第四(ケセド)と第九(イェソド)
ヨーロッパヤマネ、という小型のねずみが欧州に生息している。
黄金色めいた鮮やかな体毛と、体長に匹敵する大きな尾が特徴の種だ。
木登りが得意で、木の実や小さな虫などを捕食する、いわゆる一般的な小動物である。
小柄で臆病な彼らには天敵が数多く存在する。
山猫やキツネ、イタチはもちろん、猛禽類のレーダーにも注意せねばならない。
食物連鎖で言えば底辺に等しい部類だろう。昼夜問わず、敵に見つからぬよう慎重に行動しなければあっという間に餌食になってしまうのだから。
そのような矮躯な彼らの中で、一際目立つ個体がいた。
金色の体毛は一層輝き、身体つきも他より大きく、それゆえに力も素早さも頭一つ抜けていた個体であった。
何より彼は度胸が並外れていた。他の仲間では尻込みする場所でも平然と行動できる肝っ玉。テリトリーの広さは安定した食料の調達成果に直結する。
ゆえに彼には余裕があった。生存本能以外の感情が芽生え、感受性すら持つようになる。
そして彼は思索に耽る。
餌を取って食べて、寝る。それだけ。本当にそれ以外何もない毎日がひたすらに。
ああ、自分はなんてつまらない生き物なんだ。
達観したようなぼやきは風に溶けて消えゆくだけ。それでも腹は減ってしまう。
そのヨーロッパヤマネがいつものように餌を探していた夜のことだった。
目当てのナッツを見つけて齧り付こうとした時、彼の視界に飛び込む光があった。
何気なく、本当に何気なく彼は夜空を仰いだ。
あったのは、満月。ヤマネの視界を銀色に染め上げる巨大な満月。
ポロリと、彼は手元のナッツを樹上から地面へと落としていた。
それでも目を離せない。まるで縫い付けられたように、彼はその月を凝視する。
金色のヤマネの中で、何かが弾けた。
なんと――美しいものなのか。
陳腐な感想はしかし、彼の心からの賞賛に他ならない。それは言ってしまえば一目惚れに等しかったのだ。銀の月光によって照らされた体毛が、儚く白んだ黄金となる。
それからというもの、ヤマネは毎夜かかさず空を見上げていた。少しでも近付けるよう、一帯で最も高い樹の上で。
毎日毎日時間を増やし、いつしか彼は餌を取ることすら忘却し、一日中ずっと樹の上で過ごすこととなる。想い人が顔を出す瞬間を一秒でも早く察知するために。
月はあらゆる顔を彼に晒した。物陰からこちらを覗く三日月を。淑やかに笑む弓張り月を。面映そうに素顔を見せる新月までも。
目を奪われ、心も奪われた。だというのなら横に立ちたい並びたい。ヤマネは天へ向かって手を伸ばす。もっと、もっと、もっと高く――
そして、ひと月が経過する。再び真円を描いた満月に、しかし割って入った存在が。
大型の白や灰色が草木を掻き分け群れを成す。
欹てた大きな耳。空を切る立派な尾。眇めた双眸と剥き出した犬歯はまさに肉食獣のそれである。
幾重にも相乗される遠吠えが、周囲の動植物を戦慄させて射竦めさせる。
狼の集団であった。
体格や毛皮の分厚さ、隙の無い歩行や構え、眼のギラつきが犬のものとは一線を画している。
仲間同士でじゃれ付きつつ、ハッハと呼気を出して尾を振っている。
そして、再度木霊する一際大きなハウリング。
白や灰色の体毛が、月明かりを吸収して銀色を輝き放つ。
まるでそれは月の魔獣。銀世界での遠吠えは幻想的ですらあった。
それは餌である他の生物ですら一瞬心を奪われるほどに見事であった。遅れて、ようやく逃げ出す彼らを尻目に、しかし憤怒に燃える存在がひとつだけ。
先のヨーロッパヤマネである。
――間男どもが……ッ!
金毛を逆立たせ、門歯を鳴らして唸るヤマネ。
常であれば、いくら彼でも一帯の覇者である狼の前では尻尾を巻く。小ネズミなど、あの狼たちにしてみれば小腹が空いたときのオヤツ程度の存在でしかないからだ。
そして、何より業腹なのは月が狼たちをこそ伴侶とし、一層濃い月光を注いでいること。間男なのは、むしろ自分。
……だが、それがどうした?
もはやこのヤマネにそのような理屈など通用しない。
俺と月との逢瀬の時を邪魔する犬コロ共が、その我が物顔にふんぞり返った遠吠えを止めやがれ。
不足ならば歩めば良い。銀狼がお望みならばその皮を被ってやるとも。
俺がてめえらに……成って変わってやらァ!
