不倶戴天の出会い
静かに流れる水面が陽光を照り返す。
そよ風に撫でられた木々から舞い散る木の葉がぽたぽたと着水し、
「――フッ」
続けざま、吐かれた呼気と同じくしてしなった釣竿から糸が飛び出した。
滑翔し、まるで水鳥の如く川に飛び込むそれは、瞬く間に魚を捉えて浮上した。
「っし!」
拳を握った八城大和が手応えを噛み締めながら竿を引く。
上等なサイズの岩魚を手元に収め、暴れる口元から針を外した。
「大和ー、もうそれくらいでいいよー。食べきれないから」
「そうか?」
近くでたき火を熾しつつ魚を焼いている神崎美琴がそう声を掛けてきた。
鋭敏にさせた意識を丸くして、全身から力を抜く。
「ほう、この数日でずいぶんと上手くなったじゃないか」
そこで尊大な口調が投げられた。
烏の濡れ羽色をした艶のあるポニーテールを風に任せ、曹玲が横に立つ。
「……ま、呼吸の読み合いが大事だっつーのは分かったよ。あとはちっとばかしの思い切りだ」
「その通りだ。虎ですら草陰に身を潜め、必殺のタイミングで力を爆発させて獲物を殺す。不必要に力を誇示などしない」
爪出す鷹にあるのは誉れなどではなく、驕りだ。
そしてそういう者ほど視野狭窄になり、容易く搦め捕られる。
野生や修羅場において、無駄な蜂誇りほど自身を落とす行為は無い。
「しかし、もう少し時間が掛かると思っていたんだがな。急激な力を身に付けた者は全能感に酔っ払い、前が見えなくなることが多い」
「……無かったわけじゃねえよ。でもそれは、黄泉に行った時点でぶっ壊れた。俺は体の良いヒーローなんかじゃねえってな。できねえことの方がずっと多いんだ」
美琴の方を見やり、そう漏らす大和。
そしてすぐに目元を引き締め、曹玲に問い掛ける。
「でもよ、なんで突然あいつの呪いが解けたんだ?」
「……」
その疑問に対して曹玲は沈黙する。
彼女自身もずっと考えていたことだ。
先日、目覚めた神崎美琴が突然呪いが消えたと言ったとき、曹玲は驚愕した。
そんなまさかと美琴のお腹を見据えても、確かに健康的な白い肌しか映らなかったのだ。
美味しそうに魚や野菜を頬張る美琴に安心は覚えたものの、一方で謎は残る。
「……正直分からん。市販の桃が呪縛を消したとは到底思えんし。可能性としてはロゼネリアが解除したことが考えられる」
「何のためにだよ?」
「神崎に死なれては困るからだ。連中は間違いなく神崎の神力を狙うはずだ。奪うためか、消し去るためかは知らんがな。ロゼネリアが遊びを止めたのか、何か切迫した状況でも生まれたのか。……正直、腑に落ちないが」
あるいは、別の力が働いたのか……。どちらにせよ曹玲には分からない。
「予想はしてたけどよ、美琴にとっちゃよろしくねえ話だな。……今度はもうさせやしねえ」
低く唸る大和が神気を尖らせ弾けさせた。
嘆息した曹玲が「気を静めろ」と彼をいなす。
「とりあえず飯だ。釣りが上達したのは結構だが、お前ちょっと捕り過ぎたな」
「……かもしれねえ」
手元の岩魚を見て大和がぼやく。美琴が焼いてるのを合わせれば、全部で十匹だ。三人(と一羽)で食べるには少々多い。
未だ暴れる岩魚を掴みつつ、逃がしてしまうか考えたところで――
『いや、その必要はねえよ』
「――――」
喉元を食い千切られたかのような錯覚を植え付けられていた。
ギンと目を見開き振り返る。それは防衛を主とした反射であった。
「俺がありがたく頂いてやってっからよォ。不味くねえよ、褒めてやる」
「――ッ!?」
そこには人型の災害がいた。
シングルのライダースジャケットを筆頭に、全身を漆黒で固めた金髪の外国人。
強健な鎖を首に巻き、餓狼の如き双眸を寄こしつつ、たき火の側に腰掛けて串焼きの魚に齧り付いていた。
ニヤニヤと、不敵な笑みを浮かべながら。
(全く……気付かなかった……!)
