敵なしの剛掌と至高の宝剣
チェルシーの魔力爆散の余波はこの二人の元にも届いていた。
同じく、禍々しい銀色の月光も。
「……どうしてチェルシーとウォルフがやり合う必要があるのかしらね」
「ふん……、お前だって……本当のところは分かっている……だろうに……」
「…………」
自嘲めいたマッカムの呟きは、曹玲の皮肉によって遮られる。
そんなやり取りを交わす筋肉纏う大男と、しなやかな身体の少女の様相は対照的であった。
疑問を投げたマッカムはほとんど傷の無い極めて自然な状態で。
対し、中腰で膝に手を置く曹玲は全身に打撲を負い、息も絶え絶えにそう返すのがやっとという様子であった。
目を眇める曹玲は思い知る。まるで赤子扱いだと。彼我の実力差は歴然で、素手喧嘩ではどう足掻こうとマッカムに敵いはしないと。
「は、はは……。相変わらず強いなマッカム。いや……三年前よりもずっとだ」
「あなたは三年前よりも良い顔をするようになったわね」
「……」
憐れむような、羨むような、角の無いマッカムの声に、笑みながらフンと息をつく曹玲。
三年前、それは曹玲にとって人生の岐路であった。
大陸から日本へ赴き、天照と八百万の神を調査せよとロゼネリアに命じられたあの時。
鬱屈した心は陽光を受け付けず、暴力を良しとしてアウトローを蹴散らす日々。
そして――素戔嗚と出会い、手も足も出ずに砂にされた。
素戔嗚は、神は笑う。からからと、屈託なく。お前もそうあれよと言わんばかりに。
その瞬間、曹玲は生まれて初めて太陽の光を心から受け入れたのだ。
「今の生活は楽しいかしら?」
「……まあ、ね。騒がしくもあり、それなりに心地良いよ」
「それは良かったわ」
口の端の血を拭う曹玲を見て、皮肉無しにマッカムが返した。
「でも、せっかく人として生まれ変わったのよ? あまり悪目立ちするのは感心しないわね。また打たれてしまうわ」
「ご忠告感謝するが、そもそも頼んだ覚えはない」
邪悪な天使の座を放棄した曹玲には、代償として修羅の道が待ち構えていた。
その裏切りを当然ロゼネリアが見逃すはずがなかった。処刑人として、彼女は第五を第七に差し向ける。
しかし、マッカムは独断で曹玲の内にある神格を砕き――つまりは戦闘手段を持たない普通の人間へと戻してしまうことで、第七を誅したということにする。
当然、そんなものは屁理屈にすらなりえない明らかな命令違反。下手をすればマッカム自身も厳罰を受けていた可能性があったのだ。
それなのになぜ、彼はそのような綱渡りを実行したのか。
狡辛い打算が、思惑が、駆け引きが……存在するはずが無かった。
「……平和に生きてればよかったのに」
ぼやくような彼の言葉には悲しみの色が浮かんでいる。
マッカム・ハルディートは悪辣な生命樹に身を置きながら、その心根は穏やかであり、そして優しい。任務において必要なら殺人は行うものの、可能な限りそれを避ける傾向にあるし、まして無関係な者を悦楽で手にかけることなど、一度たりともありはしなかった。
端的に言えば、彼は甘いのだ。敵味方の区別無く。
その上、曹玲は天使の同胞。情に厚いマッカムが彼女の命を見逃したことは必然なことであり、そこに裏があるはずがなかった。
だがそれは当然、曹玲が犯しただろう行動に対しても作用する。
戦闘中に身体に付着した、黒色の邪気を払い除けたマッカムが顔を上げる。
「ねえ、答えて曹玲。なぜあなたが瘴気を手懐けているのかを」
それは大きな体躯とは裏腹なか細い声。サングラス越しの彼の眼を窺い知ることができない。
けれどこれだけは伝わってくる。――あの子の力を、ねえどうしてと。
「シェイクはあれでね、結構良いところもあったのよ?」
「――」
瞬間、降りかかる鋼のような重圧感。
これは別に特殊な技法を用いたわけではない。
内に秘められたマッカムの気。それが鬼気となって発現させられたのだ。ただ、それだけ。
つまりは威嚇の部類であり、一般人でも殺気や怒気を全身に纏うことは珍しくない。
だがしかし、彼のそれは並外れた質量を有して辺りを躙る。
「つ……、ああぁぁあ……ッ!」
