涙
黄昏時に移ろうかという昼間と夕方の境界線。
「くそっ! 全然見つからねえ!」
八城大和は息を急き切らせつつ、朝からひたすらに駆けていた。
求めるのは昨夜別れた少女、チェルシー・クレメンティーナ。
街中を駆け回り、鷹のように視線を巡らせてはまた奔り、奔り、奔り抜けた。
息を整えるために一度止まり、辺りを見渡せば車の通りが少ない国道までやってきていた。見上げた先には高速道路まで見えるが、さすがにそんなところにはいないだろう。
呼吸を落ち着けると同時に頭が冷え、となれば余計なことを考えてしまう。
……顔を合わせたところで、一体何を言う?
「……ッ」
そんな問い掛けと同時に頭に浮かぶのは、美琴と共にチェルシーと過ごした数日間のこと。
馬鹿にされ、笑われ、コケにされて……たまに懐かれて。とてもにぎやかだった。良いようにやられているのに心の底では腹が立っていないのは、チェルシーという少女の仁徳ゆえだろう。そして最後の日には、生い立ちを語ってくれて――悲しい顔をさせてしまった。
「ちい……!」
もやもやする。我知らず苛立ってしまう。
複雑に絡み合う事情が自分たちを縛り付けているのは明白なのに、どう抜け出せば良いのかが見えてこない。
皆が納得できる結末を……しかし果たしてそんなものが存在するのだろうか。
チェルシーの望み通りに事が進めば、大和も恐らく美琴も生きてはいられまい。
ならばと対抗し、天使たちを殲滅できたとしても、ロゼネリアはチェルシーの育ての親である。それはチェルシーに、二度目となる家族との死別を強制させることに他ならない。
では言われた通り逃げれば良いのかといえば、それはただの時間稼ぎにしかならず、根本的な解決とは成り得ない。
「美琴……!」
今朝方、腐りかけていた自分の尻を叩いて叱咤激励してきた少女の顔を思い浮かべる。
ウジウジすんなシャキッとしろ。あたしにやってくれたように猪突猛進、助けたいから助けるんだで良いじゃない。小難しい理由なんて後でどうとでもなるわよ、と。
だってあたしら、友達じゃん。
「ハッ! ――だよな!」
自嘲めいた笑みは一瞬。寸暇の後に気を引き締めた大和が顔を上げた――そのとき、一筋の風が大和の頬を撫で付けていた。
『逃げてくださいと……忠告したはずなんですが。とすれば、そういうこと、と判断しても良いんですね?』
「……」
聞き覚えのある、けれど初めて耳にする非情と怜悧さを含んだ声音が届いていた。
「チェルシー……!」
「こんにちは、八城さん」
気軽とも言える挨拶だけで背筋にクる。昨夜までのものとは全く異なる、瞠目を禁じ得ない堕天の面貌がそこにある。
歩道脇の高い塀の上、チェルシー・クレメンティーナが感情の少ない冷徹な目をこちらに向けていた。
そして、ストンと。苦も無く飛び降りた彼女が再び開口する。
「何をなさっているんですか?」
「……お前を連れ戻しにきた」
「わたしを? どうして?」
その声色に、いつもの軽い調子は欠片たりとも見当たらない。心底分からないというように、冷えた視線のまま首をかしげている。
「それは――」
「ねえ、八城さん」
言いかけた大和に対し、相変わらず底冷えのする声音でチェルシーが割り込んだ。
その目元は髪の毛で隠れ、先ほど以上に色が読めない。
「太陽をわたしの手で照臨させるには、あなたの神社で伊邪那岐の魂を注ぎ込む必要があるんです。――だから、ねえ……」
「……!」
瞬間、大気が震え、ざわめき出す。
木々に止まる鳥たちが一斉に逃げ出していた。
顔を上げるチェルシー。その瞳孔は大きく剥かれていて遂に――
「こんなところにいては駄目じゃないですか」
大和を射殺す様相で、チェルシーが暗黒の感情を氾濫させていた。
刹那、爆風。
「――ぐっ!」
大和のいた地点を真空の刃が切り刻む。
寸前で飛び退くが、しかし、
「ここで大人しくさせてから、ゆっくりと神社まで運びましょうか」
「ッ!?」
グッとチェルシーが右手を握れば、大和を飲み込むように颶風が再び疾走する。右から、上から、斜めに下から左から――
風、風、それは実体の無い疾風の刃。
縦横無尽に発生しては霧散して、伸びて曲がって螺旋しては凝縮し、そしてまた迸る。
第六のチェルシー・クレメンティーナ。
太陽のセフィラを有する少女の得手とは天候、気候を操る術に他ならない。
その気になれば地球上を雲一つない晴れの世界に変えてしまうことすら可能である。
そんな彼女にしてみれば、風の操作など片手間でも事足りる。
つまりは――
「ぐ――ァ」
恐ろしいのはそういうこと。片手間めいたお遊戯で、チェルシーが八城大和を追い詰めている事実。
天使たる所以の光輪すら垣間見せず、太陽の少女は己が神威を垂れ流す。
これが第六の輝きである。未だ完全にセフィラを掌握してないとはいえ、生命樹の心臓を担うチェルシーの神力は、他のセフィラから見ても決して不足しているわけではない。
