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振り払う雨

 いつしか雨が降っていた。

 黒雲覆う天上から、風混じりに叩き落とされる激しい飛雨ひうが生者の体温を奪ってゆく。


 チェルシー・クレメンティーナはただ無言で歩を進める。顔に張り付いたプラチナブロンドは少女の表情をひた隠し、その毛先からは止むことのない雫がポタポタと垂れ落ちる。

 大きな水溜まりを踏み付け、跳ね返った飛沫が彼女の脚を尚のこと濡らしていた。


「…………」


 決意したはずだった。

 あの日、塵同然だった自分を救ってくれたロゼネリアに人生を掛けて報いるのだと。

 世界の安定化。それはチェルシー自身が望む道でもあったのだ。ならばそこに疑う余地は存在しえず、あとはひたすら邁進するだけと。


 樹の反転、及び付随する世界の反転。それにより当然初期においては、反動ゆえの争いや犠牲は発生する。しかしそれも割り切っている。大のための小であるし、何よりも世の中をこのままにしておけば、自分のような不幸あたりまえは止め処なく積み上がるのだ。


 当たり前だがそうして生まれた信念は柔くなく、脆くもない。

 そう、そのはずであったのに――


 ジャリ、と。靴底で濡れた小石を引っかけつつチェルシーは目的の場所へと辿り着いた。

 死の臭い。鉄錆の臭い。慟哭しながらも人の記憶から消し去られた空虚な姿がそこにある。


 墟街地きょがいちに降り注ぐ雨粒は錆や泥と混合し、赤茶けた涙と化して幾つもの小川を形成する。パチャパチャと、なおもそれに加重される水により大小様々な水泡みなわが生まれ、一際目を引く大泡が発生し、育ち、弾け飛んだ――瞬間。


「なーにやってんの、お前?」


 ぶっきらぼうな声が小さな少女に投げ掛けられた。

 死の街の一角で、軒先に座り込んで雨を避けているド金髪の少年。

 声を掛けつつ、ウォルフ・エイブラムはその視線を手元のポータブルゲームに落としている。

 激しい雨音の中、場違いで呑気なゲーム音はやけに耳立っていた。


「んーなビッチョビチョになっちゃってよ、風邪引いちゃうぜ。……だっ!? なんでこいつ座ると無敵になんだよブッ壊れ病人が!?」

「……」


 ながら(・・・)でそう語るウォルフではあるが、チェルシーは一寸たりとも気を抜かず、引き絞った双眸で彼を視界から消さぬよう捉えていた。


「……、……」


 溜まった固唾が、口の端から侵入した雨と混じって口内の温度を冷却する。

 コクンとそれを嚥下するも、くちびると手足の震えは増すばかり。


 まつ毛と目端に注がれた雨粒はチェルシーの視界を滲ませるため、瞬きをしてそれを絞り出す。一瞬だけクリアになった景色に映るのは、依然として変わらぬ姿勢で携帯ゲームを続けるウォルフの姿。

