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第六(ティファレト)の真価

 傾いた夕陽が雨水に濡れた墟街地きょがいちを茜色に染め上げる。

 廃ビルに吹き抜けの家屋、千切れて垂れ下がった電線等が儚い光を帯びてゆく。

 舞い散る粉塵、吹き飛ぶ豪風。規格外の攻防を続ける二者が死んだ街を暴力で色めかしていった。


「……ッ!」


 チェルシー・クレメンティーナが目を絞る。疾風はやてのように飛びながら、諸手を動かし四方八方から獲物を狙って颶風ぐふうを奔らせた。


「あーらよっと」


 だがしかし、対するウォルフ・エイブラムは余裕綽々だ。

 携帯ゲームで遊びつつ、迫る無形の刃をながらで悉く回避する。

 余波により、パラリと舞った粉塵が手元の画面に落ちればそれをフッと吹いて続きをプレイ。


「カーッ! クッソが、全然こいつ有情じゃねえよ!」


 ゲームの仕様に文句を垂れつつ、首筋に向かう真空を屈んで躱し、直後に跳躍して足元の薙ぎ払いから逃れていた。


「逃がしません……よ!」


 が、即座にチェルシーが追い縋る。

 体勢を低くしたまま突貫し、固めた貫手が放たれて――けれど半身で躱され空を切り、


「――まだ!」


 グルン、と。視界から敵手を逃さないチェルシーが遠心力を引っ提げた足刀を見舞っていた。

 息を呑む音がした。すんでのところで少女の脚は空振ったが、僅かばかり余裕を消したウォルフの瞳に映り込むのはされど終わらぬチェルシーの猛攻だ。


 自由自在、という言葉が相応しい。小さな身体の拳打連撃、しかし決して侮れない。急所を狙う正確さに、秋空の如く急転するその軌道。首を護れば腹へと膝が、向骨むこうずねを逃がせば目玉に指先が迫りゆくのだ。


 さしものウォルフも堪らない――とは行かず、その台風めいた猛威を全て見切って躱しており、またもやゲーム画面に目を落としてさえいる。

 信じられない対応速度と、チェルシーが内心舌を巻くが、それでもまだ想定内だ。

 疾走しつつ、タイミングを見計らったチェルシーがグンと脚を大きく上げた。そこに集約される疾風の神気。


「んーな格好してっとパンツ見えちゃうぜ」

「キュロットですので――ご心配なく!」


 叫び、急下降された踵落とし。颶風を纏った一撃はあわや仰け反るウォルフを捉え切れず、そのまま地面を粉砕するが。


「――チッ」


 濛々と立ち昇る土煙に舌打ちするウォルフであるがもう遅い。遠ざかってゆく気配を感じ、出遅れた彼は一歩を踏み出すことができずにいた。

 視界は閉ざされ、頼りの鼻も煙幕によって効力が減少する。

 結果、秒には満たぬが彼の隙を生み出すことに成功していた。


 であれば、チェルシーはどう打って出るのか。死角を生み出した彼女の次なる一手は。


「……」


 ウォルフ・エイブラムの眉間に皺が刻まれる。

 煙の向こう、小さな人影は依然佇み、過剰に大気を鳴動させていた。

 大技が来る。――否、違う。ウォルフは五感を総動員した刹那に逃れ跳んでいた。寸毫遅れてその場に奔っていたのは、背後より彼を分断せしめんとした鎌鼬かまいたち


「……っ」


 敵手を逃し、我知らずチェルシーは歯噛みする。

 裏をかいても、ド外れた反射で無効化されてしまう現実は、ウォルフという男の異常さをまざまざと見せつけられているようだ。


「惜しい! 残念でしたーチェルシーちゃーん!」


 呵々と笑い、跳び移った商店の屋根でふんぞるウォルフ。

 それを見やったチェルシーは一度小さく息をつき、そして笑った。


「はん?」


 その態度を捉えて怪訝な声を上げたウォルフに、「それ」とチェルシーが指をさせば、


「――オッ!?」


 バギン! と。ウォルフのゲーム機が真っ二つにかち割られる。


「おまっ! 二万もしたんだぞコレ!」

「どーせロゼに貰ったお小遣いでしょうに。……とはいえ、今ので斃しきれないとなると、もうなりふり構っちゃいられませんね」

「……ッ」


 その言葉に、ウォルフの鼻がぴくりと反応する。

 ガラクタと化したゲームの残骸を放り捨て、彼は苦笑しつつ問い掛けた。


「……本当にガチだなお前」

「でなければあなたに喧嘩なんて吹っかけませんよ」

「そんなにあのヤローを死なせたくねえか」

「それだけじゃない、わたしはロゼにも色々問わなきゃいけないんです」


 返答を聞き届け、ウォルフは腰に手を当て小さく小さく息をついた。

 そこには戸惑いや、憐憫の色まで含まれていたのだが、チェルシー・クレメンティーナはもうウォルフを見据えていなかった。


 それに対し、虚しさを覚える暇も余裕も金髪の少年には有りはしない。

 何を置いてもこの状況は彼への危険度をグンと跳ね上げることに他ならないから。


 なぜなら――


「あなたはずっと余裕を見せていればいい」


 そしてそのまま死んでしまえと、チェルシーが目を剥いた。

 天を仰ぎ、諸手を上げて、チェルシー・クレメンティーナは神格と共鳴するために己が魂を神聖の領域まで持っていく。次いで訪れるは空間の収縮だ。ズクンズクンと彼女を中心に迸発されるは神の息吹。