才能と練度で言えば、第十の二歩も三歩も先を行くであろう。
飛沫く鮮血、踊る身体。まるで突風に煽られる木の葉が如く、大和はその身に赤を刻んでゆく。だがしかし、
「……」
チェルシーの表情には緩みが無い。いや、時間が経つにつれ険が増していくのが見て取れた。
その理由とは一体何か、答えるように彼女は叫ぶ。
「どうしたんですか、なぜ力を出さないんですか八城さん! 知ってるんですよ、シェイクを斃した強力な剣があるってことは!」
苛立ち混じりにそう叫び、大仰に腕を振って新たに烈風を生み飛ばす。
対して、その裂斬をすんでのところで回避した大和が道路に立って血を拭う。
背後で豆腐のように寸断されたブロック塀の瓦解音と粉塵を浴びながら、彼は不敵に笑ってみせた。
「力だぁ? なんでお前にそんなもん出さなきゃなんねーんだ」
「……はい?」
「言ったろ、俺はお前を連れ戻しにきたんだ」
「はあ……、どの口が言うのやら」
うんざりと、こめかみに手を当てるチェルシーが嘆息し――吠えた。
「あなた自分の立場分かってるんですか!」
灼熱の鎌鼬が爆発する。
感情と共に飛翔するそれが大和の皮一枚そばを通過した。
「連れ戻す? 連れ戻してどうするんですか! その先で手っ取り早くわたしに殺されてくれるんですか!」
「冗談だろ? つーか、お前にそんなことできんのかよ?」
「――ッ!」
歯を食い縛ったチェルシーが右手を掲げた。
刹那、ザシュッという音を引き連れて大和の頬が切り裂かれる。
浅くない傷から多量の血液を流しつつ、しかし大和は微動だにせず、目を剥いて呼気を荒げるチェルシーに言ってのけた。
「……そんなんなってまで、お前は何がしたいんだよ。ケラケラ笑ってしょーもない悪戯すんのがお前だろ。……辛そうな顔しやがって、似合ってねんだよチェルシー!」
「う、うるさい……!」
「ロゼネリアとのことは深くは知らねえが、お前はあの女とは違――」
「うるさいうるさい!! 何も知らないくせにッ!!」
悲痛な絶叫がばら撒かれる。
音の壁を超えたソニックブームの轟音が、青臭い説得を黙らせる。
「ロゼはわたしを救ってくれた! 笑顔を思い出させてくれた! 家族なんだ、母さんなんだ! そんなあの人の悪口を言うことは絶対に許さない!」
「人を何人も殺してんだぞ!」
「黙れェッ! 平和な島国で育ってきたくせに!」
「っ!?」
その言葉は、思いがけず大和の胸を貫いた。
二者の間にある絶対的な隔たりと溝とはそこである。
片や、日の本である程度の安寧を歩んできた者。
片や、劣悪な治安の波に呑み込まれた悲劇の少女。
もちろん、日本だとて陽が沈んだ夜の世界は犯罪の温床と化す。
しかしそれでも、殺人や放火といった重犯罪の母数は他国のそれより明らかに少ないのだ。余所見をすれば血や炎が舞い散る外国とは温度が違う。
紛争や戦争とも無縁の、言ってしまえばぬるま湯な国。大和のように家族を亡くした子供も少なくないが、日本では保障や救済制度が整っているのも事実である。
海を超えれば、チェルシーのように親を亡くした孤児などスラムに堕ちるのが常であり、カラスや野良犬の餌になるか、射撃の練習台になるか、人身売買の商品になるかなど、ロクな未来が存在しない。
「こんな世界は間違ってるんだ!」
例えば……。
「――日本だけが安全なこんな世界なんてぇ!!」
「……っ!」
例えば集団があったとして、明らかに正反対の思考を持つ者が少数でもいたらどうだろうか。特にそれが、多大な影響力を持つ場合。
利益優先の中で義理人情をと声高に。殺してなんぼの戦場でモラルの必要さを説く行為。
多くの場合、それらは上からも下からもやっかみを生むだけだ。人とは得てして弱いもので、集団においては足並み揃えて流れのままにという方が楽である。崇高な理念を掲げたところでハイその通りですと一体誰が首肯するのか。
逆に、悪党の組織にも鉄より固い掟や矜持というものが存在する。なまじ高潔な光があるからこそ、人は我知らず反発して鬼となるのだと。
チェルシーは以前言った。生命樹の違和がそのまま世界に直結すると。
だから第六も他のセフィラと同じく反転させて、邪悪樹のルールで固めた方が、樹もセフィラも世界も安定する。してしまう。
それこそが堕天の狙い。自らが身を置く樹がこのままでは危ういからこそ目指す道。言うなれば、世界はただのついでに過ぎない。
自分たちの巣穴だけを安全にする行為。
そして極限状態に陥ったチェルシーの憎しみ滲む日本への感情は、まさにやっかみに他ならず、なればこそそれらは非常に人間らしい。
滲んだ眼が訴える。歪んだ口元が吠え立てる。
ずるい、ずるい――ずるいずるいずるいずるいッ! なんで、なんでわたし達だけがこんな目に! なんでどうして答えてよ!?