ブロック塀が砕け、電線は爆ぜ千切れ、道路が巨人に踏まれたかの如く陥没する。
『許さない』と、彼が強く想いを込めるだけで、同格であるはずの曹玲ですら、そのプレッシャーに潰されそうになってしまうのだ。
「あなたの信念には素直に驚嘆するけども、アタシだってここは譲れないのよ」
「そこが解せない……な。なぜ良識を持ったあなたがシェイクなんぞの肩を持つ? あの女は場合によってはウォルフ以上の外道だったろう」
「否定はしないわ。でも、アタシはあの子といるのが好きだった。一般的に見ればあなたの方が正しいと思う。けど理屈じゃないのよ。感情的で、女々しいオカマの戯言だと思って聞き流してくれて構わないわ」
「……っ」
駄目だ。これは分かり合えない。
柔軟な思慮を持つマッカムではあるが、この手のことになると誰よりも頑固な人間へと変貌するのを曹玲はよく知っていた。
その証拠に、彼はこのやり取り及び戦いを締めくくろうとしていた。
「問答は無駄のようね。……もう、終わりにしましょう」
せめてもの慈悲を、とばかりにマッカムが闘気を漲らせ、集中し始める。
「――ッ!」
目を剥き、曹玲が息を呑む。
来る。三年前に味わわされた、あの超級の神威の圧迫感が。
歯が鳴り、手足の先端が小刻みに震えだす。
心臓が掴まれているかのような絶望感は、以前自身の神力を粉々に粉砕された記憶がフラッシュバックしているからなのか。
「一撃で楽にしてあげるわ」
――繋錠光輪。
破壊の堕天が遂に本性を曝け出す。光の帯が彼の頭上に収斂されてゆく。
言葉と同時、数瞬だけ周辺の重力が数倍に跳ね上がった。
物理めいた圧力を携えて、マッカム・ハルディートは聖なる名を以てして己が神威を呼び起こす。
『――強健なる戦火の使徒――』
……それは一瞬の静寂だった。
「――ッ!?」
遅れ、彼を中心に迸発されるは弩級の神気。
可視レベルの衝撃波を引っ提げた波紋が、辺り一帯を撫でるだけで粉砕する。
アスファルトがめくれ剥がれて飛び散って、大木が根元から千切れ倒れて転がってゆく。
「ぐ――ぁ――ッ」
曹玲とて例外ではない。ポニーテールを煽られながら、彼女の肌が次々に裂けていく。
両腕で顔を護り、隙間から覗いて捉えた鋼の天使に歯噛みする。
そこには赫焉とする戦の化身がいた。
赤黒く変色した肌、轟々と内に秘める炎の闘志。
――かつて、正義を貫く警察官が英国にいた。
現場からの叩き上げにより、その男は上下内外問わずの信頼を得て、また貴賤というものを度外視して全力で職務に当たっていった。
簡単に言えば、彼は正義漢だったのだ。人よりもずば抜けて。
だがそれは、第五のセフィラを呼び寄せることとなる。
正義のセフィラ、及び堕落して反転した破壊のセフィラに。
男は真っ向から迎え撃つ。己が信ずる正義によって邪の宝玉を再び煌かせようと。
しかし、結果は無情であった。輝かしい男の正義は破壊の色に染められる。
第五とは赤であり、炎であって戦星。
よって、今のマッカム・ハルディートこそ、火星の象徴と相応しい。
一切の隙が無いその気と肉体は、まるで修羅を悠々と闊歩する重戦車のよう。
たとえ隕石がその身に降りかかったとしても、彼は片手でそれを爆砕するに違いない。
「……ッ」
曹玲の動悸が加速する。三年ぶりに目の当たりにしたこの圧力を前にして。
マッカムの気と拳をまともに喰らった当時の彼女は、それにより肉体も精神も粉々に砕かれ、遂には神力を失うまでに至った。
それがマッカム・ハルディートの恐ろしさだ。桁外れの力による蹂躙劇は相手の意志を柘榴同然に潰してしまう。カラクリは単純だが、それゆえに対処する方法がほとんど無い。
言ってしまえば超が付く程の万能型だ。敵手がどのような攻撃をしようとも、その鋼鉄の肉体で防ぎ、その拳で粉砕してしまえば済むことだから。
そして――こうなってしまったマッカムに以前のお遊びは見られない。
「行くわよ」
「く……」
完全なる羅刹の様相。的確に相手を撃破することだけを考えているがゆえ、文字通り人が変わったとしか思えないその殺気は、見方によればウォルフすら凌ぐ。
