訪れる三日月
戦いの様相は天上知らずに勢力を増していた。
コンクリ片が舞い上がり、ガラスの雨が降りそそぐ。瓦解する廃ビルが平らになって粉塵散らし、その影から飛び出す二人分の人影が武闘を繰り広げて宙をゆく。
天使の輪が煌いた。それを携えるプラチナブロンドに濡れたミディアムヘアを靡かせながら、チェルシー・クレメンティーナが人災と化していく。
「――疾ッ」
天女は空を自在に、音など遥か置き去りにして舞い踊る。反射的に五感をフルに稼働させて身構えるウォルフに対し、近づきつつ数十のフェイントで攪乱する。
風が開く。花開く。大輪咲かせて渦巻くそれは暴虐極まるサイクロン。
万象照らすは日輪の華。
解放されたその神力、速度、範囲が全て、先ほどまでとは比較にならない爆発力だ。
さすがのウォルフも回避一色ではままならず、彼女の攻撃を緩めるために牽制の手を放っていくが、
「――チイッ!」
「…………、」
小さな少女は止まらない。
旋回し、翻り、時に穏やかな雲のように、あるいは驟雨のような激しい舞空。
緩急を極めたチェルシーはウォルフに自身を捉えさせず、加えて彼からの妨害の際にカウンターで真空の刃を見舞っていた。
ウォルフが直線を地で行くならば、チェルシーは曲線だ。
柔で剛を制す彼女。繋錠光輪によって技のレパートリーを増やし、地力を大きく高めたチェルシーに力任せの攻撃で撃退することは容易ではない。
徐々にウォルフの総身に赤が増していく。が、チェルシーは決して気を抜かず油断しない。目の前の猛獣はそんな程度で斃せるものではないと知っているから。
そして何より、半端な攻撃こそが逆効果となってしまう。
「ク……クククク……ッ!」
漏れ出た嗤いは餓狼のそれ。
我慢と自重を貫く彼に、しかしその光は虚腹の胎動を加速させてしまうのだ。
「くくっ! あはははははははっ! い、痛え! 痛えよ眩しいぜチェルシー! その力はまさしく煌く宝玉だ! 石ころなんざ比にならねえ輝きに目が眩んで失明しちまいそうだぜァ!」
「この人は……」
それがこれだ。中途半端な陽光こそが悪の華をつついて咲かせ、その口元に三日月めいた鋭利な笑みを零させる。
太陽に中てられて叫ぶ彼はまさに駄々を捏ねる餓鬼のよう。光を、光を、陽光を。もっともっと迸発してさあ俺を照らしてくれと。月の本性が徐々に芽生えて手を伸ばす。
つまり、有り体に言ってこの危険な男がノリ始めているのだ。
自身の鮮血を撒きながらなお瞳孔を開いてひた嗤うウォルフに、チェルシーは呆れつつ眉を顰めた。やはり恐ろしい。痛みをモノともしない豪胆さや戦闘向きの膂力に性格。そして何より月と太陽をと妄執する気概こそがド外れて恐ろしいのだ。
証拠に、ウォルフは偽りなく楽しんでいる。素の状態で天使化したチェルシーを相手に。
その事実に眩暈がするチェルシーだが、彼女の心に手加減というものは存在しない。
(遊ぶ気はない。すぐに終わらせる……!)
