研磨
大規模な台風でも起きたような荒れた世界がそこにあった。
ただ今は、一転して琥珀色に染まる天地が静かに時を刻んでいた。
生暖かい邪気を孕んだ風が吹き抜ければ、奇怪な植物を撫でつけ揺らす。
黄泉の世界。
かつて第十のシェイク・キャンディハートが支配していた地下の王国。
その支配者を誅し、喰らい殺した空間は、今や必要以上に毒気を振り撒かない、穏やかとも言えるように澱んだ空気を揺蕩わせていた。
瘴気や蟲、死人たちも、盛んに活動するでなく静かに時を過ごしている。
そこに、上空からカラスを思わせる漆黒の二者が降り立っていた。
「ふむ、どうやら本当に次元の亀裂は治まっているようだな」
「だから言ったろー? 俺がわざわざ確認してやったってのによー」
「ああ悪かったよ」
一方は本当の、しかし足を三本有する霊鳥、八咫烏。
もう一方はそんな八咫烏を肩に乗せた、烏羽色をした髪を伸ばした少女であった。
少女――曹玲の言う次元の亀裂とは、シェイクが没した際に発生し、大和らを呑み込もうとしたものである。
シェイクを失った黄泉がバランスを崩して崩壊を始めたがゆえか。
あるいは彼女を殺害した迦具土たちによる高出力のエネルギーが、次元を破壊してしまったのか。
それらはいずれも近しいが、最も大きな理由は生命の樹におけるマルクトの位置関係にある。
マルクトとは生命の樹の最下部に存在し、つまりは樹の根の部分にあたる。黄泉もまた根の国という顔を持つため、シェイクは無意識的に地下世界を征服していたのだ。
根とはエネルギーを吸い上げる役割を持つ。
第一から送られた神秘を、心臓のポンプのように生命の樹全体に循環させているのは中心である第六の役目だが、第十もまた実体化した外的資源を吸い込み、樹の活力にする働きを有しているのだ。
マルクトの正邪によって自然の在り方もガラリと変わる。
それはシェイク亡き後の世界の様子からも明らかだろう。
大地や海の穢れは消え去り、人を蝕む瘴気も姿を消したのだから。
つまり、世界にとって非常に重要で繊細な場所でもある。特に、シェイクは地下世界を好んでいたため、マルクトの『根』という役割が尚のこと増長され、また圧迫されてもいた。
そのような負荷を掛けすぎた場所が破壊され、セフィラの表裏が入れ替わるとなれば、結果は明らか。プールや風呂の栓でも抜いたように、次元は流動して荒れ狂う。
「しっかしオメーも酷いよなー。大和にそのこと言ってなかったんだろ?」
「べつに悪意を持って伝えなかったわけではない。シェイクの好みなど、様々な要因が重なって出来た結果だ。むしろ可能性としては低いと思っていた」
それに、突発的な事象くらい対応してもらわねば困る、と曹玲は続けて締めた。
「おー、おっかねえ。なんかお前さん、ピリピリしてねえ?」
「……べつに」
――リアルにてめえ、死臭がすんぜ。ついでに負け犬の臭いもな。
短く八咫烏に返す曹玲に浮かぶのは、先刻ウォルフに嘲笑われた言葉。
「……死臭、か。それはそうさ」
クッと口元を吊り上げる曹玲――そして異音。
小さく笑う彼女に、突如として黄泉の生物が大量に襲い掛かったのだ。
蜂、蜈蚣、蛇――
いずれも地上のものとは比較にならない猛毒を秘めた毒蟲たち。
まるで蠱毒でも思わせるように殺到してくるそれらに対し、しかし曹玲は迎え撃つでもなく精神を集中させていた。
グチュグチュと、モゾモゾと、蠢き擦れる音と耳を劈く羽音と共に、一斉に毒蟲を全身に受け入れた曹玲。
そして、そのまま数十秒。ようやく黄泉の蛇らが彼女の拘束を解いていた。
「ふん」
鼻息と共に現れたのは、表情を崩さないままの曹玲だった。
鬱陶しげにポニーテールを一度払い、去っていく蟲たちを見やる。
対し、肩に止まる八咫烏は身体を震わせていた。
「うおーこええ……、よくオメー平気だよなー。鳥肌立ちそうになっちまったぜー……」
「端から鳥だろうが貴様は……。ま、私はよく連中とは寝食共にしたものでね。――む?」
言い終えた曹玲が右腕を見つめていた。そこには一か所だけ噛まれたところが存在し、血が滲み始めている。
「……まいったな。地上で暮らしていたうちにどうにも日和っているらしい。やはりこっちに来たのは正解だった」
おもむろに腕の傷に口をつけ、血ごと毒を吸い出してからベッと吐き出す。
「手荒い歓迎だ。ということは、素戔嗚さまはおいでか?」
「んや、気配は感じねえな」
「そうか。では鈍った私に喝でも入れにきたというのか、ありがたい」
いつの間にか、曹玲たちを取り囲む黄泉の生物や概念。
それを見た曹玲は、左腕を右腕で引き寄せてグッと伸ばす。
「負け犬の臭いだけは返上するとしようか」
言って、彼女は全身の神気を迸発させる。
それを合図にして雪崩れ込む生物たちを射抜き、口の端を上げながら。
諸説ありますが、この作品では黄泉と根の国は同一のものとさせていただきます。




