ロゼネリア・ヴィルジェーン
「キーッ! 待たんか大和ぉ!」
「お、お前だって俺のこと笑ったじゃねーかよ!?」
「あたしはハゲだのなんだの言っとらんわ!」
ドタバタドタバタ。
馬鹿にされまくった美琴はぷんすか怒って大和を追いかけ回していた。
必死に逃げる大和だが、かばんを二つ持っているため分が悪い。だが追い付かれてたまるかと、走って走って走りまくる。
ばたばたとあちこちを動き回るもんだから、目立たず地面に積もっていた瘴気がダストのように宙に散る。それくらいなら吸ったところで影響はないのだが、
「ッ! 神崎さん危ない!」
「――え?」
咄嗟のチェルシーの叫びに呆けた表情を向ける美琴。
そんな美琴の足元のアスファルトには亀裂が走っており、ものの見事に足を引っかけて「んぎゃ!?」と素っ転び、それを見たチェルシーが僅かに、ほんの僅かに顔をしかめていた。
「あーあ、大丈夫かよお前」
地面にうつ伏せになって膝を押さえている美琴の元へ、大和は苦笑しつつ近付いて声を掛けていた。
だが、反応が無い。不審に思った大和が「おいっ!」と声を荒げてしゃがみ込む。
「っさいわね……、聞こえてるって……」
「起きられるか? 膝見せてみろ」
「へーき……だって」
「いいから」
有無を言わさず抱き起こす。
反射的に苦悶の声を上げる美琴の様子に息を呑むが、顔には出さず冷静に対処する。
すかさずチェルシーもその場に向かうが、「たはは」と美琴は笑ってみせた。
だが、美琴の白い膝は擦り切れてしまっていて、真っ赤な血がジワジワと染み出ている。
「血ぃ出てんじゃねーか」
「だいじょぶだってこんなの」
「いや神崎さん……これは……」
強がる美琴であるが、そのケガの箇所に起きていた現象をチェルシーは見逃さなかった。
それは大和も同じくで、顔を寄せて美琴の膝を注視する。そして――
「ちょっと我慢しろ」
「つつ……!」
突如、大和は美琴の膝の辺りを手で払った。その指先に付着していたのは、昼に彼が女子生徒から取り除いたのと同じような、濃霧のような瘴気であった。
手の中のそれを握り潰しつつ、険しい顔つきで大和は漏らす。
「くそ、人通りが無かったから積もり溜まってやがったんだ。傷口に入り込んでる。……ちっとやっかいだな」
どこにでも発生するこの紫の毒ガスは、少量が体表に纏わりついているくらいならば、正直そこまで慌てるものでもない。
普通、ガスに対する抗体のようなものが人間、特に日本人には備わっている。寄生された者の体力が十分ならば、瘴気は自然と消滅していく。風邪と似たようなものかもしれない。ただ、弱っている者や、心が荒んでいる者は格好の餌食となってしまうのだが。
ともあれ、神崎美琴も立派な健康体だ。普通であれば大和が取り除いた瞬間にでも回復するのだが、面倒なことに傷口を通して体内に侵入してしまったのである。
こうなった場合、瘴気を取り除くには特殊な札を用いなければならない。その手段もそうだが、何より長い時間が必要になってくる。幸い大和は特殊な神主のせがれとしてその方法を知っているので、時間があれば十分対応可能だ。
「うちに来い。そんで明日は学校休め」
「ん……」
しぶしぶ了承する美琴であるが、そこでチェルシーが発言する。
「わたし、良いお医者さん知ってます」
「医者?」
大和が問い掛けると、「はい」と返答してチェルシーは続ける。
「わたしが日本にきたばかりのころ、同じように瘴気で体調を崩してしまって。そのときたまたま出会ったのがそのお医者さんなんです」
「ふーん……」
チェルシーの話を聞いてしばらく逡巡していた大和であったが、やがて思い至ったように拳をパンと鳴らした。
「じゃ、そこ行こうぜ。案内してくれ」
「はい。……結構あっさり決めるんですね」
「こういうときのお前は真剣だからな。疑う理由なんて無い」
「っ……」
いたずら好きなチェルシーであるが、緊急の事態には人一倍まじめになって行動する。そうした彼女を見てきたからこそ大和はチェルシーを信用しているし、なんだかんだで嫌えない。もちろん、それは美琴も同じこと。
「たはは、じゃあお願いしよっかな」
「……はい」
大和の言葉に我知らず瞠目していたチェルシーが、汗をかいて苦笑する美琴の声に対し、顔を背けて伏し目がちに……返答した。
疑問に思った大和が思わず問う。
「なんだお前、どーした?」
「……いえ、なんでも。それでは行きましょう」
それもそうだと、大和は美琴の方を向いて言った。
「ほら、おぶってやるから乗れ」
「え!? い、いいよあたし歩けるから!」
「こんなときまで強がんなよ」
「強がってないって! ほらっ!」
ズバッと勢いよく立ち上がる美琴。
が、すぐにそれは顔に出てきた。
「んぐぐ……ぎっぎ……」
ポロポロポロ……。
引きつった無理やりな笑顔からだだ漏れてくる涙。
生まれたての小鹿みたいにプルプルと件の膝が震えて、今にもぶっ倒れそうである。
「……ああもうてめーは!」
毒づきながら、大和は強引に美琴を引き寄せて一息に背負い上げた。
