決起する少女
「はあ……」
神崎美琴は昏く静まり返る境内にて、深いため息を漏らしていた。
その陰鬱な感情を受け止める者はここに居ない。大和も黒猫も家の中で眠っているし、当然先ほど出ていってしまった少女の姿などあるはずが無かった。
……どこで掛け違えてしまったのだろうか。
チェルシーが再び戻ってきてくれたこと、大和と和解したことは素直に嬉しかった。
自由奔放でいて、いつの間にかどこかに行って、気が付いたら隣ですやすや眠っていて。
そんな猫みたいな彼女のことを、美琴は妹かのようにして可愛がっていた。
だからこそ、チェルシーとの同居生活は楽しくて、笑顔になれて――どうしようもない事実にも気付いてしまって……。
太陽にちょっかい掛けるウォルフへの牽制が居候の理由だと、チェルシーは語った。当然それも含まれてはいただろうが、主な目的は別にあると美琴は予測していた。
それに至った理由はいくつかあるが、何よりの根拠は本殿の澱みである。
大和も違和感を持ったかもしれないが、幼少より見慣れている厳かな本殿が、今は穢れた異界か何かに映ってしまうのだ。
その上で、チェルシーが本殿に対して接触を図っているようにも見えた。
直接的に何かをするわけではないが、毎日毎日さりげなくも欠かさずに視線や気をやっているような。実際、本殿の中の何かとコンタクトを取ろうとしていたのだろう。
「……でもねチェルちゃん、それじゃダメなんだよ」
美琴は確信めいた思いを抱いていた。
今のチェルシーのやり方、気構えでは、陽光は翳りを増すばかりであると。
日を重ねるごとに集まった雲と、容赦無く叩き落とされた雨粒が何よりの証左である。
チェルシーが役者不足というわけではないだろう。いやむしろ、実際のところ太陽は彼女を歓迎している。お天道様とはそういうものだ、昼の世界を暖色に彩る陽の星は、誰しもを優しく包み込む。
何も、神崎美琴ただ一人で天照を背負わせることは無いのだ。
そう、だからこそ、資格があるチェルシー・クレメンティーナに対して太陽神は厳しく接する。
反転の儀式を、その中心で執り行ったチェルシー。結果として世界は裏返りの秒読みを開始している。しかしそれでも太陽は、第六は、完全に堕落したわけでは決してない。
なればこそ目を覚ませと、前を向けと、陽の神はあえてチェルシーに試練を与える。
薄汚れた堕天になど微笑みをくれるものかと。まして掌握などされるものかと。安定と均衡を失ってなお踏み止まるのは世を照らし続けた矜持と、積み重なった残滓がゆえか。
つまるところは心の在り方。胸を張ってさあ前を向けば良いというだけのこと。
もちろん、それがチェルシーにとっていかに多大な勇気と決心と、そして涙を必要とするかは言うまでもない。
「……ふう」
それが分かるからこそ、神崎美琴はもう一度深い深いため息をつく。
境内を歩み、手水舎で彼女は手を洗い清めてゆく。
これは美琴と大和が、黄泉から帰還してきて以来、積極的に行っている禊である。
もはや黄泉の穢れを清める必要は無いのだが、心や身の引き締めにはもってこいの習慣であり儀式である。何より、手は綺麗にしておくに越したことはない。
ひんやりとした冷水の感触と夜風を浴びて、若干身体を震わせた美琴は苦笑し、それでいて感謝の念を携えて――隣接する大和の実家を優しく見つめる。
(大和……チェルちゃんのことはあんたに任せるよ)
あたしはあたしで……やるべきことを見つけたから。
一転し、綻んでいた口元を引き結ぶと、美琴は改めて本殿の方角を射抜くように見やった。
チェルシーを縛り付ける存在、その張本人に対してぶつける感情と手段を見出せたのだ。
――ロゼネリア・ヴィルジェーン。
自分も一度は騙された。けれど今ならはっきり分かる。アレは、あの人は、パンドラをマーブル状に掻き混ぜた災厄でしかないのだと。
自分がシェイクに殺されて黄泉に堕ちる寸前に見せてきた――あの酷薄な微笑みは、およそ理解の範疇の外にあり、シェイクやウォルフがまともにすら思えてしまう。
だからもう、被害者は増やさない。慟哭や苦悩の涙は積もらせない。
(あたしが……その前進を止めてやるんだ!)
決意して、美琴はその長いオレンジ髪をはためかす。
その胸元に、漆黒に輝く八咫烏の羽根を秘めながら。