「……」


 それでも動揺を表には出さぬよう、チェルシーは努めて冷静に問い掛けた。


「そのほっぺた、どうしたんですか?」

「ヒス起こしたオカマに殴られちったんだよ」

「どーせあなたがちょっかい出したんでしょうに。バンソーコーでも貼ったらどうです?」

「剥がしたとき痛えからヤだ」

「そーですか……」


 中身の無い会話を交わしつつチェルシーは思索する。

 さて、どう切り込んだものかと――


「なあチェルシーよ」

「……え?」

「お前さん、何をそんなに怯えてやがる」

「――」


 瞬間、チェルシーの心臓が早鐘を打つ。

 加速する鼓動を耳にしながら内心で舌を巻く。

 ああこれだ。甘かった、甘く見ていた。ウォルフ・エイブラムという男の獣染みた集中力を、そして勘の鋭さを。


 対峙した状況で心理戦や牽制の類を行えるほどこの男は容易くない。

 それが証拠に、ウォルフの意識は槍衾やりぶすまが如くチェルシーに向けられている。それをはっきりと自覚するからこそ、チェルシーは全身を底冷えさせた。

 彼女のそうした反応をド外れた嗅覚で感じ取ったウォルフがつまらなそうに嘆息した。


「あんま白ける真似しなさんなよ。せっかくの乱痴気騒ぎなんだ、盛り上がろうや。そうでねえと、俺ってば殴られ損じゃんよ」

「――やっぱり、あなたはマッカムをそそのかしたんですね」

「人聞き悪いなあ、大親友(・・・)を失ったぼっちなオカマちゃんを仲間に入れてやっただけじゃねえか」

「……ッ」


 相も変わらず、目線をゲームに落としたままそう語るウォルフに、チェルシーが我知らず奥歯を噛み締めた。


「……あなたは、危険だ」

「はーん?」

「そしてわたしは……あなたが嫌いだ」

「オイオイつれねえなあ、俺はお前のこと気に入ってるってのによ」

「わたしじゃなくて太陽を、でしょう?」


 嫌悪を隠さず言い放つ。

 受け入れられないのだ、この男を。

 月のみならず太陽にも執着する思想も、自分本位で刹那的、享楽的な行動も。


 そして何より――今のロゼネリアの考えに同調して追従しているその姿が。


「セフィラと樹、そして世界の反転。わたしは世の中の安寧に繋がると信じて動いてきました。でも、ロゼの瞳にはそれが映っているようには思えない。……思えば、この計画のためにわざわざ狂犬あなたの封印を解いたことが不可解でしたね」

