? もう立たねえのか?」

「――――」


 返す言を発せない。指先すら動かせない。痛い、痛い、耐えられない。

 力が……出ない。もう、もういいや……。


「チッ……」


 対し、眉間に皺を刻んだウォルフはつまらねえと怒りを込み上げた。諦観した奴などもはや塵に等しく魔狼の腹は満たせない。

 逆立った銀髪をがしがしと掻いたところで、


「いや……」


 待てよ、と狼男は考える。まだこの獲物に粋を取り戻させる手段があるではないかと。

 このガキの人生観を引っくり返す、おあつらえ向きの言葉の矛が。


「……クッ、カカ……そうだよそりゃ良い、ハハハハハハハハッ!」


 その方法に対する逡巡など一切無し。腹を抱えて尻尾を振り、哄笑をぶち撒ける。

 敵に情けなど持たない。餌に情など必要ない。

 ウォルフが強者。チェルシーは弱者。弱肉強食こそ彼が歩んだ獣道。自然界の掟のままに、弱者をどう扱おうが構いやしない。


 加えてチェルシーは月を侮辱した。ならば尊厳、誇りを諸共根こそぎ蹂躙してぶっ壊すことに迷いはない。もはや、ウォルフはチェルシーを太陽の化身だとは一寸たりとも認めてはいなかった。どうみっともなく泣き叫ぶのか、それだけが彼の興味の矛先だった。


「くははははっ、ふふふははっははははははっ!」


 喜悦の笑みで舌を出し、涎を垂らしつつウォルフは這いつくばっているチェルシーを射抜いていた。


「…………?」


 一方のチェルシーは、何時まで経っても攻撃してこないウォルフを不審に思い、なんとか首だけを彼に向けて見据えていた。

 そして、その先で嗤っていたウォルフは、チェルシーにとって根底を覆すほどの衝撃な事実を告げたのであった。


「死ぬ前に良いことを教えてやるよ。おチビ、お前さんの家族が死んじまったのはな」


 ――ロゼネリアが薄笑み混じりに全員殺ってのけたからなのさ。


「え…………?」


 驚愕した。それはいったいどういうことなのだと……。

 解せない――のだが、ウォルフが嘘を言っている様子は窺えない。カタカタと歯の根が合わず、精魂尽き果てた状態に相成って、寒気がするその宣告に、チェルシーは衝撃から呆けた表情を返すのみだった。


「つまりだ、前からお前の才能に気付いていたロゼネリアは、手っ取り早く自分にてめえを懐かせるために、天気と殺人者(ゴミ)を操っててめえの家族をぶっ殺し、てめえを天涯孤独の絶望に突き落とし、善人顔ぶらさげてお前の前に現れたのよ」


 悪辣な演説は止まらない。


「そこをお前はヤツを温かい光だの太陽だのと崇め称えて、のこのこと尻尾振って付いていったというわけだ。なあ!? 傑作だよなあくっだらねえ! 飴くれるオバちゃんに付いてっちゃ駄目だぜ嬢ちゃん! ダハハハハハッ! アーハハハハハハハハハハハハァッ!」

「そ、そ、そんな……! や、やだ、嫌だ……、し、しんじないもん……!」

「いいねえ、口調が変わってんぞォ! そんなにショックだったかよ! 悪ぃな、ついうっかり口が滑っちまってよォ! 悪気はあったんだよ許せよオイ! クハハハハハハハッ!」

「くぅ……っ! ううっ……!」


 うつ伏せのままアスファルトを強く引っ掻く。ガリガリと、ガリガリと。


 悔しい……っ! 悔しい悔しいッ!!

 目下の道路は流れ出た鮮血で真っ赤に染まり、零れ落ちた涙はその血の海に溶け込むのみだった。


「アーッハハハハハハ! それだよそれッ! そのみっともねえツラが見たかったんだよザマーみろ! 可哀想だねぇ、もらい泣きして涙ちょちょ切れそうになっちまうよ!」

「うぅぅ……ッ!」


 歯が軋る。力を込めた指先はアスファルトを深く抉りこむ。それを愉快気に眺めているウォルフのせせら笑いが止め処なく聞こえてくる。


「くうぅ……、ああ……あぁあっ!」


 嫌だ。まだ、まだ認めない。真相をロゼネリアの口から聞くまでは。だから死なない。死んでやらない。立ち上がって足掻いてやる。


「あーれま」

「はあっ! はあ……っ!」


 手は動く、足にもなんとか力が入る。吐き気が止まらないくらい頭とお腹は痛いけど、目は見えるし呼吸もできる。ああ、でも、でも辛いよ……。


「ひどいですよ……、わたしに死ねない理由を与えて……。また、立たなきゃならなく……、なっちゃったじゃないですかぁ……!」


 嗚咽混じりにどうにか呼気を整え、執念で立ち上がったチェルシーは総身に意志を宿らせて、しかし泣き叫ぶように感情を撒いた。

 ボタボタボタと、彼女の脇腹からは更に鮮血が溢れ出し、片足と地面が真っ赤に染まってゆく。


 それを、微かながら瞠目するまでの意を持ったウォルフは目を開いて眺めていた。


「まさか立つとはな……、大した野郎だ」

「野郎じゃ、ないもん……」

「おっとそうだな! レディーに対して失礼しましたっと」


 軽薄な詫びを入れながら、しかしウォルフは歓喜の笑みを零していた。

 嘲弄の念を特に入れ、チェルシーに再び激情を湧き上がらせたところを嘲笑いつつブチ殺そうかと彼は思っていたのだが、意に(あた)るどころか、まさかこうして両の足で立ってまで自分を睨めつけてくるとはと、想像以上の結果に破顔したのだ。


