決別
チェルシー・クレメンティーナは極めて一般的な家庭に生を受けていた。
裕福でなければ貧乏でもない、言ってしまえば周囲から見たら別段面白味の無い家。
けれども、そこには愛情があった。
父と母、そして二つ離れた妹。
仲の良い家族であった。必死で働き、そして休日には家族サービスを進んで行う父親と、その彼を笑顔で支え、娘たちにも包み込むような愛情を注ぐ母親。チェルシーは妹と共に、そんな両親に対してベッタリと甘えていた。
また、チェルシーは天気を予知する不思議な力を持っていた。
雲の流れを見つめ、空気の微妙な変化を肌で感じ、これからの気象を百パーセント言い当てる。その精度は天気予報を凌駕していた。
彼女の家族はさほど深く考えず、その特技を快く受け入れていた。
傘の必要性だとか、洗濯物の干し場所だとか、あるいは行楽への参考に。およそ他愛のないことに活用され、「えらいえらい」とチェルシーはよく両親に頭を撫でられていた。
それが心地良く、にまにまと目を細めるほどにうれしかった。妹にも尊敬のまなざしを向けられ、「おねーちゃんすごい」と懐かれていた。
もっともっと褒められたい。小さな少女であったチェルシーはその能力に自信を持ち、また誇っていた。
――わたしはとくべつなのかも。
幼い彼女がそう考えたのは当たり前のことであろう。
全能感とでも言うのだろうか、当時の十にも満たないチェルシーは、まるで天を掌握したかのような気分になっていたのだ。
だが、そのようなチェルシーの日常は突然に崩れ去ることとなってしまう。
それは真っ黒な雨雲がどよめいていた朝のことだった。天気予報は当然のように降水確率百パーセント。道行く人々も傘を片手に学校や職場に足を運んでいた。
しかしチェルシーは流されなかった。冷静に、天候を全身で感じ取る。その結果、彼女が出した答えとは予報とは真逆の晴天だった。
自信満々に言い放ったチェルシーであったが、さすがに両親もこれには顔を振った。
不気味な曇天は今にも雷が鳴りそうで、万が一にも大事な娘たちに風邪を引かせるわけにはいかない。両親は諭すようにそう伝え、結果妹は傘を持つことに同意した。
そこで面白くないのがチェルシーだ。今まで一度足りとて自分の予測に反対したことがなかったのに、なぜ今更になってそんなことを言うのだろうかと。
妹も妹だ。あっさりと両親に説得され、わたしのことを信じていない。
「…………」
それは年相応の駄々のような不満。
けれど、幼きチェルシーにとってみれば決して些細なことでは片付けられなかった。
気象を読み当てることに誇りを持っていた彼女は、まるで自身を否定されたかの如くショックを受けてしまったのだ。
その結果、八つ当たりめいた感情を撒いたチェルシー。初めて両親に反発し、結局傘は持たず、うろたえる妹を置いてさっさと学校へと行ってしまう。
登校してしばらく時間が経過しても、雨が降る様子は無かった。どころか、雲からは晴れ間が覗き、仕舞いには陽光が辺りを照らすほどに青空が広がっていた。
クラス中から聞こえてくる天気予報への不満や、傘が邪魔というため息混じりの言葉。
それを耳にしつつ、チェルシーは内心でにやりと笑った。どうだ見たかと。わたしの予想はやっぱり当たるんだと。家に帰ったら自信満々にふんぞり返ってやるのも面白い。そうだ、よし、それからお互い軽口を言い合って両親と妹と仲直りしよう。
その光景を思い描きつつ笑みを浮かべるチェルシーだが、午後になって状況が一変することになってしまう。
チェルシーを嘲笑うかのように、加速度的に立ち込める暗雲。
次第にそれはプレッシャーを纏わせるほどに分厚く、不気味に拡大し、止むことの無い叢時雨として街を水で蹂躙した。
一気にざわつく周囲。チェルシーもそれを眺め、自らの予測が初めて外れたことに消沈した。が、それ以上に彼女の胸を襲うのは言いようのない不安であった。