瞬間、熱線がウォルフの左肩を貫いた。
「ぬ……う!」
それは凝縮された太陽光。摂氏十万度を優に超え、加えて神の力が乗ったレーザーだ。いかにこの男が頑丈であるとはいえ、第六の本気を喰らえばダメージは免れない。
骨の髄まで貫通され、血液など刹那に蒸発した攻撃を受けた彼にすかさず真空を飛ばすが、
「――上手いが、しかし甘っちょろいぜぇ!」
音すら超える風速を嬉々として避ける金の少年。
神気が溢れ、無尽蔵に迸る。
さあどうだすごいだろうと。日輪を受けて煌々と光る月輪こそが太陽の伴侶に相応しかろうと。牙を見せて純粋に呵々と笑う。
年相応に無邪気な笑顔を見せる彼に、けれど白金の少女は首肯しない。
チェルシーの光輪が燦と輝き迸る。
あなたはやかまし過ぎるのと、拒絶の意思をはっきり示す。
「疲れるんですよ、とにかくあなたは」
寸暇、中空から降り立つウォルフの足元が突如爆ぜた。
「っちい!」
幾重にも伸び上がった二メートルを超す巨大な氷柱。
その剣山に槍衾にされる直前、ウォルフは右の腿を犠牲にするだけで逃れ飛び――なおも襲い掛かる氷結をぶっ壊し、間隙を縫って飛来する流体の刃をも刹那に躱して口笛を吹いてみせた。
「ヒュー。風に熱に氷ときたかい。まったくもって器用さねえ」
チェルシーを眺めつつ、ウォルフは背後から飛来してきた鎌鼬を半身になって躱していた。
それを見て苦笑をもらす天候の女神ことチェルシー・クレメンティーナ。
「器用なのはどっちなんだか……。痛くないんですか? それ」
「こんなもんは興奮剤さ。アドレナリンを分泌させて良い感じになるためのな」
左肩と右の腿。そして全身に負わされた裂傷を眺め見てウォルフはそう言ってのけた。
事実として彼は愉悦し、喜悦に満ちている。それでいて寸分の隙もない。不意を衝くならさあ来いと、その全身が物語っている。
「…………、」
チェルシーは動かない。というよりどう動けば良いか判断を下せない。
天使化した状態にも関わらず、チェルシーは光輪を出していないウォルフを殺しきれていないのだ。べつに手を抜いているわけではなく、彼女は全力で斃しにいっている。それこそ、多彩な技や背後への不意打ちまで使って。
それでいてこの結果。このザマだ。重傷は与えているものの、それまでに過ぎない。
「俺ぁ鼻が利くのさ」
「え……?」
いきなりのウォルフの言葉に、チェルシーは我知らず疑問の声を上げた。
「加えて戦場は本来獣の世界だ。余計に鋭敏になるってもんで、生きてるって心地がするぜ。調和だ平和だと嘯きながら殺し合う欺瞞に満ちた人間共が、土足で踏み鳴らして良い場所じゃあない」
「なるほど……」
その問答だけでチェルシーは理解した。
つまり、ウォルフ・エイブラムは鼻だけではなく五感――その上に第六感までもが桁外れに優れている。戦闘中なら尚の事で、それら感覚をフルに使って戦い抜く。動物時代から息をするように死線を潜り抜けてきた彼の戦闘センスはそれが根底にある。
動物が持つ特有の勘とでも言えばいいだろうか、喰い殺す術と喰い殺されない術を同時にウォルフは持っている。ゆえに彼は戦場を駆け抜ける。誰が相手だろうが喰らって千切る。
「……本当に、猛獣ですねあなたは」
その生き方はぞっとしない。だって恐ろしく悍ましいから。
「なんとなく思ってはいましたが、やはりあなたは前世が狼だったんですね」
「……はん?」
そこで両者の間に齟齬が生じるが、気付かぬチェルシーはなおも問い掛けた。
「もうちょっと、のんびり生きてみませんか?」
お日さまは良い。穏やかな陽の元で、肩ひじ張らずに歩む気はないかと問い掛ける。
この陽光を受け止めるのであればこそ、平和に向かって邁進しろと。
返答は分かっている。しかし彼女自身もその一点は決して譲ることができぬのだ。セフィラを内包した者ゆえの妄執染みた信念は、各々の神格が創り上げた世界に等しいものだから。
「――悪いな、そればっかりは聞けねえよ」
案の定、ウォルフはそんなチェルシーの言葉を否とした。
たとえ月に等しく崇拝する太陽が望みでも、彼の生き方には徹底して合わないから。
確かにウォルフ・エイブラムは生粋の殺人者というわけではない。
むしろ人間という生き物に対して興味すら持つほどである。思想や科学、文化といった発展が。爪牙を持たぬ代わりに頭脳という武器を使って陸の覇者となった人間のルーツや生体が。
博打やゲームは面白い。頭の悪い自分では到底生み出せぬ代物だ。他にも空飛ぶ乗り物、複雑怪奇な数字の羅列、膨大な情報を拡散するネットワーク。……全体的に味の濃い食料だけは腑に落ちぬものの、とにかく雲霞の如く地上を支配する人間の強大さをウォルフという男は認めている。
けれども、それとこれとは話は別だ。
ウォルフは殺人者ではないが、生来の猛獣だ。血と死の臭いのする獣道こそ彼の生に他ならない。
人間とて海に赴き泳ぎはするが、肺呼吸ゆえ永住できない。
つまりはそういうこと。獣を飼い殺すことなど不可能なのだ。
ずっと鎖を繋がれたままなんて、まっぴらごめんというわけで――
「……そうですか」
交渉決裂。一縷の望みに掛けて提案した陽の道は跳ね除けられた。
ならばと、目を眇めるチェルシーは今度こそ止まらない。目の前の餓狼を排除すべき敵として、一切の容赦無しに消し飛ばす標的と見定めた。
その覚悟は本物で、もはやテコでも動かないと何となくウォルフは悟ったから。
「……ハッ」
小さく、苦笑した。
ならばどうするか、金色の少年は一つの結論に辿り着く。
「じゃあ、もう一つの可能性に聞いてみるかね」
「――」
瞬間、瞠目するチェルシー。
その言葉の意味することを一瞬で理解したから。
「……だ、ダメ……!」
それだけは――させない。
これ以上、神崎美琴を巻き込んでしまうことだけは……!