 ――生命樹セフィロトの天使群。


 第十マルクトから第一ケテルそれぞれのセフィラに見初められた人間が、光輪を授かって新生した十体の天使たち。

 彼らには才器さいきがあった。叡智も力も、天を摩するに相応しい。

 だからこそ選ばれた。当人たちの望みには関わらず。


 ある者は世界を踏み付け蹂躙したいと、嬉々としてその力を受け入れた。

 ある者は峻厳、正義を信条としていたものの、破壊の波に呑み込まれた。


 セフィラの天命は強制で、ゆえにそれを福音とするか呪いとするかは本人次第。

 では、チェルシー・クレメンティーナはどうなのだろうか。第六ティファレトのセフィラを宿す彼女は如何にして力を内包させたのか。

 ぽつり、彼女は漏らした。


「寒いのは……イヤ」


 雨は嫌い。冷たい飛沫が大嫌い。寒い、暗い、怖い。独りは嫌だ。ねえわたしから体温と光までも奪わないでよお願いだから。

 家族を失ったチェルシーは野良犬以下の塵同然で、スラムの染みの一つと化すのが当たり前な運命であった。


 けれど、彼女には天を見通す力があった。

 寒くて辛くて寂しくて、だからこそ僅かでも陽光を求めて足掻き貫いた。

 こんな力なんか要らないと、しかし相反して膨れ上がる生存本能には逆らえない。

 それはとてもみっともなくて、けれど這いながら伸ばした小さな手は確実に光や温もりを掻き集めていったのだ。


 雨の中、お日さまを求めた。生きたい生きたいと右手を前へ前へ――

 掴んだのは、希望の手。それを可能としたのは、いつしか天命と天運をも手繰り寄せていたから。


 ゆえに、チェルシーは陽を宿す。

 黒い雨雲。轟く雷鳴。脅威の自然はけれどけれど――


「……太陽の眼下にあるだけだから」


 そう、分厚い雲に覆われようが、直上では常にお天道様が笑っている。

 止まない雨など存在し得ず、晴れない雲も決して無い。


 だからわたしは見守るのだ。この悲しい世界に温もりと救いをもたらすために。

 わたしは晴れが好き。ぽかぽか陽気が何よりも大好きだ。ならばあの太陽こそがわたしの崇拝すべき神だろう。第六ティファレトこそがわたしの居場所。帰属できて誇りに思うよ。


 ゆえ、彼女は血気盛んな月の使徒を許せない。

 争いや痛みを増長させる月光が、己が陽光の反射であることが嘆かわしくて痛ましいから。

 禍根の種を刈り取るべく、チェルシー・クレメンティーナは自らの真価を曝け出す。


 ――繋錠光輪けいじょうこうりん


 天使化。生命樹の天使が秘める最大の奥の手が発動される。

 輝きが頭上に収斂しゅうれんし、瞬く間に連環されて繋がった。

 憫笑と苦笑を僅かに浮かばせて――次いで聖なる名を呼号した。

 小さな少女が天翔ける陽女神へと転生するため、己が魂に碑文を刻み付けるのだ。


『――万象照らすは日輪の華サルヴェイション・サンライト――』

「……ッ!」


 刹那、夕陽が瞬き明滅した。光は神風を引き連れて辺り一帯を撫でてゆく。チェルシー・クレメンティーナの総身からは神の如き聖なる気が迸る。

 雲が流れ、突風荒び、気温が上がってまた下がり、遠くの方では雷鳴が轟いていた。


 今の彼女は天女である。

 天候すら意のままにあやつるチェルシーは、風使いなどというチンケな存在では全くない。まさに天空に座をなす聖なる女神であると言える。

 それは瞠目し、半身の体制で警戒しているウォルフの様子からも明らかであろう。


「……とうとうお披露目か。綺麗だが、ちっとばかしおっかねえぜ」

「それはそうでしょう。あなたとは相容れない力なもので」


 返答し、光輪を閃かせたチェルシーが顎をクッと上げれば、


「――ッ!?」


 ウォルフの肩口から鮮血が噴き上がる。

 咄嗟に飛び退く彼を捉えたまま、文字通りチェルシーが空を飛ぶ。


「逃がさない」


 風を纏って舞空して、陽女神は邪の獣を誅せんと疾走していた。

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