それはとても齧歯類のものとは思えぬ莫大な咆哮だった。
血走らせた双眸引っ提げ、金色のヨーロッパヤマネが数十単位の群狼へと突っ込んでいく。
悲鳴、怒号、血飛沫が上がって骨身の砕ける音が鳴る。一つ、また一つ大柄な身体が斃れて大地に血を吸わせ始めて――そして――
屍山血河の景色の中に、もぞりと蠢く真っ赤な物体が――
大きな半月が煌々と光を放ち、路地裏の隙間に至るまでその銀色を伸ばしていた。
金色のウルフヘアーをした少年が、ネオンの光る細道を不機嫌そうに歩いている。
とあるバーの前で足を止めれば、そのまま扉を開けて店内へと入っていく。
カラン、と。備え付けられていたベルが鳴って衆目を浴びる。様々な、特に負の感情が綯い交ぜになった視線が。
酒に酔っただけではないだろう、眼の据わったガラの悪い男性客が一斉に少年の元へと集まってゆく。
「おいおい兄ちゃん、ここはハタチ未満お断りなんだよボケェ」
「っつーか外人じゃねえか。なに生意気に俺らの影踏んでんだよ」
「ヘッヘ、ちょーど良いじゃねえか。こんな小僧に人権はねえ、全殺しにしてやんべ」
ニヤニヤと、咥えタバコの男性客が少年の肩を掴んだ。
「ヘハハハ、オラどーした、震えて動け…………あ、あぁ?」
が、一転して男は目を見張る。開いた口からポトリとタバコが転がった。
怪訝に思った周りの人間が「なんだよオイ」と茶化していたが、
「な、な……なんだ……コイツ……!?」
金髪の少年を掴む男が小刻みに震えていた。
まるで、触れてはいけないモノに触れてしまっているかのように。
慌てて手を引っ込めようとした彼であるが、しかし瞬間少年がその腕を掴み上げた。
「――ひいっ!?」
「なんだよオッサン。殺してくれんじゃねえのかい?」
少年が獰猛に牙を剥く。
ギチリ、と。男性の腕を握り締めて嫌な方向へと曲げていく。
「いぃぃっでええぇええ!? は、放せ放せ放してくれぇ!」
懇願めいた絶叫に、金髪の彼は眉一つ動かさない。
そして、爪楊枝にでもするように、男の腕をボギンとへし折っていた。
「――イイィィイぎゃあぁぁぁあアァッ!?」
折られた男が床に倒れてのた打ち回る。少年は鬱陶しげにもがき苦しむ彼の鳩尾を蹴り込み、強引に黙らせた。
驚愕に染まった目を向けてくる他の男たちに向かって冷酷に一言。
「消えろ」
『――――ッ!』
射竦められた彼らは蹲る男を回収すると、慌ててバーから退却していく。
もはや興味は無いとばかりに、金髪の少年が店内を見渡していると、
「ふふ、こちらですよ、ウォルフ」
「……ケッ」
少年――ウォルフ・エイブラムを呼び寄せるのはカウンター席に腰掛けている淑女、ロゼネリア・ヴィルジェーンであった。
腰まで届くブロンドの髪が、グラスを傾ける彼女に従って揺れ動き、色香と香水の匂いを辺りに振りまいていた。その艶やかな様相に周りの男性客はもちろん、女性ですら魅了されていたが、しかしウォルフは不愉快げに鼻を鳴らすだけ。
「あら、あまり機嫌がよろしくないようですね」
「てめーの香水や酒の匂いで鼻が曲がりそうなんだよ。こんな所に呼び付けやがって、おりゃー未成年なんだよ」
「あなたに人の概念が当てはまるのですか?」
「何にせよ酒なんざ呑む奴の気が知れねえ。酔っ払いてえなら高みに昇って見下ろしゃ良いだけじゃねえか。惰弱に手軽なモンに頼ってよ、俺からすりゃ現実逃避のシャブ中と変わりゃしねえな」
「こういうものは嗜好品。人間の持つ嗜みですよ。それに、誰もがあなたのように強くはありませんから」
「一生理解できる気がしねえよ」
放埓に言ってどっかりと椅子に腰を下ろすウォルフ。
異彩極まるこの二人には、血の気を増やした夜の客でさえ今や近付こうとはしなかった。
頬杖をついたウォルフがカウンター越しのマスターに水を持ってこさせ、一口飲み込む。
「どーでもいいけどよ、日本ってのは世界一平和なんだろ? そんならどうしてさっきみてえに喧嘩吹っかけられなきゃならねえのよ? ここに来るまでに片手じゃ足りねえほど馬鹿共を相手にしたぜ」
「それはあなたのせいでしょう?」
問いに答えるロゼネリアが薄く笑んだ。
第九――月のセフィラが顔を出す闇の時間は人々を暴力に惑わせる。
