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大災害と凪

 光輪を顕現した天使同士の争いは実に一方的なものであった。


「ハハッハハァーッ! ほーら避けろ、ほれ逃げろー!」

「――、ぐぅ――!」


 銀狼の哄笑が夜闇を彩り染めてゆく。

 爪を振るたび天女の身体を赤く染め、足が踊れば白い肌を青アザで穢していた。


 月光を身に浴びる狼男の力は底無しに増幅される。皮肉にも、雨雲を消し飛ばしたチェルシーの決意表明は完全に裏目に出てしまっていた。


「クッ――ァ……ッ!」


 だけれどチェルシーは食い縛る。致命の瀬戸際でどうにか踏ん張りやり過ごす。

 切り裂かれ、蹴り飛ばされ、殴られ穿たれけれど頭と心臓だけは死守して命を繋いでいく。

 それでも全身ボロボロだ。血染めの身体が揺り動かされ、紅の飛沫を幾度となく飛ばしていった。


「ハアッ……! ハァ……!」


 痛い、痛い。怖くて苦しい、逃げ出したいよ。……それでも――!


「……に、ィ!」


 それだけは選べない。そもそも眼前の魔獣が許さないだろうし、仮にチェルシーが勝負を放棄できたとしても、その後大和と美琴がどうなるかは火を見るより明らかだから。

 口に溜まった血の味を嫌悪しつつ、攻撃の隙を衝いて烈風を飛ばすのだが、


「カッ!」


 それは容易く薙ぎ払われて、なお腕を振った勢いのままウォルフが凶悪な貫手を返す。


「――ギァ!?」


 天女の脇腹が突き破られた。聖なる女神の悲鳴を浴びて嗤笑を深める銀の魔獣。

 吐血し、刹那に風を操作して後退するチェルシーを、しかしウォルフは追わなかった。

 喘鳴して血を流す彼女を見てにやにやと、感触を楽しむかのように血に濡れた右手を啓閉けいへいして嗤っている。


「スカしてる割にゃ血は赤いらしいな女神サマ。そんなんじゃ偶像アイドルやってられねえぜ」

「――……」


 軽口はチェルシーの耳に上手く届かない。

 失血により視界は霞み、歪んでいく。押さえた脇腹からは今も止め処なく鮮血が溢れて地面をビチャビチャ濡らしていった。


 どうにかこうにか立っていられるのは信念と、そして決意ゆえ。

 眩暈がするほどの甚大な恐怖に対して逃げずに踏ん張るのは――二人は認めてくれないだろうけども……友達のため。


 だからチェルシーは倒れない。たとえ転んでも起きて……突き飛ばされても立ち上がる……何度でも、何度でも。瞳に色が戻ってゆく。炎が灯されてゆく。

 小さな手弱女たおやめの心力は、まさしく燃える太陽そのものだった。


「……はあ、頑張るねえチミも」


 億劫気に頭を掻いて、やれやれと肩を竦めるウォルフ。

 そんな彼のすぐ側で、瓦礫から小さな影が這い出てきた。

 小さなハツカネズミであった。屈んだ彼がそれを掬い、拾い上げる。


「お前はさっき言ったな、俺の前世が狼だとよ。だがそりゃ間違いだ。こいつのように、可愛い可愛い小鼠ちゃんだったわけだよ俺ってば」

「…………、」

「こう見えてもよォ、おめかしして一生懸命に気ィ引いたんだぜ? なんせお月さまは格好良い狼が御所望ときたもんだ、小汚ぇ鼠なんて嫌なんだとよ。俺だって本当はこんな犬ッコロみたいなのはヤなんだけどよ」