身体を捻り、足元の道路が砕けたかと思えば、すでに彼は曹玲の眼前にまで肉薄していた。
「――!?」
「じゃあね、曹玲」
呟きは一瞬。
空気すら千切るほどの圧を秘めた剛掌が曹玲のどてっ腹に叩き込まれていた。
「か――ッ……!?」
時間が止まる。空間が停滞する。
じわりじわりと曹玲の腹から背中に突き抜ける衝撃は刹那のようで、永遠にも感じられた。
それを知覚したときにはすでに時遅し。砲弾のように吹き飛ばされた彼女は街路樹を数十単位で突き破り――未だ止まらず停止せず、どころか勢い増して高架橋の柱すら破砕した。
そのまま高速道路さえブチ抜き、粉塵砂塵を創造しながらなおも曹玲はハイウェイを削って跳ね返り、百キロ走行の車を追い越しつつ進んで、進んで、更に進んで――
ようやく彼女が停止した地点は、攻撃された場所から三キロは離れていた。
「げ――……えぇ……」
夥しい量の血を吐き散らす曹玲。
景色が歪み、脳芯が揺さぶられ、諦観に似た感情が自身を支配しているかのような気分に侵される。
ぶれた視界の片隅では、転がった車をよそに蜘蛛の子よろしく逃げ惑う人々。
タンクローリーが炎上し、その劫火に照らされた少女の顔に声が掛かる。
「そのまま眠ってしまいなさい」
当然のように側に接近していたマッカムがそう告げていた。
(…………)
そうしてしまえばどんなに楽だろうか。単純でいて桁外れの暴力は万象を蹂躙する。
この痛み、この苦しみ、三年前を凌駕する。
何もかも投げ出して、恐怖から抜け出す道を選べたら――などと、一体誰が望むという!
「――耐えたぞ……マッカム!!」
「!?」
ポニーが踊る。顔が上がる。そこに映るは血を吐きつつも、一片の曇りない笑みを浮かべた女傑の表情。
目を見張るのはマッカムだ。有りえないと表情が語る。
口角を上げてそのような威勢を放つ曹玲が目の前にいるというのに、その現象が受け入れられない。
まず、この時点で遥かに異常なのだ。三年前では天使化していた曹玲を地に伏せさせた。
だが今はどうだ、天使化どころか脆弱な人の姿のままだというのに、彼女はその命を保っている。
「三年前より強くなっているのは、お前だけじゃなかったんだよ……!」
言いつつ、曹玲は血飛沫を吐きながら立ち上がる。
双眸に勝ち気な炎を宿らせて。絹のような、見事な黒のポニーを跳ね返らせて。
「これは私の意地だ」
「意地、ですって?」
問い返すマッカムに向かって、ボロボロになった自身の腹を拳でトンと当てる曹玲。
「天使化したお前の力を、どうしても素の状態で受け止めてみたかったんだ。その上で必ず屈さず耐えてみせるとな。まあ、私なりの決意表明みたいなものかな……。ハッ、それで死んでは元も子もないが、どうにか……生きているぞ」
「過去の清算のつもり?」
「……というよりプライドの問題かな。とにかくあのままじゃ癪だった。貧弱な女と思われ続けるのがな」
「……」
マッカムの瞠目がなおいっそう強まった。
異常だ。この少女はどこまでも頑固で愚かしい。以前の自分とは比較にならないぞという意地を通すためだけに、自らの命を捨てかねない行動を取ってみせたのだ。
その頑固さに、マッカムは僅かながら畏怖の念を覚えていた。
そんな彼を見やり、強気な笑みを浮かべた曹玲が神威を迸らせる。
「さあ括目しろ……。ここからは私の反撃だ」
「まさか……あなたまで八百万の……」
その返答は勝ち気な吐息。
花顔柳腰、されど英姿颯爽。
嫋やかでありながらも高潔な曹玲の声音が、一転してその場を掌握する引き金となっていた。
――帛迎。
それは八百万の神の力を召喚する日本独自の秘奥義。
神力を込めた単語を紡ぎ、曹玲は丹田に闘気を集中しながら双眸に力を宿す。
重力に逆らい、天を衝く彼女のポニーテール。
肩幅程度に開いたその両足が、気を迸発させた影響で直下のアスファルトに亀裂を入れる。
「私は一度死んだに等しい」
朽ち果てた。折れて、みっともなく泥を舐めた。
情けによって命を見逃され、這いずり回った姿は何とも惨めなものだったろう。
けれど、それがどうした?
