天上天下の狼男
大和の実家の陽明神社は鳥居が二つある。
まずは石段を上った境内の入り口にある大きめな鳥居。
そして小さい祠のような、いわゆる本殿とは別に神を祀る、摂社と呼ばれる場所に小さな鳥居がもう一つ。
鳥居とは、人と神の領域を分ける境界線だ。よって鳥居をくぐれば、人はそこの神様が治める世界に足を踏み入れたということになる。
そこに邪気は存在できず、当然瘴気も見当たらない。
要するに、神に対して信仰心がある人間には恩寵が与えられるが、害意のある者に対しては外敵とみなして排斥するのだ。場合によっては天罰すら下されるだろう。
「ったく、なんでまた急に参拝なんだよ?」
「いやまあ、なんとなく? あたしもここの神職者としてお参りはかかせないっつーかさ」
「バイト巫女だけどな」
「っさいわね!? あんただって似たようなもんじゃん!」
「いやいや俺はホラ、ここの正式跡継ぎとして神事とか色々励んでだな……」
「……クリスマスに神社中に電飾付けまくったのが神事ぃ? ふーん、へーえ?」
「宗教の壁を取っ払おうと思って。まあとっくにやってるとこあるんだけどな」
「……あたしにサンタの格好で神楽舞をさせようとしたのは?」
「見た目も中身も完璧なアホだから、堅苦しさが無くなるかと――痛っ!?」
人に押しつけといてこの言いぐさである。美琴のチョップが炸裂するのも無理はない。
「中身もってどーいうことよ! だいたい真冬だっつーのになんでミニスカなのよ!」
「いや女のサンタっつったらそれだろ? なんだお前、脚の毛穴が気にな――いたたたっ!? ほっぺが痛い! ほっぺが痛いっす!」
「そんなもん存在せんっつーの、このぉ!」
ぎちぎちぎち。無礼な男の頬を引っ張る美琴の激しい抗議。
びたーん! と、解放され元に戻ったほっぺたが派手な音を発した。
両頬を押さえた大和が「とんでもねえ女だな……」と恨み節を言う。
「あんたがいちいち挑発するからでしょうが……」
「ま、そんだけ騒げりゃ上等だな。足はもう良いんだろ?」
「うん、痛くない。もう傷も塞がってきてるし。ロゼネリアさんすごいよ」
「はーん、しかしまあ、どういう力を使ってんだあの人は」
しゃがみ込み、大和は美琴のひざの辺りをじろじろと観察する。
そのまま彼女のふくらはぎを掴んで、見る角度を変えたり足をプラプラさせたり。
「札や護符の道具も無しにこれだもんな。あれ、なんかほんのり光ってねえか?」
「…………あのぉ」
じろじろじろじろ。
「……いや気のせいか。まあなんつーか、ホント魔法じみてたよな。俺にゃ到底真似できねえ」
べたべたべたべた。
「……や、大和さぁん?」
「あん?」
「そ、そろそろ手を離して欲しいかなーって……、思うんですハイ……」
脚を好き放題にされた美琴が「うぅ~」と顔を紅潮させて力なく抗議した。
「わ、悪い!」
さすがに無遠慮だったと謝罪しつつ離れる大和。
対して、口元をへの字にし、真っ赤な顔で脱力した美琴がへなへなと座り込む。
「……」
「……」
気まずい沈黙。全く目を合わせられない。
顔を上げようとする美琴だがすぐに、へなぁ……と撃沈。
(くっそー、好き放題触ってくれちゃってー大和めー……!)
未だ脚には大和の手の温もりが残っている。
撫でられ、さすられ、揉みこまれ、おまけに至近距離で凝視までされてしまった。
恥ずかしすぎる……。
くそう、くそう。何とかして一泡吹かせにゃ気が済まん。
(はっ! そうだわ!)
だったらあたしも大和の足を触ってやりゃ良いんじゃないかしら!
『ほら大和! さっさとズボン脱ぎなさいよ!』
『な、なんでだよ!?』
『あたしの脚を触っておいて、揉み逃げは許せないのよ!』
『分かったよ、仕方ねえな』
『よしよし、それでいいのよ。どれどれ…………け、結構筋肉あるじゃない……』
『暇な時は鍛えてるからな。フン!』
『きゃ!? さ、さらに固くなったわ!?』
『フンフンフン!』
『きゃー! 今夜はスキヤキ~!!』
『豆腐とネギも忘れさせねえぜ!』
『やーん!』
(アホかああぁぁぁあああッ!!)
ぶんぶんぶん! と、美琴は髪を振り乱して脳内妄想を掻き消していく。
(そもそもなんでズボンを降ろさせるのよ!? 裾を捲らせればいいだけじゃない! いやそもそもとして大和の身体なんて触らなくて良いけど! ……い、良いけどっ! これホント!)
