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銀狼

 少年はかつて小鼠だった。

 夜空に浮かぶ月に魅せられた、小さな小さなヨーロッパヤマネ。


 自慢の金毛こんもうは銀一色に上塗られ、彼はそれを至高とする。

 目を閉じて月光の抱擁を噛み締める。冷たい夜風が心地良く、永久とわ永久とわにと無辺際むへんざいの幸福を願って瞑目した。


 一目見て心底惚れた。けれど独り占めしようなどと思い上がってはいませんと。

 所詮自分は低俗な小動物と、ヤマネは自身を弁えていた。

 お美しいお月さま、贅沢は言わないので、どうか夜の間は我が心臓を掻き鳴らして下さい。

 我知らず近付きたいと伸ばす手は、殊勝な思考と相反する彼の夢。


 阻隔者おらぬ逢瀬の時間はけれども――


「……ッ」


 ヤマネの思い違いであった。

 幾つもの個体と相乗し、辺り一帯に木霊するハウリング。

 広がるのは月の寵愛を満遍なく受けた銀狼の群れ。

 それのなんと美観なことか。彼女つきの本命は煌びやかな魔獣であった。


 思い知らされたのだ。自分は間男以下の有象無象で、ついでに照らされる景色の一部と。

 ではそれを甘受するのだろうか――否である。

 独り占めはしない、眺めているだけで十分……なんだそれはと唾棄して潰す。

 月よ、あなたが銀の魔獣を好みとあらば、自分がそれに成り変わろう。月光あいに応える我が信念を、今からとくとお見せしよう。


 依存を超えたその妄執はあらゆる因果や常識を踏み砕き、天空の想い人(ミストレス)にそれをしかと見せつける。

 銀の体躯を喰い破り、立派な犬歯を噛み砕いて嚥下する。

 毛皮を喰う。目玉を喰う。誇りも矜持も何もかもを腹に収めて我が物に。

 糧にする。成って変わる。銀獣たちよ贄となれ。


 銀と赤黒の流動物からもぞりと蠢く小さな個体。もはやそこには金も銀も存在せず、血肉の絵の具で塗り固められていた。


「クッキキ――ケカカカ……ッ」


 零れた嗤いは充足感の塊だ。

 魂ごと他者を喰い散らかしたヤマネは己が外殻を変容させる。

 グチュグチュと、グチュグチュと、グロテスクに四散、結合、膨張を繰り返し、遂に彼は月の隣へ立ち並ぶことを許された――






 ――繋錠光輪けいじょうこうりん


「クッ!!」


 呪いの言葉が紡がれたその寸毫、天空の女神であるチェルシーは自身の震えを隅に追いやり、大気中の水分を凝縮すると共に冷却。

 間断置かずに両腕を交差し、あらゆる角度から千を超える氷結をウォルフの総身に飛翔させた。

 それはもはや点ではなく面に等しい全方位からの氷の絨毯爆撃だ。逃げ場のない魔獣はひたすらに結晶の散弾を浴び続け、やがてその全身を氷柱と化して――いたのだが、


「ひ、ぅ……」


 なぜだろうか、再度震えに見舞われるチェルシーが恐る恐る空を仰げば、


「ア――アァ……ッ!?」


 夜空の三日月は輝かしくもおぞましい銀色に発光し始め肥大化していた。

 ギンギンと、ズブズブと、夜の空間は月の発する情により銀世界へと変化する。

 チェルシーの神気によって氷漬けにされたウォルフであるが、そんなことなど歯牙にも掛けていないが如く、その嗜虐的で獰猛な視線を未だに保っている。


「あ……、くぅ……!」


 氷越しとはいえ、狂気を孕んだ鋭い眼光で射抜かれているチェルシーは歯を鳴らして戦慄していた。追撃しなければと、思うがしかし動けない。


 氷を透過し光が集まる。羅刹の頭上に連環されていく。

 そして遂に、全身を覆う氷などお構いなしに、ウォルフ・エイブラムは聖なる名を以てして本物の魔獣へと転生した。


『――白銀の魔狼(シルバー・ファング)――』

「あ――うぅッ!」


 直後、氷像と化していたウォルフは自らを固める戒め(こおり)きの如く粉砕する。

 更に間を置かず、三日月が数瞬だけ世界の闇を光に変えた。我こそはと主張するその輝きは、太陽すら斯くやあらんというほどの強発光。直視すれば問答無用で目が眩む。


 そして、訪れるのは不気味なほど静まり返った夜の闇。しかし、今度は比喩でもなく確実に目視で分かるほどに、巨大化した三日月が呼吸をするかのように鳴動していた。

 だが、そんなことはささいな問題だった。


「な――ァ、」

「こうなったらてめえはもうおしまいだ。呑気に尻尾なんて振ってやらねえからなァ?」


 光輪備えた天使あくまの声がよく響く。

 掛け値なしの人外獣。月によって変身した狼男。


 頭頂部に耳が生え、服を突き破った巨大な尾を靡かせて、ジャケットを纏っているために目立たないが、頬や腕、手の甲などから銀色の体毛が伸びていた。そして、かつての金髪は鳴りを潜め、体毛と同じくしてその髪も銀色へと変化していた。