チェルシーの動揺は、ほんの僅かにだが隙を生んでいた。
けれど、その隙はウォルフにとっては十分過ぎた。
獣とは隙を狙う。獣王たる虎ですら、草陰に潜んで獲物を狩るのだから。
「――ッ!?」
チェルシー・クレメンティーナは幻覚を見た。
顎門を拡げて飛び込んでくる巨大な狼の幻覚を。
そして――首に奔る衝撃。
抗うことができずに地面に倒れるチェルシーを、憐憫の情すら見せたウォルフが見下ろした。
「悪いな、俺だって引けねえのさ。ここで寝てなよ、神崎を交えて話し合いといこうじゃねえか。究極、俺は太陽ならどなたでも構いやしないのさ」
言い捨てて、カツンカツンと足音が遠ざかる。
遅れて、側で崩れ落ちたコンクリートの柱が塵を撒き、倒れたチェルシーの手元にパラリと落ちた。
「――ぎ、いぃ――!」
それを引っ掻き、歯を食い縛ってチェルシーが起き上がる。
明滅する視界をどうにか捻じ伏せ、よろめく足に喝を入れて立ってみせた。
「はっ……! はぁ……っ!」
後頸部を揉んでほぐし、息を整え前を向く。
その先には、両手をポケットに突っ込んで悠々と闊歩するウォルフの姿。
「い……かせない……!」
行かせるものか、絶対に!
一度地獄を見せてしまったあの子だけは、金輪際関わらせない!
その意志は固く強く、どんなことでもやってのける。
そう――どんなことでも。
「――ウォルフッ!!」
叫んだ。力いっぱい。絶叫と言っていい。
そんな行動を取る彼女はとても珍しく、だからこそウォルフは今一度こちらに意識を向けていた。
「はあっ! ……はあ!」
息を整える。全身に酸素を送って二本の足を覚醒させる。
いつしか――陽は沈み、三日月が顔を見せていた。
そんな歪んだ笑みのような銀月を見据えたチェルシーが不敵に笑って手を伸ばし――
「……ッ」
グッと――掴む仕種を見せていた。
白魚のような指が握り込まれ、その拳が彼女の目線から月光を遮断する。
その行為の意味するものとは、月の掌握に他ならない。第九を内包するウォルフにとって、無視できない行いだ。
だから、チェルシーは笑んでみせた。どうだ、イラついたでしょうと。ならばこのままわたしと戦い続けなさいと。確信しての行動はだがしかし――
「――てんめえ……!」
効果が、有り過ぎた。
断言する。彼女の選択は間違いであった。
「舐め腐った真似しやがって――このクソチビがァ!!」
「――!?」
今さら怯んだところでもう遅い。
激昂とはこのことだ。殺気と怒声だけで死んだ街がひび割れて瓦解する。
もう一度言う。彼女の選択は間違いだ。
ウォルフ・エイブラムは月の亡者である。月ゆえに覚醒し、月のために転生した。
そのような彼にとって、今しがたの行為は侮辱という言葉では到底足らず、
「クソが。要らねえよてめえ、死んじまえ」
血走る双眸。引ん剥かれる伸びた牙。こめかみに浮き出た血管がドクンドクンと脈動する。
チェルシーを見限り、殺害対象として認識したウォルフが本性を晒していく。
「そんなに俺と語り合いてえなら、お望み通りにしてやるよ。てめえを血染めの人形に変えてなァ!」
「――く、うぅ!?」
爆発する殺意の波動。それが一点集中して小柄なチェルシーに雪崩れ込む。
もはや彼女はまともに立っていることすら敵わない。
月を掴んだ手はいつの間にやら顔を覆い、襲い来る鬼気から護っていた。
だが、それが一体何になるのだろう。これから彼女を呑み込む地獄に比べ、こんなものはそよ風に等しいと言うのに。
「あ……あぁ……」
碧い瞳が剥かれ、小さなくちびるは戦慄いた。
汗が流れて肌が粟立ち、二本の足は小鹿のように震えている。
だが、もう遅い。全ては手遅れ。この男を本気にさせてはならなかったのだ。
ロゼネリアすら手に余る絶対の強者。
その実体を直に叩き付けられながら、チェルシーは更なる恐怖を耳にした。
――繋錠光輪。