「心外だねぇ、シェイクのようなノータリンと同類にされるなんざ。俺ぁ別に快楽殺人者ってわけじゃねえんだぜ」

「タチの悪さでは似たようなものでしょう。とにかく、わたしはロゼを問い質します」


 対話し、見極めなければいけない。その結果、道を違えることになろうとも。

 何よりも――


「わたしは、八城さんを殺したくない」

「……ハッ」


 豪雨の中、はっきりとそう宣言したチェルシーに、ウォルフは苦笑を漏らしつつその視線を初めて彼女へと向けていた。


「やっぱりそれが原因か。本格的に情が移っちまったのかい、イジらしいねえ」

「何とでも言ってください」

「そんなに殺したくねえってんなら大人しくしてなよ。代わりに俺が豚そっくりに変えてから持ってきてやんよ。そうすりゃお前も――」

「させませんよ」

「あん?」


 腰を上げたウォルフを、チェルシーの一言が引き留めた。

 彼女の双眸は引き絞られ、まっすぐにウォルフに向けられている。

 頬を伝っていた雫の痕も、今はもう存在しない。


 震えは、もう無い。


 世界を反転させる。それに対するチェルシーの信念は柔くなく、脆くもなかった。

 けれど――


『チェルちゃんチェルちゃん!』

『おーいチェルシー』


 彼らと過ごしたあの日常は本物で、掛け替えのないものであって。

 心から笑ったのは……いつ以来だったろう。

 ゆえに、壊させはしない。


「――」


 瞬間、瞠目するウォルフをよそに空の雨雲が欠片残さず吹き飛ばされていた。

 再び現れた陽光をその身に浴びながら、チェルシーは宣告する。


「わたしの居場所を、友人を壊すというのなら……ウォルフ、あなたを斃します」

「……おいおい、マジだなお前?」


 迸る神気を感じ、ウォルフはそう漏らした。

 雲一つ無い黄昏時。それはつまり、この後訪れる月の時間を約束させることに他ならない。

 ウォルフ・エイブラムが真価を発揮するイェソド(つき)の領域を。


 だけれど、チェルシーは頓着しない、怖れない。それがどうしたと後退しない。

 これは彼女の決意表明なのだ。凡そ普段のチェルシーらしからぬ、芯の入った不退転の証し。

 だからこそ、ウォルフは鼻に皺を寄せて頭を掻いた。


「まさかそこまで入れ込んでるとは予想外だったぜ。さてどうしたもんか」


 先ほどまでの雨に代わり、注がれる日光と吹き荒ぶ豪風を受け止めつつ彼はチェルシーを見据えた。


「……ま、ケガさせねえようにするかね」


 言いながら、彼は再びゲームの方へと目線を落としていた。








 一方、大和の実家である陽明ようめい神社には招かれざる客が境内へと足を踏み入れていた。


「さて、万策尽きたでしょうか?」

「く……うぅ……!」


 ブロンド髪を靡かせながら、優雅ともいえる所作でロゼネリア・ヴィルジェーンは頭上を見上げて言い放った。

 そこでは、本殿の直上に浮かされ、魔力で拘束された神崎美琴が苦悶の声を上げていた。

 見やりつつ、しとりと嬌笑を零すロゼネリアが称賛の声を掛ける。


「巫女の名は伊達ではありませんね。神木、神籬ひもろぎ紙垂しでさかきに破魔札と……。あらゆる神具を総動員して私を仕留めようとした気概はたいへん見事なものでした。思った以上に肝が据わっていらっしゃいますね」

「嫌みにしか……聞こえませんね……!」

「いえ、真っ当な評価です。込められた力があなたの霊力ではなく、太陽神の力であれば、この私とて命は無かったでしょう」


 その言葉はポーズでも冗談でもなく、純然たる事実である。なぜなら、天照の神力はロゼネリアすら絶するレベルにあるものだからだ。

 だが、神崎美琴は太陽神を内在させつつも、その力は振るえない。大和とは違い、多少の霊力を持つだけの人間だ。自他ともにそれは明らかゆえに、


(来い……! さあ来い……っ!)


 空中で呪縛され、表向き苦痛の表情を出しながらも、美琴は内心で反撃の芽を伸ばそうと画策していた。

 自分は弱い。上等である。だからこそ付け入る隙があるのだと。

 鷹揚に構えた猛禽は羽虫の動向などに見向きもしないのだから。


 けれど、美琴の思惑に反してロゼネリアは一瞬で彼女の眼前まで瞬身し、その頬を優しく撫でた。


「――っ!?」

「神崎さん、私はね、自分のことを強者などと思ったことはありません。弱くて、情けなくて、臆病なだけの女なのです。空を羨むだけの虚構の女王。それゆえに私は翼が欲しいと希うのですよ」


 言って、ロゼネリアは美琴の胸元から八咫烏やたがらすの羽根を奪い取っていた。

 そう、太陽神の力が内包された神聖な黒い羽根、神崎美琴の切り札を。


「……ッ」

「そう驚いた顔をなさらないで下さい。私が臆病なだけですゆえ、こういったものに敏感なのですよ」


 ふわりと微笑み、金髪を翻してロゼネリアは地面へと降り立った――そのとき。

 轟っ! と空が猛ると同時、今しがたまで覆っていた黒雲が全て霧散されていた。


「こ、これは……!?」


 動揺するも、しかし美琴は思い至った。これを行った少女の存在を。

 そして、それは――


「クッ……フフ……」

「……!?」


 ロゼネリアも同じであった。


「くふふふっ、そうですか、やはりそうなりますか。ああ、可愛くてか弱いチェルシー。母はあなたが愛おしくてたまりません」

「な……なん、て……」


 邪悪な笑みなのだろうか。

 目を剥き、全身を粟立たせた美琴が心底戦慄する。


「さあ、舞台は整ってゆきますね。夜明けと共に、樹と世界の黎明を以てして、そう、私は……! フフッ! クフフヒヒヒヒヒヒヒ――――!」

(チェルちゃん……!)


 この人は……、あなたの母親なんかでは決して――

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