放課後、学年が離れているためにとっくに帰宅した妹の身を案じつつ、チェルシーは傘が無いために校内で雨をやり過ごしていた。両親に連絡しようか考えたが、どうにも気が引けてコールする気にはなれなかった。
雨が弱まった隙を狙い、帰りに傘を購入して家路を急いだ。
どんな顔をして家族と会えば良いのだろうとか、素直に会話ができるだろうとか、そんなことは些細なものと思えるほどにチェルシーの胸中は悪い胸騒ぎで一杯だった。
靴が汚れることも、服や身体が濡れることも気にせずに駆ける。もはや傘など意味が無い。
そして――チェルシーは目にしてしまった。
床や壁に飛び散った真っ赤な血を。
無残な姿に変わり果てた家族の姿を。
やや頼りない雰囲気を持ちながらも、家族のために全力で駆けた父が。
分け隔てなく、溢れんばかりの愛情を向けてくれた母が。
そして、人懐っこさと愛くるしさを兼ね備えた大事な大事な妹が。
その全てが――死んでいた。
「ぁ――ァァ――」
嘘だ。嘘だ嘘だ。
目に映るものが信じられない。鼻を衝く血臭を否定したい。
けれど、それらはどこまでも残酷な現実で……。
「なんだ? まーだ他にもいたのかよ?」
「――ッ!?」
呆然とするチェルシーに投げ掛けられたのは遠慮のない武骨な声だった。
三十代半ばくらいであろうか、髭を生やしただらしのない一人の男。身に付けた服を鮮血に染めながら、図々しくもリビングで酒瓶を呷っていた。
「雨宿り代わりにこの家使わせてもらってるぜ。ああそうだ、金目のもんどこにあるか教えろよ。殺すのはその後にしてやるからよ」
「い……嫌……!」
「泣くなよ、ちゃーんとこいつらと同じところに連れてってやらぁ。――っとぉ」
「やだ――っ!!」
「あ! てめえ!」
酔いのせいかふらつく男の隙を見て、チェルシーは叫びながら逃げ出した。
背後から聞こえる男の怒号など、気にする余裕は全く持ち合わせていなかった。
土砂降りの雨の中、チェルシーは一目散に駆け抜ける。
それはまるで肉食獣から必死に逃げる兎のよう。周囲の人間の訝しげな視線など目もくれず、ただただ足を前に動かした。呼気を乱し、顔を涙と雨でぐしゃぐしゃにさせながら――
これは紛れもない悲劇である。そう、よくある悲劇の一つに過ぎない。
倫理や道理が狂いかけたこの地球で、浜辺に添える悲哀の砂が一粒増えただけのこと。
至るところで血が飛沫き、あらゆる場所で炎が上がる。
何も、珍しいことではない。
壊れているのだ、この世界は。日本という例外だけを置き去りに。
それからのチェルシーは毎日が地獄であった。
恐怖とトラウマから、チェルシーは家を捨てざるを得なかった。
あの殺人鬼が今にも襲い掛かってくるかもしれない。怯えきった彼女はひたすらに逃げ、見覚えの無い街に迷い込んだ。頼るものなど何も無く、路地裏に身を潜めた野良犬同然の朽ち果てた生活。
チェルシーを襲うのは飢餓と孤独。およそ幼い少女が未だに命を繋いでいるのが奇跡に等しい。
が、そのような彼女を再びどん底まで突き落とすものがあり、それは不可避の自然現象であった。
雨。か弱い少女の体温と生命を確実に削り、僅かながらの生きる意志すら無慈悲に奪っていく。
「ひ――ぃ――ぅぁ……」
ガタガタと、濡れ鼠のように縮まることしかできない。
押し寄せるのはただただ後悔の念。
もっと早く帰っていれば。始めから傘を持ってさえいれば。
だが、そこで別の声が悪魔のように囁く。
どうせ逃げるんだろう?
お前がいたところで何の役に立つ?
事実、家族の死体を見たところで結局逃げたくせに。
「あっ……う……ぅ……」
嫌だ、うるさい。やめろやめろやめろ……!
冷え切った身体の彼女の意識は朦朧とし、もう雨音すら呪いの声に聞こえてきて……。
息をしているのか分からない。何を見ているのか分からない。頬を伝うそれは一体雨なのか涙なのか。
「なにが……」
天気の予知だ……。
なにが百パーセント的中する、だ。くだらない、くだらないくだらない!