 狼の耳がピンと立ち、立派な尾がブンブンと空を斬る。


「クカカ……! マジな話、大した根性だ。そういうのは嫌いじゃねえ」


 その感想は小鼠時代のウォルフの名残だ。

 才能に胡坐あぐらを掻く猛獣バカを彼は嫌悪するし、逆に格上に一矢報いろうとする小動物バカは自分と同じで好感が持てるのだと。


「まぁ、どの道ブッ殺すんだがよ!」


 吠えて、ウォルフはチェルシーの方角に向かって袈裟懸けさがけに右手を振った。


「――――ッ!」


 直後、豪風。素振りだけで弱りきったチェルシーを吹き飛ばし、またもや彼女を壁に打ち付け、転がした。そしてウォルフは鋭利な爪を立て、一歩一歩チェルシーに近付いていく。


「なあに安心しなよご褒美だ。その根性に免じて一発で楽にしてやらァ。嬉しいだろ?」


 彼なりの称賛であったのだろうか、ウォルフはチェルシーにそう言葉を掛け、


「じゃあ、死ね」


 次いで、鋭く伸びた殺意の爪を、伏したチェルシーに走らせた。


「――――」


 反射的にチェルシーは目を閉じた。そこに広がるのは黒い闇。死んだ後ってこんな感じなのだろうかと諦観しながら考えた。


(あ……)


 そして、目を閉じたからか、チェルシーの過去の出来事が浮かび上がってきた。

 父がいて、母がいて、そして妹がいた。普通の家庭であったが、十分に幸せを感じていた。しかし――訪れる不幸。降りかかる悪意。雨粒に塗れ、冷たい身体で泣き喚いて塞ぎ込んだ。


『さあ立って。たくさん泣いたら、今度は私と一緒に笑って歩んでいきましょう』


 突如現れた柔和で優しい笑みに、幼いチェルシーは縋りついた。

 ロゼネリア・ヴィルジェーン。そうだ、あの人に聞くまでは……。


『ロゼネリアが薄笑み混じりに全員殺ってのけたからなのさ』


 信じたくないし認めたくない、せめてあの人の口から真実を聞きたい。置いてけぼりにされたくないし、曖昧なまま終えたくないよ。

 まだ死にたくない……。今更になって改めてそう思う。だけど、だけどああ、目を開けることすらできないや……。


八城やしろさん……」


 なぜか、思わずとある男の子の名を呟いた。とんでもない運命に巻き込まれた彼の名を。

 第六ティファレトの覚醒のために自分が生贄にされると知ったのに、それを意に介さず、挙げ句わたしなんかを気にかけてくれた男の子を。

 神崎さんを救うため、死に物狂いで奮闘したあの勇気、ちょっとだけ分けてほしい。


 死にたくない、死にたくない。嫌だ、嫌だ、まだ死ねない。


 ああ、八城さん……。

 さっき見逃したお礼を期待するわけじゃないけれど……、そんなつもりで手を止めたわけじゃないけれど……。

 でも、お願いします……、どうか、どうか一度だけで良いですから……。


「助けて……、ください…………っ!」


 涙を滲ませ、そして縋るように、弱々しくもチェルシーは力を振り絞って呟いた。









「――――――」


 どういうことだろう? いまだ私は死んでいない。微かながらちゃんと呼吸を続けてる。


「てんめぇ……!」


 突如、チェルシーの耳に入ってきたのは怒りに塗れたウォルフの唸り。

 そして――暗い暗い黒の世界に、バヂンと弾ける雷光が飛び込んできたのを自覚した。

 チェルシーは、ゆっくりとその瞼を開く。


「ぁ……ぁぁ……っ」


 男の子の背中があった。

 静かな怒りに震える八城大和の、とてもとても大きな背中。


 雷神爆ぜる十束とつかの剣が、死の鉤爪を防いでいた。

チェルシー・クレメンティーナ

16歳 女性 146cm


繋錠光輪――万象照らすは日輪の華サルヴェイション・サンライト


陽光のみならず、あらゆる自然現象を意のままに操作できる。

南極を熱帯に、砂漠に大雪を降らせることも彼女にしてみれば容易い。

全神力をつぎ込んで発生させるスーパーセルは格上にも通ずる切り札。


攻撃 6

防御 5

速度 6.5

神力 7

精神 6

技術 8.5

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