大和は瞠目する。一目見ただけで射竦められるその存在感に。
で、ありながら、その気配を欠片たりとも感じさせなかった男の不気味さに息を呑んだ。
それこそ野生の獣以上だ。男がその気ならば、今頃自分は奴の腹の中だということを思い知らされた。
「…………ッ」
背筋が震える。まばたきした瞬間に首を狩られそうで目が乾く。
見やれば、男の側では美琴が同じく戦慄していた。
呼気を吐く。全身に気を送って集中する。
恐れるな、まずは美琴を救出して――
「久しいな、ウォルフよ」
そこで、隣にいた曹玲が大和を手で制しながら発言していた。
戸惑う大和を自らの背で黙らせ、男に対話を促す。
「おお、誰かと思えば曹玲の姉ちゃんじゃねえのよ。烏の死骸か何かと思ったから気付かなかったよ、悪かったな」
「これは手厳しいな。そういえば、大アルカナを消したようだが、第三には怒られなかったのか?」
「目障りな小バエ共をまとめて振り払って何が悪い。第一、あんな小せえガキにこの俺が説教受ける謂れも筋合いも無えんだよ。お前みてえな臆病者と違ってな」
「はは、そうか」
「……!?」
あの曹玲が、こうも侮辱されながらも体裁を整えている。
強烈な違和感を覚えると同時、納得もできた。
それだけあの金髪の男がド外れているのだ。
『似てる! あんたウォルフに似てるわ! あたしの大っ嫌いなあいつに!』
『問題は、たった一人で大アルカナを死滅させた戦闘力にある。その男の名はウォルフ。月を司るセフィラを宿す禽獣だ』
「こいつが……」
第九のウォルフ。
あのシェイクが一方的に怯え、曹玲すら警戒していた男。
そして、その曹玲に手傷を負わせた天使たちを一人で殲滅した張本人。
バリバリと、そのウォルフが焼き魚を頭や骨ごと嚥下した。残った串をヤニ下がるように咥え、誹りの言葉をなおも続ける。
「ヘラヘラしちまってよ、あんたそんなキャラだったか? マッカムの野郎に無様に惨めにボコされて、頭のネジ外れちまったかい?」
「そういうつもりはないが」
「ハッ! 勇ましいだけが取り柄の格好良い曹玲お姉ちゃんは死んじまったようだな。リアルにてめえ、死臭がすんぜ。ついでに負け犬の臭いもな。ハハハハッ!」
「……、」
僅かに曹玲がグッと拳を固めた。
それを眺めたウォルフが愉快気に口角を上げた――瞬間。
「――ッ!」
ウォルフに向かって超速で飛来するスチール缶。
辛うじてそれをキャッチして眉間に皺を刻んだウォルフに、そのお茶の缶を投擲した本人が声を掛ける。
「飲めや。魚食って喉渇いたろ」
「……おお、悪いねえ黒髪の兄ちゃん。ついでにその手に持ってる立派なヤツも食わしてくれよ」
言われ、大和が確認を取るように左手の岩魚を掲げる。
ああそれだとニヤつくウォルフを尻目に、大和は岩魚を川へと放り投げていた。
「くかかか……」
中身入りのスチール缶が瞬時に握り潰される。
咥えていた串を吐き捨て、ウォルフが目を眇めて吠え立てた。
「なかなか愉快におちょくってくれんじゃねえのよ。ええ、ジャップがよぉ」
「首輪なんかしてる分際で偉そうに付け上がってんじゃねえよ、ワンコロ」
視線が搗ち合い火花が散って、そして同時に――
『っだコラァ!!』
何だコラ、やんのかコラ、どこ中だてめーコラと、二人のヤンキーがガン付け合って罵り合う。
八城大和は確かにウォルフ・エイブラムに恐れを抱いた。
だが、合わない。コイツは合わない。このクソボケなタコとは魂レベルで理解し得ない。
恐怖は苛立ちと憤怒により塗り潰され、ゆえに啖呵もポンポン湧き出ていた。
が、それを良しとしない曹玲がすかさず割って入る。
「よせ、大和」
「止めんなよ。連れ合いが侮辱されっとムカついてたまんねえんだよ」
「光栄な話だが私は大丈夫だ。それにお前、奴から注意を引き付けてるようだが安心しろ。神崎なら心配いらん」
「あ?」
それを聞いて怪訝に思う大和だが、ウォルフは呵々大笑を上げて肯定した。
「ハハハッ! そりゃそうだ! なんだって俺がンな真似こくんだよ! 今日はチクッと挨拶しに来ただけなんでね」
言って、横で固まる美琴を見据えるウォルフ。
「上々の輝きだぜアンタ。ちっと余計なもんが混じってるが、匂いも悪かねえ」
「に……匂い……?」
鼻をヒクつかせるウォルフに対し、露骨に美琴が警戒した。
「んなツレねえ態度取んなよ、笑ってた方が可愛いぜ? ほれ、まあ魚でも食えよ。美味いぜ」