 月の魔獣にはなりたかったが、決して天敵である狼の姿を是としたわけではない。だがそれでは箔が付かず、月の価値を落としてしまう。だから彼が歩み寄るしかなかった。

 困ったように、慈しむように手の中のハツカネズミを撫でてから、そっと地面に解放する。


「……まあ惚れた弱みってやつかねえ。彼女色に染まったわけさ。お前ら人間サマもそういうのあるだろう、相手の好みに合わせるとかそういうの。恋してるか? うん?」

「さあ、どうでしょうか――ねっ!」


 返したチェルシーの裂帛が轟き渡る。神力は気合いと同調するようキレを増して銀狼へ。

 豪風、焦熱、氷雨――異なる三種の災害ディザスターが同時に彼を包囲するが、


「いつまでも芸が無えなァおチビちゃん!」


 委細構わずかっ捌く。実体無いそれらを引き裂き散らし、前進する。

 驚愕に染まる天女の顔面目掛け、固めた拳を振るっていた。


「――お?」


 が、どういうわけか攻撃は空振りし、挙げ句ウォルフの身体は大きく前に流れる始末。

 勢いままに、魔狼の後頭部を打ち叩くは極められた風の大鎚おおづち


「――ガッ!?」


 衝撃で前のめり、一歩二歩とよろける彼を自然の猛威は逃がさない。

 風が、炎が、冷気が、驟雨のようにウォルフに注がれ死の花を咲かせてゆく。着弾と同時に爆散する災害を浴びつつ、けれどウォルフはチェルシーを捉えていた。


「舐めんなァ!」


 猛り、瞬時に天女の元へと飛び込む銀狼。

 爪を立て、チェルシーの肉を抉らんとした一撃はけれども――


「な、に――!?」


 空振る。どころかまたしても大仰なまでに体制を崩す。

 そこに、またも災害の嵐が彼を呑み込んでいた。


「クソがあッ!」


 小賢しいとばかりに腕を振って咆哮し、嵐を掻き消すウォルフ。

 そのまま彼がチェルシーを見据えれば、


「……そうかよ」


 今しがたの驚愕に染まる顔はどこへやら。小さな少女は顎を引いて冷静にウォルフを射抜いていた。


「そういう体捌きはテメーの十八番おはこだったな」


 相手の力を利用して受け流し、自分の利に転じさせる技法。それは確かに力の劣るものが格上に対抗するための手段ではあるが、実戦で成功させるのは極めて難儀だ。

 それをこうも容易くやってみせるチェルシーの技術は繊細にして精密。ガッチリと手を組んで行う腕相撲でさえ、大和に勝ってみせた彼女ならではの強みであった。


「……ハン」


 だがしかし、それがどうしたと嗤うウォルフ。

 確かにチェルシーの技術は見事だ。二度も引っかかった自分の馬鹿さ加減も認めよう。

 が、それは相手の力無くしては成り立たない。となれば戦闘のやり方を変えさえすれば――


「――何っ!?」


 瞠目するウォルフが辛うじて捉えたのは、無言で瞬身してきたチェルシーの姿であった。

 懐に飛び込んでなお急所に振るわれる手刀の一撃を、彼は間一髪で躱す。


「おいおい、そりゃ勇み足が過ぎる。無謀ってヤツだ!」


 牙を剥き、愚かな選択をした天女に右手を振るう――瞬間。


「――ッ!」


 ブシュッ、と。彼の首から鮮血が溢れ出した。

 息を呑み、それを目で追った彼に届いたのは、ニイッとした憫笑だった。


「おや残念。浅かったようですね」

「て――めっ」


 理解が追い付かないウォルフにそれは大変効果があった。

 避けたはずなのに肉が裂けた現象を、銀狼は頭の片隅で考えるが、


「クッ――!」


 それを許可しないチェルシーの猛攻が彼から思考を奪う。

 加えて先ほどの彼女の挑発が、銀狼の頭に血を上らせて効力を相乗させていた。


「――……」


 だが、沸騰する頭で、ウォルフ・エイブラムは思索を巡らせていた。

 チェルシーの攻撃を避けながら。そして一拍遅れて身を刻む現象を受けながら。

 ――一拍遅れて……。ならばと思い至った彼は、突き出されるチェルシーの突きをあえて受け止める。