「わっわっ! い、いいってもー!」
「お前、世話を焼かれんのは好きじゃないよな」
「や、その、好きじゃないっていうか……」
「いいからたまにゃ大人しくしとけ」
「……ん、わかった」
ぽすっと、ようやく大人しくなった美琴が大和の背中に身体を預けた。
気恥ずかしさから、口を「むうぅ~……」とへの字にさせて、
「……変なとこ触んないでよ?」
「つってもお前の胸まっ平らだから感じようが――痛い痛い!」
失礼すぎることをぬかす奴にゴンゴンゴンと抗議の頭突き。
そんな彼らのやり取りを眺めたチェルシーが、ふと手を出してきた。
「かばん持ちますから貸してください」
「全部で三つだぞ? こんなん大して重くねーから気にすんな」
「こんなんで悪かったわね……」
無礼な発言に対し、背負われつつもジト目で呪いを吐く美琴。
一方のチェルシーは、まあまあと半ば強引に大和から鞄をふんだくり、両手によいしょとぶら下げた。
軽く嘆息した大和だが、せっかくの好意だ、甘えることにする。
「疲れたら言えよ」
「へーきですって。それより急ぎましょう。陽が傾いてしまいます」
「……あいよ」
冗談モードも消えている。
一体どちらがチェルシーの素顔なのだろうか。
……いや、きっと素顔とかではない。両方含めてチェルシーという人間なのだ。
不躾な想像をしてしまったと内心謝りつつ、もう一度美琴を抱え直した大和はチェルシーの後を追いかけた。
「うーん……」
大通りに出ると、やたら街の人間の視線を感じる。というよりぶっちゃけジロジロ見られてる。
美琴をおぶっていることで目立ってしまい、注目を浴びているのだろう。
彼女も自覚しているのか小さく縮こまっている。
だが、そんなこと気にしていられない。美琴を治すのが先決だし、陽が落ちないうちに帰るのが望ましいのだ。頭の中で逆算しつつ、呟くように大和が言った。
「四時近いな。暗くなる前に済ませたいとこだが」
「もうすぐです」
その言葉に反応したチェルシーが案内を続ける。中心街から小道に逸れ、少し進んだところにそれはあった。
「あ、ここですよここ」
「ふわぁ……」
先を歩いていたチェルシーがピタリと止まり、件の診療所の前で美琴らを促した。
思わず美琴が感嘆の息を漏らしたのも無理は無い。なぜならその場所がこの上なく清く、白かったからだ。
まるでそこだけ天上世界から降り立ってきたかのような、美麗な空間。
外観は二階建てのよくある町医者のものだが、その壁は染み一つ無い白皙の如き美しさ。そう、美しすぎるほどに。
当然ながら、辺りに紫色の瘴気は全く見えず、どころか雑草一本すら生えていない。滅菌され尽くした光景は手術室を思わせる。妙な畏怖が感じられ、端的に言えば息苦しい。
「……よし、入るか」
とはいえ、二の足を踏んでいても仕方がない。そもそも病院というものに対して億劫な気分になるのは当然なことだと、大和は自身を納得させる。
チェルシーに扉を開けてもらい、美琴を背負ったまま真っ白な領域へと足を踏み入れた。
「こんにちは」
中に入ると、正面で受付をしている看護師の女性が微笑みながらあいさつをしてきた。
それに会釈で応じて、大和はそこまで歩いていく。
「えーっと……」
「彼女、膝を擦りむいてしまって。化膿しないように連れてきました。お願いします」
大和がどう説明したら良いものかと言いあぐねていたら、横からチェルシーが助け舟を出してくれた。女性が「お名前は?」と聞いてきたので、後ろの美琴も「あ、神崎美琴です」と答えた。
「はーい、では座ってお待ちください」
気さくな対応をしてくれる女性看護師の指示を受け、近くのソファに美琴を座らせ、大和とチェルシーも並んで腰掛ける。
「医者当人以外は一般人なので」
「ああなるほど」
受付を済ませて余裕ができたので、辺りを見渡せば確かに普通の町医者といった感じである。患者が数人いるが至って普通の人たちだし、設備も変わった様子は無い。外壁と違って壁や床も白にこだわっているわけではないようだ。
ということは、表向きは内科ということで経営し、超常の処置を大っぴらにしているわけではないのだろう。
「痛むか美琴?」
「うん、へーき……」
笑顔を見せてはいるが、声に覇気は無く、額に汗も掻いている。
明らかな強がりだが、ここは美琴の意を酌むべきだ。黙って順番を待つことにした。
そして、一人二人と診察を終えた人が奥から出てきて、ようやく美琴の順番となる。
「つきそいオーケーなんで、わたしたちも行きましょう」
「分かった」
再び美琴をおぶって、診察室へと進んでいく。
すると、優しい声が彼らを出迎えた。
「あら、久しぶりねチェルシー」
「どーも、ロゼ」
一行を上品な笑顔で迎えるのは白に近い、プラチナブロンドを腰まで靡かせる淑女であった。純白の衣を纏い、室内の中心で椅子に腰かけている。
三人を見渡した彼女は穏やかな声音で続けた。
「初めまして、私はロゼネリア。ロゼネリア・ヴィルジェーンと申します」
くすりと、柔和な笑みを浮かべる様子はまるでそう――天使か慈母のようであった。