ゆえに、そうして嘘偽り無く吐き出された感情は、八城大和の心を強く貫いたのだ。
先ほどまで見せていた不敵な表情も態度も、完全に四散して呆然としてしまっている。
命を懸けた戦闘で、それは間抜けと言うほか無いだろう。
いくら戦闘能力があったとしても、所詮彼は未熟で不出来の高校生。軍人や機械のように感情の波濤を無視することは出来ないのだ。
木偶のようにフラフラと、足元おぼつかなければ風に煽られ尻餅つくのも当然で。
「アアァァァアァアアアァァァアアアッッ!!」
完全に的と化した大和に、悪鬼の如く咆哮したチェルシーが突貫し――
「――――でき、……い」
「……え?」
ピタリと、急停止していた。
「――できない……よぉ……!」
か細い声が大和に届く。ぽたりぽたりと冷たい雫が頬を叩く。
いつの間にやら、風が止んでいた。
「チェル……シー……」
眼前で戦慄く少女を見据え、大和がその名を呼んでいた。
涙を、流していた。ぽたぽたと、ぽろぽろと、止め処なく瞳から悲哀の雨を零している。
その碧い目を、潤ませてしまったことは昨夜にあった。けれど、こうしてはっきりとチェルシーを泣かせてしまったのは初めてのことだった。
この光景に、大和はただ見つめることしかできない。
「最初は……こんなはずじゃなかった……」
激昂した感情を悲愴の色で染めていくチェルシーが訥々と語ってゆく。
それは計画の準備がために彼女が学校に転入し、初めて大和と美琴に顔を見せた日のこと。
「確かに、無駄に殺すつもりはないと思ってたけど……どうしようもなければそれもしょうがないって……。でも……八城さんも神崎さんも……」
優し過ぎるのだと、チェルシーは漏らしていく。
「外人のわたしなんか放っとけば良いのに……二人共どんどん踏み込んでくるし……何が面白いのか良く笑うし、……あったかいし……! なんで……なんでわたしの事情も知らずに馴れ馴れしくするんですかぁ……!」
「…………、」
転入当初のチェルシーはクールで不愛想な少女であった。
外国の人間を排す傾向にある日本特有の空気も手伝い、当時の彼女は独りであった。所詮は目標を監視する仕事の一環であるために、チェルシーも気にはしていなかった。彼女自身、群れることを嫌っていたこともある。
けれど、その状況を崩したのが美琴と大和だ。
しつっこいくらいに世話を焼いてくる美琴に、何だかんだで追従する大和。冷え込んだチェルシーの心が氷解するのは時間の問題で、やがては最近の明るい姿を見せるようになる。いや、幼少期の性格に戻ったと言った方が正しいか。
「おかげで……、大事だと思っちゃった。大切な存在だと認めちゃった……。どうして……くれるんですか……このままじゃ、ロゼに怒られちゃうよぉ……!」
「チェルシー……」
依然、涙の雨は降り続ける。大和の顔を濡らしてゆく。
数瞬の間を置いて、チェルシーは体制を整えてぽつり漏らす。
「ねえ八城さん、わたし……どうしたらいいのかなぁ……?」
「……っ」
顔を上げた彼女の顔はひどく濡れて、くしゃくしゃで。
眉尻を下げたまま笑みを浮かべた姿が目も当てられないほど痛々しかった。
そのまま――チェルシー・クレメンティーナは歩き出す。ふらふらと、大和の返事も聞かぬまま。
「――チェルシー!」
阿呆のように放心し、遅れてから立ち上がって呼び掛けたところでもう遅い。
その叫びは彼女に届かず、そして――
「駄目じゃないの。女の子を泣かせちゃ」
「――!?」
新たな脅威を呼び寄せるのであった。
「あんた……は……!」
「構えなさい、大和くん。チェルシーの立場を悪くしないためにも、ここからはアタシが相手になるわ」
ボウズ頭にサングラス。裸の上半身にはサスペンダー。
以前と変わらぬ格好がそこにあり、けれどサングラス越しの光は冷徹に染まっていて。
第五のマッカム・ハルディートが立ちはだかって――瞬間的に振るわれた剛掌が大和の身体を弾き飛ばしていた。