 更に鋭利に丈夫に強化されつつ伸び上がったその爪牙。山すら砕くし海を割る。地球のものでは秒稼ぎすら出来はしない。


「誰も俺を縛れやしねえ……」


 大きな尾がくうを切り裂き天を衝く。


 レージング(右手の鎖)ドローミ(左手の鎖)も彼の前には効力無し。

 ロゼネリアが特に力を込めてその首を戒めたグレイプニルすら、


「飼い慣らせると――思うんじゃねえぞッ!」


 咆哮と共に弾け飛ぶ。

 首輪を引き千切って野に放たれた邪の禽獣きんじゅうは他者を貪り吐き捨てる。もはや誰にも止められない。


「う……、く、あ……」


 チェルシーは恐れ慄いた。格が違う。モノが違う。自分の天使化など児戯に等しいと、その圧倒的な圧力だけで一笑に付されている気分に侵された。

 それもそのはず、生命樹セフィロト第九(イェソド)は月の象徴。

 誰よりも月を愛し、誰よりもその淡い光に愛されることを願っていたから、本物の魔獣になりたいと希うようにそれを求めて駆け抜けたのは一匹の小さな鼠。


 だから、ウォルフ・エイブラムは第九へと伸し上がる。執念で、嫉妬で、恋慕で。手を伸ばして掴んでみせた。銀狼ほんものを喰い殺し、前任者(まえのイェソド)を千切り殺して。

 執着心で言えば、チェルシーの太陽に対するそれがままごと以下に映るだろう。


 銀の魔狼は犬歯を剥き出し威嚇する。全身の毛を逆立たせて闊歩する。


「気ぃ遣って手加減してやってりゃあ調子ぶっこきやがってこのチビが。楽に死ねると思うんじゃねえぞテメー」


 目を眇めて放つ言葉は呪いの色に染まっていた。

 遡れば、ウォルフはチェルシーを過小評価などしていなかった。むしろ己が相棒のセフィラを宿す者として高く評価していたし、敬意すら払っていた。

 それだけに、先ほどのチェルシーの行為は彼の逆鱗に触れて落胆させた。

 その瞬間、彼女への敬意と価値に唾を吐きかけ踏み躙る。


 かつて彼が前任者を殺害したとき、その第九イェソドと懇意であった当時の第六ティファレトが激昂し、ウォルフに向かって攻めかかった。

 結果は返り討ち。どころか、より惨たらしく虐殺された。本来であれば、ウォルフは甘んじて第六の怒りを受け止めようと、殊勝な考えを持っていたにも関わらず。

 なぜなら、第九に到達したウォルフが掲げた月を汚らわしいと否定したから。

 自分への罵詈や誹りであれば構わない。大抵のことなら笑って受け流すし、内容次第では改善だって試みる。


 だが如何な理由でも、誰が相手でも、月への侮辱だけは許さない。

 ウォルフにとって、あの月光を軽んじる者は一切合切全てが敵なのだ。

 だから死ね。泣き喚いてのた打ち回れと、憤怒の炎を燃え滾らせる魔獣が歩みを進めて距離を消す。ガチャリ、ガチャリと砂利が鳴る。


「――くっ!?」


 反射、命の危機を感じたチェルシーが神気を集めた右手を振って熱線を放射した。

 が、目を眇めたままのウォルフは造作も無く十万度のレーザーを掻き千切っていた。


「……ッ!?」


 その現象が信じられないと、瞠目するチェルシーが慄いた。

 震える手足、けれどもどうにか喝を入れて頭上の輪を輝かせる。


「ああぁぁあ! ――アアアァァァアアァアアッッ!!」


 絶叫してブロンドを振り乱す。叫び、猛って矢継ぎ早に両手から太陽光を発射する。

 莫大な神力と熱は景色を歪ませる程だがしかし――


「ハッ」


 鳴らされた鼻息は侮蔑の塊。子供の火遊びでも見るかのような調子であった。

 二十に迫ろうかという太陽の光線は、余さずしっかり見せつけるように打ち払われて――直後に向かう、溜めに溜めて放たれた威力も大きさも十倍はある極太の熱線は、


「――オアアアァァアアア!!」


 銀狼のハウリングで跡形も無く掻き消されていた。


「……っ――」


 チェルシー・クレメンティーナは絶句する。馬鹿げたまでのデタラメぶりに言葉がまるで出てこない。弾かれた熱線の残骸が彼女の側の建物を貫通し、ジュウジュウと虚しい煙を立ち昇らせていた。