なぜならば、それを掌握するウォルフの性格が色濃く影響されるゆえ。
しかし想定の返答だと、彼はグラスを置いて言い返す。
「じゃあなんだってこの時間帯を支配する俺様にどいつもこいつも逆らってくんだよ。道理が通らねえぜ」
「カリスマ性が足らないのでは?」
「ハハッ! さっすが玉座の女王サマは言うことが違うねえ」
「……」
その軽口に対して閉口したロゼネリアに対し、ウォルフは「怒んなよ」と詫びを入れた。
「実際、俺ァあんたには感謝してんだぜ? 人の姿に転生できたのも、あんたの力添えがあったおかげなんだしよ。畜生のままじゃあこがれの天使サマにゃなれねえからな」
だからよ、と彼は首元の鎖を指して犬歯を見せた。
「あの時大人しく封印されてやったのも、今この首輪を残してやってるのも、てめえに義理があるからだ。さもなきゃあのジジイをぶち殺して終いだったんだ」
「不敬ですよウォルフ」
「忠誠なんぞ誓った覚えはねえよ。そりゃてめえだってそうだろ?」
「何を言っているのです?」
「少なくともあのガキには腸煮えくり返ってんじゃねえの? 才能溢れる第三の大天使サマにはよ。……なぁ第四サマ」
煽るようなウォルフの嗤い。
「ビナーは『至高の母』。つまり女にとって限りない名誉な地位だ。そしてあんたが従える大アルカナは一体のみで、残りは全部ビナーに支配権がある」
「ケセドだってこの上ない名誉なものですよ。それに大アルカナは天華が創造した天使ですから当然です。そもそも、もはや一体も存在しないではないですか」
「そうだ、ほとんど俺が潰してやった。なぜかこの俺に牙を剥いてきやがったからな」
交差する視線。沈黙が流れ、ややあってから「何をおっしゃりたいのか分かりません」とロゼネリアがカクテルを傾ける。
「大アルカナの反乱については前夜祭のようなものでしょう」
「はぁん?」
「いきなりの本番でケガでもされては一大事ですからね。凝り固まった身体を解すのに丁度良かったのではないでしょうか?」
誰が嗾けた、とはロゼネリアは言わない。
そこが譲歩の境目だと、意を汲んだウォルフが口元を吊り上げて話題を変える。
「その気色悪い酒、美味いのかい?」
「気色悪いとはお言葉ですね。『エウロパ』、このお店で私が最も好きなお酒の一つです」
微笑を浮かべて手に持つグラスを眺めるロゼネリア。
青い酒をベースに、赤い雫を垂らしたカクテルである。
その赤は完全には混ざり切らず、幾重にも線を伸ばす。まるで海に漂う血管のような生々しさが存在していた。
されどロゼネリアは慈しむように嚥下する。味と香りを十全に堪能してから彼女はウォルフに向き合った。
「さて、あなたをここにお呼びしたのは、チェルシーについて念を押しておきたかったからです」
「あんだよ?」
「ご存じの通り、今チェルシーには太陽を掴むために尽力してもらってます。どうか余計な真似は謹んでください」
「心配しなくても野暮な真似はしねーよ」
「ふふ、それならば安心です」
嬌笑を見せるロゼネリアに、ウォルフは「はん」と鼻を鳴らす。
「やけに放任主義じゃねえか。大事な娘なんだから、もうちっと目を掛けてやんなよ。肉親代わりなんだろ、あん?」
「もう一人歩きできる年頃ですよ」
「カッ! よく言うぜ」
言い放ち、ロゼネリアの前に置かれたナッツが盛られた皿を掴み、そのまま口に流し込むウォルフ。
ボリボリと咀嚼し、不快げに目を眇める。
「……しょっぺえ。人間の食うもんは味が濃すぎるぜ」
と、今度はグラスの水を一気に喉に流し込む。
ダン、とそれをカウンターに叩き付け、勢いそのままに立ち上がった。
「今日のは全部カマ掛けだ、気分悪くしたなら謝るよ。ま、あんたの魂胆がどういうものかは知らねえが、不審に思う奴も出てきちまうんだぜ? どっかの筋肉馬鹿とかな」
「……」
「結果的にシェイクを使い捨てたてめえに、えらくご立腹みたいだからな。つっても俺にゃ関係ねえからどーでも良いけどよ。とりあえずは従ってやるさ」
じゃあな、とウォルフは返事を待たずにバーから姿を消してしまう。
残されたロゼネリアは変わらぬ微笑を浮かべたまま、静かにグラスを傾けた。