ぜーはーぜーはー、と自分の暴走っぷりに息切れすら起こしてしまった美琴。
なんだか自分はものすごく馬鹿なんじゃないかと、口許をヒクヒクさせながら自己嫌悪する。
「……大丈夫かお前?」
こっちの気も知らないで、当の大和はそんなことを言ってるし。
だいたいなんでちょっと引いてんのよ! あんたのせいだっつーのに!
むっかぁ~、とした美琴は「んっもう!」と勢いよく立ち上がった。
「バカやってないでお参りよ! お参りお参り!」
そのままごまかすようにして、ずんずんと歩いていった。
改めて、神社の本殿という場所には、御霊代という、祀っている神様が降り立つための御神体が丁重に置かれている。天照で有名な、伊勢神宮の八咫の鏡がその代表格だろう。
「さ、天照さまにご挨拶するわよ」
「あいよ」
そして実は、ここ陽明神社でも太陽神として有名な天照を祀っているのだ。
もっとも、本殿は神様がいらっしゃる神聖な場所である。一般人は当然として、実は神主でさえ立ち入ることが許されていないのである。
ではどうやって神様にお目見えするのかというと、本殿に隣接する拝殿という所で参拝する。拝殿とは賽銭を入れてお参りする他に、祈祷やお祓い、お宮参りなど、人が入って儀式を行う施設でもあるのだ。
拝殿に辿り着いた二人は表情を改め、まずは神に向かっておじぎをする。
それから魔を払うために鈴を鳴らし、懐から賽銭のための小銭を取り出した。そっと投げ入れて呼気を一つ。賽銭とは煩悩が無いことの証し。心の精錬さを神に示すのだ。
そして、二回神様に向かっておじぎ。二回手を叩いてからもう一度おじぎをする。いわゆる二拝二拍手一拝である。
「いよっし……、おっけ!」
礼を終え、神崎美琴は笑顔を作って顔を上げた。ふわっと、彼女の綺麗な髪が跳ねる。
夕陽が作る黄昏色が、腰まで届く美琴の茶髪を赤く染め上げ、それはまるで紅葉した秋の葉のように穏やかに燃えていた。
美琴はお日様のようだ、とよく言われている。元気があって、世話好きで、ちょいとお茶目で、周りの人間を笑顔にさせるお日様のような存在と。そして昼間は明るい茶髪が日光のようであり、また今のように、赤く塗られたその髪は夕陽を連想させている。
彼女自身も太陽が好きだとよく言っている。八城家でない美琴が、天照を祀る陽明神社の巫女として楽しそうに働き、参拝するのも頷ける。
「お前さ、いつも付けてるよな。それとそれ」
「んー? これ?」
大和が目で順番に指したのは、美琴が常に髪に留めている紅いリボンと、花の形をした髪飾りだ。
彼の言うとおり、美琴はそれらを肌身離さず身に付けている。
問われた美琴は腰に手を回し、自身の髪の先端を掴み上げた。
「だってこっちのリボンは小さいときにお母さんが買ってくれたし」
「物持ち良すぎだろ……。じゃあそっちの髪飾りは?」
「えっへへー、おばさんに貰った大事なものなのだー」
「おふくろ……か」
大和の母親である八城祥子。
霊力に恵まれていた彼女は巫女として陽明神社で働いていた。その過程で、当時若くありながらも優秀な神主であった信幸とめでたく結ばれる。
祥子が大和に対して示していた温かな愛情は、傍からみた美琴にも分かるほど明らかであった。幼馴染である美琴も彼女によく懐き、祥子も美琴を娘のように可愛がっていた。
『あなたもこれが見えるの? うちの大和と同じね』
『ミコちゃんの髪、綺麗ね。お日さまの色みたい』
『ふふ、ミコちゃんがうちに来てくれれば、私も安心して巫女の後を任せられるのに』
『ゴホッ……。ごめん……なさい、大和を……お願いね……。これ、どうか貰って』
「…………」
美琴はそっと髪飾りに手を添えた。
蘇るのは楽しい思い出、悲しい別れ。
瘴気の毒に身体を蝕まれた祥子の今際の時、お守り代わりにと渡された髪飾り。
どうかお願い、大和を見守っていてあげてと、ぎゅっと手を握られ託された。
幼き神崎美琴はぽろぽろと涙を零し、激しく首を縦に振った。
しっかりしなきゃ。あたしがやまとをまもらなきゃ。
美琴は五月、大和は六月。たった一ヶ月の差ではあるが、彼女のお姉さん然とした世話焼き気質は実はこれが起因となっており、逆に美琴は世話を焼かれることを好まない。
それはある種の固定観念みたいなものかもしれない。もっとも美琴自身、動いていた方が落ち着くという性格なので、それを煩わしいと思ったことなど一度も無いが。
だから――神崎美琴は前を見据えて歩きゆく。大事な人と手を取り合って前進するために。
ぐるん、と。美琴は勢いよく振り返り、毛先で結ったイルカの尾のような髪を躍らせた。