たとえどんなに無様でも、醜くても、可能性がゼロでない限り私は足掻く。足掻き貫く。
我ながら自覚しているとも。負けず嫌いで頑固者だと。
だから私は止まらない。死んだなんて認めない。
だからそう、死しても黄泉返ってやるだけだ。
神気が爆発する。両の握り拳――親指と人差し指同士が付くように顔前で合わせ、そこから曹玲は右手を右へと引き抜き始めた。まるで空間を無視した鞘となっているかのように、左の拳から刀が顕現されていく。
次いで、曹玲は聖なる名を呼び神の剣を召喚させた。
『――生大刀――』
「ッ!」
爆ぜ、閃光が駆け抜ける。
それと同時、神威の剣がマッカムの袈裟に向かって走り出す。
しかしマッカムは動かない。
それは余裕か? それとも先ほど攻撃をあえて受けた曹玲への義理か?
――その、どちらでもない。
「ヅ――!」
マッカム・ハルディートの肩口から斜めに一閃。その鋼体に刻まれた一本の線がパクりと割れ、続いて鮮血が迸る。
自身の血を目で捉えたマッカムは、しかし冷静に攻撃の間合いから離脱するように後退していた。そして指でそれを拭い取ると、「へえ……」と感嘆の意を示した。
「効いたろう?」
「ええ。濡れちゃいそう」
言いながら口の端を上げたマッカムが血の付着した指を舐め取り、それを眺めている曹玲も血振りをしつつ、不敵に笑う。
――生大刀。
その昔、大国主が地上を制圧するために用いた宝剣。
柄が無く、小柄なその見た目からは想像できないほどの神気を発す。
「けどそれって確か、素戔嗚の宝だったわよねぇ? アタシあんまり詳しくないんだけど」
「ああ、そうさ」
マッカムの言葉に頷く曹玲。
その通り。確かに生大刀は元々素戔嗚の刀。それを大国主が黄泉の国より盗み出して葦原へと逃げたのだ。
だが、素戔嗚はそのまま大国主に地上を治めるように命じ、そして彼は実行した。
とはいえ、盗人なのは事実。しかし曹玲はそんな神だからこそ共感の意を持った。
「私は日本人ではない」
純粋な中国の血、それが全身を巡る彼女に八百万の神々は全幅の信頼を寄せてはくれない。
確かに彼女は日本全国を歩き渡った。人々と出会い、自然と触れ合い、あらゆる道を踏破した。
それは人道といった道から、空手道などの武道に至るまで。
だが、本性ではどうだ? 胸を張ってお天道様に顔向けできるのか。
……残念ながら否である。血と悪の臭いが未だ曹玲の腹の中にこびり付いているのは紛れも無い事実なのだ。
八百万の国民ではないのなら、刀を受け継ぐ資格がないのなら、いっそのこと盗んでしまえ。奪い、握り、力を得よう。曹玲はそう考えたのだ。
そして更に、大国主と曹玲にはもう一つ共通点がある。
大国主は数回殺されたが、しかしその度蘇った。迫害されてもなお折れぬ心は、なるほどこの諦めの悪い少女と気が合うのかもしれない。
だから、曹玲が大国主を神格として再び人外の領域まで至ることができたのは、両手の皺が全く同じに合わさるに等しい奇跡であり、また必然だったのであろう。
「ふうん」
ゆえに、マッカムは驚愕し、先の攻撃を避けきれなかったのだ。
ここまで息の合った対の神威に。そこから発する裂帛の濃密さに。
考えてみればこれは凄まじいことで、彼の肉体を切り裂くという芸当はそう容易くできるものではない。つまりこれは付け焼刃の事象などでは断じてなく、完全に三年前の曹玲とは一線を画してしまっている。
「やるじゃない」
だから、マッカムは敵である彼女に対しても素直に称賛の意を述べた。
自分や他の者であれば、決して達成できない偉業を成し遂げていたから。
「そいつはどうも」
「ま、それはそれとして、戦いの続きをしましょうか。お互い本気でね」
「当たり前だ。ああいよいよだ待ちきれん。興奮し過ぎて下っ腹がムズムズするぞ!」
真価を見せた人外の勝負は未だに続く。
沸騰する血。燃え滾る魂。地獄の様相を見せる高速道路。炎上し、転がる車をよそにして戦意を衝突させる二人の戦場は、なおいっそう苛烈さを増していく。