「いやあたしが焼いたんですケド……」
「ああ、そうだったっけかァ」
どうでも良さそうに頭を掻き、ジャラリと鎖を鳴らして立ち上がる。
「にしても想像以上だ。アンタにせよ、チェルシーにせよ、俺がガッカリすることも無さそうだ。残念なのは二人共、男を見る目が無えってことだな」
「……あん?」
その言葉に険を含ませ反応した大和に対し、ウォルフは大仰に両手を広げた。
「この姉ちゃんはてめえの番なんだろ? それだけでもアホくせーのに、聞くところによるとチェルシーとも楽しくやってたらしいじゃねえか。ぶっちゃけムカッ腹が立つぜ。大した神力も持ってねえくせしやがってよォ」
「……何が言いてえんだよ」
「カッ! お望みならはっきり言ってやんよ」
親指をおっ立てたウォルフが、自らの首を掻っ切る動作をし――
「俺の方が良い男だっつってんだよ。すっこんでろや人間」
「ッ……!」
眼孔に赫怒の色を表す大和に、なおも嗤笑を続けるウォルフ。
「たかが人間如きが太陽に向かって手ェ伸ばしてんじゃねえよ。脆弱な二足歩行種の分際でホモサピエンス謳ってんなやタコ!」
身の程を知りやがれと、ウォルフは放埓に言ってのけた。
だが、八城大和もまた怯まない。
「てめえ我がふり見てから物申せよ。それとも首輪にリード繋がれて四つん這いになるのが趣味なんかよ」
「ウハハハッ! この俺を人間なんぞと同列に語んじゃねえよ」
高らかに哄笑するウォルフを見て、大和は目を眇めつつその意を思索した。
天使という高貴な存在ゆえの発言か。……それもあるだろうが、どうにも他に根底からして強固な理由がありそうだった。
「そこまでにしておけ」
再び、曹玲が大和の前に割って入った。
「ウォルフよ、神崎に挨拶しにきただけと言ったな? ならば目的は果たしただろう。あまり派手に突っ張っても彼女の気を翳すだけだぞ」
「……」
一転して閉口し、逡巡するウォルフ。
ややあってから腰に手をやり、億劫気に口を開いた。
「確かに、あまりスマートじゃなかったな。忠告感謝するぜ、先輩」
「お前、今年で十七だったか?」
「ああ、一応な」
「……俺と同い年かよ」
聞いた大和が吐き捨てるようにぼやいた。
対するウォルフが含み笑いを漏らし――
「だがなァ!」
荒々しく咆哮した。
「そのボケは気に喰わねえ。曹玲、てめえもだ。脱落した雑魚のくせして一丁前にこの俺に指図してんじゃねえよ。てめえら一体誰を相手に上等こいてると思ってんだ、あぁッ!?」
その恫喝は奔流と言って構わない。
次元すら引っ掻き散らすほどの殺気が木霊し、動植物がこぞって射竦められていた。
散ることも、逃げることも、気絶することすら許されない。まさしく正真正銘、強者の威嚇でありハウリング。さしもの大和と曹玲も冷や汗を浮かべていた。
しかしそこで、ウォルフは同じく戦慄している美琴を見やってから言った。
「……まあとは言え、今日の俺は気分が良い。そこでだ、一つゲームをやろうじゃねえか」
「ゲーム?」
問うてくる曹玲に嗤い返し、ウォルフはポケットをまさぐり、「こいつはさっき気前の良い兄ちゃんから貰ったやつでよ」とサイコロを二つ取り出した。
「ルールは簡単、出た目を合わせてデカい方が勝ち。いや、引き分けもそっちの勝ちだ。そんで俺は一人で良いが、てめえらはこの茶髪の姉ちゃん含めた全員で振れ。その合計値で構わねえ」
「……なに?」
曹玲の柳眉がひそむ。
ウォルフ一人に対するは、大和、曹玲、そして美琴の三人だ。
ということは、ウォルフが二つ合わせて六以下を出してしまった時点でこちらの勝利が確定する。
確率的に言ってもあまりにイージーだ。それを曹玲が眼に含ませ見据えても、ウォルフはただ口の端を上げるだけ。
「お前らが勝てば俺はとっとと退散してやる。だが、俺が勝てば……」
見開かれるは猛獣の眼。それが大和と曹玲を厳しく睨み付け、
「てめえら二人共、この場でボロクズに変えてやらァ。もちろん、勝負を断れば――」
そこから先は言うまでもない。
ボギン、と。指を鳴らしての殺害予告。
その提案も、言動も態度も全てが不遜で諧謔に満ちていた。
ともすれば侮辱とも嘲弄とも取れるウォルフの行為は、大和の感情を熱するに十全だったが、
「分かった、やろう」
あくまでも冷静に。曹玲はその遊戯を受けていた。