その動作に対し、呆けたような顔をして見つめてくる大和に対し、微笑むように言った。
「ごはん、作ってくよ。おふくろの味の定番、肉じゃがを食わせてやるー」
「……あ、でも牛肉と豆腐があるからすき焼きでも――」
「ぎゃーす!!」
ばしこーん! と、妄想を思い出してしまった美琴が大和のケツを引っぱたいた。「なんで!?」という大和の声が響き渡っていた。
某国。
夜が明けて白んだ空が照らす許、戦場だったそこは死骸の海で満たされていた。
有機無機、一切合切の区別無し。
人の肉片に鉄粉や油が上塗られ、爆ぜ散らばった鉄クズには赤黒く変色した血液がべっとりと付着していた。
兵士、民間人、機関銃に戦車、軍用ヘリ――
それら全てが等しくバラされ爬掻され、哀れな肉叢となって堆肥と姿を変えるのだ。
「わざわざこの俺に出向け、だと?」
白銀の魔狼が唸りを上げる。
号砲轟く軍場を、凪へと変えた羅刹の狼男それ自身が。
転がっている死体に腰かけ、逆立たせた金色のウルフヘアーと蒼の両眼をギラつかせ、今しがた伝令を出してきた二人組を睥睨している。
「ええそうですの。ロゼネリア殿はあなたの力を所望していますの。ね、タヴ」
奇妙な口調でそう言ったのは、こめかみにQの文字を刻み付けた黒衣の少女。
「はい、コフ。九番目のお力をぜひ貸して欲しいと」
コフという少女に答えるのは、わざわざ九番という数字を強調して目を細める、同じくこめかみにThの文字を刻んだタヴと呼ばれた黒衣の少年。
くすくすと、くすくすと、せせら笑いを浮かべる少年少女。
嘲るように、からかうように、眼前の男を見下しているのだ。
一方の男はしかし、愉快気にくつくつと喉を鳴らすのみだった。
「ハッ! まあ確かにティファレトのこととなれば、俺も少なからず関係のある話になってきやがるからな」
「その通りですの、狼殿」
「ロゼネリア殿は自ら月を掴み取ったあなたを買っておいでです」
「首輪を巻いた番犬として、彼女の役に立ってほしいですの」
「……番犬ねえ、そいつは傑作だよ。ハハハハッ! クハハハッハハハハァッ!」
「ふふふふ……」
「あはははっ」
哄笑を飛ばす男に、黒衣の二人も続くように笑いに混ざる。
口を開けて気分良く、散らばる死体に唾棄でもするよう不遜に満ちて。
そして――タヴという少年の鼻から上が消失していた。
「――えるぅ?」
珍妙な遺言の直後、顔の断面から間欠泉の如く鮮血を噴き出す少年だったもの。
そのまま仰向けにどうと斃れ、死後の痙攣を起こしつつ大地を赤に血塗っていた。
「――な!?」
同胞の鮮血を顔に浴び、驚愕の眼差しを男に向ける黒衣の少女。
「お、お前一体どういうつもりですの!? こ、こんな真似をして天華さま――」
「うるせえ」
「――がぼォッ!?」
男の動作は一瞬だった。
喚く少女の口許を掴んで黙らせ、そのまま右手を上げて吊り上げる。
「ンー! ンーッ!」
宙吊りにされた彼女は足をバタつかせながら懸命にもがいた。
掴んでくる右腕に、空いた両腕を決死の思いで叩き付けるがビクともしない。
「舐め腐った態度取りやがってカスが。てめえこの俺を誰だと思ってやがんだよ、ええ? セフィラも持たねえ半端なクソ天使の分際でよォ」
「ぎ――ぃ――ァ!」
ギチギチと、男の右手に力が込められ、卵のように潰れる寸前にまで締め上げる。
生死の狭間を彷徨う少女は、涎と共に血走った眼から涙をだだ漏らす。
つまらなそうにそれを眺め、思い出したように目を眇める金髪の男。
「そういやてめえ、確か大アルカナは――」
――月、だったよなぁ?
「――――ァ……」
その問い掛けは死刑宣告そのものだった。
奈落、絶望、そんなものではまだ足りない。
これから起きる全身への誅夷を想像した彼女は、意識を混濁させつつ闇へと堕ちた――
「ロゼネリアのボケが、ままごと遊びに俺を呼び付けやがって」
手にした肉片を放り捨て、歯を軋らせ男がぼやく。
傲慢な女が。一体誰を顎で使うと思っているのだと。
「――カッ、まあいいさ。たまにはガキのケツ拭く気概ってのを見せてやるのも悪かねえか」
言って、男は口の端を上げて犬歯を見せる。
なあチェルシーよ、ティファレトよ。月と対極にある太陽だからこそ、半端者では困るのだ。
燃やせ、燃やせ、爆発させろ。その反射で月光を恒星と化すために。
「もしも駄々なんぞ捏ねやがったらてめえ、貪り喰って吐き捨ててやらあ」
狼男の鬼気が燃える。
今はもう隠れてしまった月への恋慕と共に、魂をひたすらに灼熱させて。
月を愛する第九が、ついに八百万の国へと赴いた。