嘲笑うかのような今のこの仕打ちは何の因果なのか。
「ちくしょう……!」
こんな力なんか要らない。
雨なんか大っ嫌いだ……。
寒い。暗い。気持ち悪い……。
もう、わたしもだめかもしれない。
諦観に塗れて路傍に果てようとした――そのとき。
チェルシーの眼前に暖かな手と声が届いたのであった。
それは光であり、そして慈愛。
『辛いでしょうけれど、あなたには未来も才能もあります。この手を取って、今一度立ち上がってみませんか?』
『……うん』
差し出されたその手は久方ぶりに感じた人の温もり。全てを失った少女は、しかしこの瞬間に再び感情を取り戻す。
太陽のような穏やかな微笑みは、身体も心も凍てついてしまった彼女を優しく溶かしてゆく。
雨は嫌いだ。ゆえにチェルシー・クレメンティーナは太陽こそを希う。その努力は実を結び、彼女は太陽のセフィラを獲得するに至ったのだ。
だからチェルシーは止まらない。……いや、止まれない。
恩義があるから。信頼しているから。
けれど、もし他の道があるのなら……。
「おい、気が付いたかよ?」
「ん……」
遠い過去を思い出しつつ、チェルシー・クレメンティーナは掛けられた声によって、そのまぶたをゆっくりと開いた。
おしりの下を見やる。どうやら布団を敷いてくれたらしい。呼吸の楽さも実感する。いつの間にかラフな格好に着替えさせられていた。
「……えっちぃ」
「いや俺は着替えさせてないからな?」
「……湿布くさい」
「うるさいな」
鼻をつまんで抗議の声を上げるチェルシーに、ウォルフとの一戦のおかげで湿布まみれの大和はそんな反撃しかできなかった。
「はーい、着替えさせたのはあたしでーす」
でへへー、と。ドライヤーを持った美琴が笑いながら居間へと入ってくる。
そのまま彼女はスイッチを入れ、温風をチェルシーの金髪へと当て始めた。
「タオルドライでの半乾きだけじゃ、風邪引いちゃうからね」
「んー……」
美琴の行為にチェルシーは為すがまま。ゆらりくたりと首の力を抜き、美琴の手管に身を任せている。
わしわしと揉まれ、手櫛を通される、肩甲骨まで伸びたふんわりウェーブのブロンド。
仕上げとばかり、美琴は大和から貰ったつげ櫛を取り出して、優しくチェルシーの髪を梳いてゆく。
きめ細やかな黄金の絹糸に、繊細な手入れが通るのを毛先と頭皮で感じたチェルシーがうっとりと目を細めた。
こてんと脱力し、美琴に身体を預けた彼女はまるで猫のよう。
少々やり辛そうな姿勢に苦笑する美琴だが、甘えてくるチェルシーを突き離せずそのままの格好で仕上げていった。
「よっし、できあがり」
「どーも、ありがとーございます」
名残惜しそうに美琴から離れるチェルシー。
ゆるりと波打つ金の髪が踊れば、そこから広がる女の子の香りが大和らの鼻孔をくすぐった。
「……もう平気なのか?」
「ん、わたしですか?」
「ああ」
「いきなり倒れちゃうからホント心配したよー」
「傘ぐらい差せっつーの」
二人の視線を浴び、チェルシーは一拍置いてから語り出した。
「心配おかけしてすいません。……そーですねぇ、わたし雨が嫌いなもので」
「怖いもん知らずそうなお前がかよ?」
「ええ……。まあシャレにならないくらい嫌いです」
「……」
そこにふざけた様子は無い。自嘲めいた笑みを浮かべて微かに震えるチェルシーは、とても人の身を超越した天使のものとは思えない。
側で心配そうに見つめてくる黒猫を抱きとめ、縋るかのように撫でている。
そんな調子を見せるチェルシーに、美琴が心配そうに「……訳あり?」と尋ねた。
「はい。冷たいし寒いし、なにより陽の光が見られない……。暗いのは嫌です。怖いのも嫌だ」
子猫を下ろし、ふとんの上でカタカタと両腕を押さえながら俯いて喋る様子は、普段の人を食ったような軽い面影がまるでなく、年相応のか弱い少女にしか見えなかった。
「お、おい」
「だ、大丈夫? チェルちゃん……」
思わず大和と美琴はそろってチェルシーに声をかける。対して、「だいじょぶです……」と声をしぼったチェルシーはうっすらと汗を浮かべる。
「わたし、小さいときに家族を亡くしてるんですよ」
『……』
その言葉に、大和と美琴は息を呑む。同情の念もあったし、大和の両親のことと照らし合わせた点もある。その空気を察知したのか、チェルシーは申し訳なさそうに言った。
「すいません……、八年前の八城さんの両親の事件については、わたしはほとんど知らないんです。そのころはまだ天使として第六を掴んでいなかったし」
「いや、べつに良いけどよ」
大和の両親を殺したのはシェイクであって、当時のチェルシーには関係ない。
「…………」
そこでふと八城大和は考える。
なぜ、父と母は殺害された?
いや、分かってはいるのだ。駄々を撒く幼年のシェイクに、その他大勢よろしく散らされてしまったのだと。
言ってしまえばモノのついでだ。深い意味など無い。あのシェイクの眼とはそういうもので、だからこそ大和は憎悪を燃やして刻み付けた。
「……?」
いや、待て。何かが引っかかる。……憎悪を燃やす?