 裂ける腹。そしてやはり遅れて血飛沫く同じ個所。


「なーるほど、分かったぜ」

「……ッ」


 口角を持ち上げて歯を見せるウォルフにチェルシーが警戒し、それでも彼女はまた攻めた。

 対する魔獣は天女の貫手を避けて、更にその後身体を捻ってやり過ごす。ゆえに銀狼は傷付かない。


「――」


 目を剥くチェルシー。しかし中空を自在に泳ぎ、弧を描いて再度ウォルフに接近。

 手が踊り、脚が跳ねる。流麗な舞空はけれどウォルフに当たらない。更に――


「もう種は暴いたぜ!」


 遅れて発生するはずの裂傷も、今はウォルフを侵さなかった。

 飛び退いてニヤリと嗤う彼が言ってのけた。


「てめえの打撃は全部が囮。本命はその後に忍ばせた不可視の風だろ?」

「……、」


 応えぬ彼女であったが図星である。

 あえて目立たせた拳打の影に、遅れて発動させる流体の刃こそが狼男を滅する武器だった。

 歯噛みする彼女を見やり、呵々と嗤うウォルフが爪を掲げ――振り抜く。


「な――!?」


 我知らず漏れ出たチェルシーの驚きは仕方のないことだろう。

 鎌鼬かまいたちが彼女に向かって奔っていたのだ。お株を奪われた天女は紙一重でそこから脱するが、


「オォ――ラアッ! 捌いてみろよ! かっちょいい合気を見せてみろ!」

「ィ……!?」


 先見するウォルフが致命の爪を見舞っていた。

 捌くなどとんでもない。死の間際で回避するのが精一杯なチェルシーは、けれど意志を燃やして三度ウォルフに攻め掛かるが、


「カッ! 種は暴いた、もう慣れたんだよ!」

「くう……!」


 彼女の攻撃は届かない。手刀も足刀も、忍ばせた風刃も。

 発生する風を、そのド外れた嗅覚で察知して躱していた。躱した刹那にチェルシーを蹴り込んで血を吹かせる始末。


「こ――の!」


 ならばと後退したチェルシーが大気を操り大味な烈風を銀狼へと見舞っていたが。


「ハッ!」


 笑みを刻む彼が右腕を掲げる。その見事な銀の体毛で真空を受け止め、四散させていた。


「だーめじゃない。キミは俺の急所を狙わにゃ勝てねえぜ? 正面突破はオスの特権よ」

「本当、馬鹿げてる……」


 漏らすチェルシーに安堵の時間は無い。

 踏み込んで距離を消したウォルフが彼女の腹に膝を叩き込んでいた。


「ガ……フッ!?」


 悶絶して身体を丸め、無警戒の頭に炸裂する魔獣の肘打ちがチェルシーを地面へと縫い付ける。

 身動きとれずに地に伏せた天女の頭はパックリと割れ、赤い水溜まりを作っていった。


「……あーあ、やり過ぎちったよ。オーイ、だいじょぶかー? そんなに血を出しちゃ死んじゃうぞー」


 ポケットに手を突っ込んでニヤつく魔獣に――突如穿たれる雷霆らいていの槍。


「ク――アァッ!?」


 痛みと痺れる身体に喝を入れ、咄嗟に後退したウォルフが上空を見やる。と、そこには、


「雷雲……だと?」

「ふふ……」


 天候を操るチェルシーにとって、即席で小さな雷雲を作り出すなどお手の物。

 瞬速を誇るウォルフといえど、背後から迫りくる雷速の一撃はさすがに躱せない。いつの間にかじっくりと溜め込んで放たれた雷撃は、丈夫を誇る魔獣の毛皮すら貫いた。


「いってえ……、こっそりとあんなもん作ってやがって……!」

「だって、わたしは弱いから……正面突破ができないですもん……」

「チッ」


 皮肉と共に放たれたチェルシーの意趣返いしゅがえし。

 してやられたと、未だ感じる痺れを払うかのように首をゴキりと鳴らしたウォルフ。


 対し、頭を押さえ、ようやく起き上がったチェルシーは顔を血に塗れさせつつ彼を見据える。


「……思ったよりずっとやるじゃねえか。で、次は何を見せてくれんだよ? 雹か? 台風か? 貧血起こす前にさあ走りなよおチビ!」


 諸手を広げ、獰猛な嗤いで伸びた牙を剥きつつウォルフはチェルシーを挑発する。