 焦げた臭いが彼女の鼻を刺激して、次いで漏れ出た焦燥の吐息と恐怖からの退く一歩が、対峙する銀狼の嗤いを深めた。


「まあそう怖がんなよ、俺の小っちゃくて繊細なハートが壊れちゃうから――よォ!」


 魔獣のブーツが足元のコンクリを抉りながら蹴り飛ばす。

 それは強引に作られた即席の散弾銃だ。あっさりと音を超える弾の雨が獲物を狙って殺到する。


「くぅ――!」


 凶念すら宿した弾幕に、チェルシーは避けの一手しか選べない。


「オラよッ!」


 辛うじて離脱した彼女を、しかしウォルフは逃さない。

 一瞬で肉薄し、そのどてっ腹を蹴り込んでくの字にさせた刹那に掬い上げる。

 人形よろしく空に煽られたチェルシーの、今度は横面を叩き込んで廃屋へとぶち込んだ。


 ヂャガン! とガラスの爆ぜる音。室内でお腹を押さえて蹲るチェルシーに、黒い影が近付いて肥大する。


「なんだオイ、腹痛えのか! 悪いモンでも食っちまったのかよ心配だぜ!」

「――」


 せせら笑う魔獣が体躯を屈めて旋転し、家屋ごと巻き込みながらチェルシーの脳天に浴びせ蹴り。破砕される木材の山に無理くり彼女を埋葬した。

 霞のように立ち込める土煙を見やり、地に降り立ったウォルフがにやにやと破顔した。


「さあ今度は頭痛かい? 良いぜ、寛大な俺様が休憩を許可してやるよ。やれしょーもねえ理由でくだ巻く女のワガママに、付き合ってやる甲斐性くらいは持ってるからな」


 上から目線の言葉は嘲弄ちょうろうそのものだった。

 先ほどまでの彼の形相と比べ、口調や態度こそ柔らかくなってはいるものの、しかしその双眸は赫怒の色に染まっていた。


 ただ殺るだけでは飽き足らない。惨めに、無慈悲に、玩具のように弄んでぶっ殺す。泣き喚かせてぶっ潰す。臨界点を超えた銀狼の怒りは依然として健在どころか、更に更に灼熱する。

 溜飲は下げずにベッと吐き捨て、どうチェルシーの心身を砕いて蹂躙してやろうか思考したところで、


「……ッ!」

「おっ?」


 廃材の山が爆散した。豪風吹き荒れ、光輪備える天女が勢いよく離脱する。

 文字通り風を斬る。衝撃波ソニックブームを纏いつつ、一度体制を整えるために僅かでも銀狼から距離を取るチェルシー。天へ向かって飛翔する彼女はまさしく天使の名に相応しいが――


「――!?」

「いらっしゃいませー」


 突然の強引過ぎる急停止。

 その小さな後頭部を、疾うに先回っていたウォルフに鷲掴まれていたのだ。

 理解が追い付かず、ただくちびるを震わせるチェルシーに、そっと優しく彼は言う。


「当エレベーターは、一階直通のみとなっております」


 そして、パッと手を離した。

 ふらふらと、呆然とするチェルシーが重力に倣って下降したところに、魔獣が両手を組んで掲げ――ハンマーよろしく振り下ろす。

 うつ伏せに地面に着弾して跳ね返った彼女の足首を、またも追い付いたウォルフが掴み、人間小槌のようにして再び道路にブチ込んだ。


「カ――フ――……、げ……ェ……ッ」


 背中を地面に縫い付けられ、衝撃から反射的にチェルシーの呼気が止まる。吐き出された酸素の次に出てきたのは、胃液混じりの鮮血だった。

 彼女の全身を覆う打撲と裂傷。それはとても痛々しく、常人であればとっくに死んでいてもおかしくない程に深いもの。血が道路を滲ませ、チェルシーの髪と服を赤く赤く染めてゆく。


「あ……! く――」


 霞んだ眼で夜空を見上げるチェルシー。その瞬間顔の側に踵が降ってきた。


「おいおい、そんなザマでどうやって俺に勝つっつーんだよ?」


 砕かれたアスファルトの轟音と衝撃がチェルシーの耳朶を打つ。しかしそれ以上に戦慄するのは、この猛攻を見せながら未だに涼しげな表情を見せているウォルフ自体だ。


「や、やっぱり……強いですね……あなたは、本当に……」

「あーん?」


 見上げた彼女の両目に映るのは、妖しい銀光を放つ巨大な三日月だった。


「銀の月に、銀の狼……。まるで、おとぎ話ですね……。なりたいものになれて、光栄ですか……?」

「光栄……だと?」


 吐き捨てるように呟く銀狼。その眉間に皺が深く刻まれる。

 瞬間。


「――ぎ、ァ!?」


 呻くチェルシーはボールのように蹴り飛ばされていた。

 電信柱を何本も貫き、コンクリートの下敷きになった彼女に向かってウォルフが言い放つ。


「ざーんねん。光栄とはチクッと違う。つーかごめんな? ムカついたから思わず蹴っちまったよ謝るよ」


 頭を掻きつつ、上っ面の謝罪は悪童のふざけのよう。

 趨勢はもはや決している。けれど地獄の夜は終わりを見せず、続いていく。

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