確かにそうだ、自分はシェイクを親の仇と憎んでいた。激情と言って良いほどに。
では、当時の自分はそんな己を律せたのか?
言いかえる。なぜ自分は生き延びた?
「……っ」
霞み掛かった記憶のフィルターが解けていく。
そうだ、あのときの自分は感情のままに飛び出すという愚を犯した。灼熱の焔に飛び込む木端のように、舌なめずりをするシェイクの餌と化すために。
『彼は殺してはいけません』
「――ッ!?」
脳裏に浮かぶその声。艶然としたその声音。
『いずれ必要となる神饌です。熟すその日まで待ちましょう』
「ロゼ……ネリア……」
そう、自分は幼いころに相対していた。父の遺体の側で嬌笑するロゼネリア・ヴィルジェーンと。
「……そうかよ」
我知らず自嘲した。
全てはあの日から、いやもっと前から、自分は堕天どもに良いように弄ばれる傀儡だったのだ。
つまるところ、太陽を目覚めさせるための生贄といったところか。
「……ごめんなさい」
「え?」
考えが顔に出ていたのか、チェルシーが大和に対して謝罪する。
「こうなってしまったのは完全にわたしの実力不足です。太陽神の側にいて、次第に手綱を握っていこうと画策したのですが」
陽明神社に居座るチェルシーの本当の目的、それは己が神力を御神体にぶつけ、夜明けと共に照臨させることに他ならない。
「でも、力も時間も足りない。それならば神気をブーストさせるしかない」
「それが俺の命ってことか?」
「……」
沈黙は肯定。
天照の父である伊邪那岐。彼の血と力を神饌として喰らい、正真正銘の陽として君臨するのが最終手段。
長年世を照らし続けてきた陽女神こそが天照ゆえ、他の太陽神を名乗る神も、彼女の影響を少なからず有することに不思議は無い。
つまり、言ってしまえばそれは親殺しなのだ。
生命樹とは堕天。ならば堕ちるところまで堕ちねばならない。反転とはそういうもので、第一のメイザースは東から西へ顔を向けたわけでは決してない。
「……分かったよ」
静かに大和は返していた。ロゼネリア・ヴィルジェーン。やはり八年前からではなく、さらに時を遡って自分を監視していたわけだ。あの慈しむような笑顔の仮面の下で。
ずっと多くの人を騙し、そして殺してきたのだ。直接親を殺したのはシェイクだが、やはりロゼネリアも絶対に許してはおけない。
そんな大和を眺めながら、壊れるような笑みを浮かべてチェルシーは言った。
「ロゼは……、孤児だったわたしを拾ってくれた……」
え? と美琴が反応し、大和は黙って続きを待った。
「お父さんとお母さん、妹まで死んじゃって、家も明け渡すことになっちゃって……。ひもじかった、寒かった、寂しかった、冷たくて暗かった……。雨は……嫌い」
『……』
「路上で野良犬同然の暮らしをしていたわたしに、手を差し伸べてくれたのがロゼ。その手は体温があった、その目には優しさがあった。握り返すとギュッと掴んでくれて微笑んでくれた……。わたしにとってはロゼが太陽そのものなんです……」
だから……、
「わたしたち……どこまで行っても、やっぱり敵ですね」
戸惑い。それはいつしか芽生えてしまった。心根が優しい彼女だからこそ。
胸を締め付けるが如く感情の正体に気付いてしまったチェルシーは、張り裂けそうな想いを隠せずに続けた。
「決行は新月の直前、明日です。できることなら遠くへ逃げてください。そうでなければ、わたしはロゼを裏切れない……。ロゼには恩があるから、彼女がやるならわたしも続く……」
声は震え、目じりには涙を溜め、その表情には普段の茶化しが一切無い。
悲哀の感情をさらけ出している今のチェルシーは、間違いなく情を持つ一人の人間であった。
「悪いな、逃げるわけにゃいかねえよ。そうか……、ああ、そうだな。敵だな……俺たち」
「はい……、敵です……」
悲しげな笑みすら浮かべて二人は見つめ合っていた。
それを赤く腫らした目で見ていた美琴に、チェルシーも涙声を震わせて告げた。
「髪、ありがとうございました……。とっても……気持ちよかったです」
そして――
翌朝、チェルシーは大和の家から姿を消していた。
みゃあ……、と黒の子猫がか細く鳴いた。
その猫を抱き上げ、頭を撫でながら語りかける。
「ごめんな。お前の主人、どっかいっちまった」