 そして――彼は気付いていない。先ほどの雷撃も、異様に黒ずんで目立っていた雷雲も、これから行う攻撃から目を逸らさせるための囮だったということを。

 だから――彼は気付かない。頭上の空が徐々に厚い雲で覆われていくことを。


 ぽつりと、相手に聞こえないようにチェルシーは漏らした。


「雨は……嫌い」


 ついでに言うと曇り空もあまり好きじゃない。

 でも、だからといって今この場でそれを嫌がることなんてできないから……。


「あーん?」


 一方のウォルフは、俯いて、小声で「雨は嫌い」と呟くチェルシーに対して疑問の目を向けていた。たかが十メートル足らず、頭部に生えた狼の耳ならば、その程度の距離ならばどんな小さな声だろうが聞き逃さない。

 だが、どういう意味だ? と狼男が思考を反芻したときだった。


 フッ……と、辺りの景色が急に黒みを増した。


「な――て、てめえ!」

「あなたが、月光の恩恵を受けると言うのなら……」


 その光源を分厚い雲で断ってしまえばいいと、チェルシーは考えた。

 そう、今このひと時だけは、三日月の明かりは狼男を照らさない。月の愛は彼に届かない。

 慌てふためく彼の様子こそがその証拠。


「舐めんなよクソガキィッ!」


 しかし狼男は猛ってみせる。


 たかが薄布一枚張っただけでなんだというのか。

 その程度、俺と月とを分かちはしない。狼男は依然健在、衰えやしない。

 じゃくてんすら超越したこの無敵の銀狼ぎんろうを、この俺を――ッ!


「甘く見んな! あんなもん、ハウリングで消し飛ばして――」


 恋路の邪魔をされた銀の魔狼は、目を剥き殺意を漲らせて頭上の阻隔者くもを魔力を込めた遠吠えで霧散してやろうと集中していた。が――


「余所見――しないで」

「――ッ!?」

「そこがあなたの犬小屋です」


 それは天女の死の宣告。

 同時、極大に荒れ狂う雷雲と竜巻が瞬時に発生する。

 そしてそれは前方にいた魔獣を取り込み天を衝く。


 ――スーパーセル(天災の大牢獄)


 雹、豪雨、雷、そして竜巻と、ありとあらゆる自然界の激昂が同時に発生する最恐の大災害。


 チェルシーの光輪が激しく明滅していた。

 これぞ『万象照らすは日輪の華サルヴェイション・サンライト』の真骨頂。


 ビルが、木々が、車や電信柱などの人工物が、ゴミのように解体されては呑みこまれてゆく。

 天候の女神が全力で繰り出した、その神力が加わった災害は、天然のものを遥かに凌駕する。密度が、高さが、回転力が違う。だから絶対脱出不可能。無理やり通り抜けようとしようものなら、その身体は弾けて四散する。


「うおおおおおおおおぉぉおおおおっっ! てんめええええぇえぇぇええっ!!」

「さよならウォルフ。あなたとは二度と会いたくない」


 身動きが取れずに我知らず絶叫を上げるウォルフ。

 そんな彼に別離のあいさつを告げ、チェルシーは竜巻を操作して前に走らせた。


「ざけんな! こんな……ッ! こんなもん!!」

「無駄ですよ……」


 そう、いくらチェルシーより地力が勝っているとはいえ、天使化した太陽格が放った全神力をつぎ込んだ文字通りの必殺技だ。同じく天使化しているウォルフであるが、この暴風には抗えない。

 まして、ウォルフの気持ちとは裏腹に、今の彼は月光あいを失って先ほどより弱体化してしまっているのは事実なのだ。


「ぎえやあああぁあぁぁっあああああああ――――ッッ!!」


 烈風の刃が斟酌も容赦も無しに、全方位から猛獣を切り刻む。獣の血で徐々に風は赤色に変化する。為すすべがない、今のウォルフはただただ風に蹂躙される屑肉に等しかった。


「余裕……出して、敵を舐めているから……、そういう、目に合うんです……」


 片膝を付き、血と汗を流して喘鳴しつつ、チェルシーはすでに凪いだ、部分的荒野と化した景色を眺めてそう言った。

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