生まれなき者の儀式(ボーンレス・リチュアル)
「ふふ、言われようのない怒気を向けられても困ってしまいますね」
彼方より叩き付けられる猛獣の気を、鷹揚と流すロゼネリア。
「……ロゼ?」
「突然どうしたのよアナタ?」
それを怪訝に思った横の二人が彼女に問うが、「何でもありません」とロゼネリアは微笑んだ。
改めてロゼネリアが視線を動かし、先ほど越えた古めかしくも厳かな鳥居を捉えていた。
「それにしても、やはり彼女は我々には厳しいようですね。身体に鈍りを感じます」
「アタシも上手く腰が振れないもの。腰痛になっちゃう」
苦笑いを浮かべてロゼネリアが境内のブロックを踏み歩けば、同意するようにマッカムが器用に腰をカクカクさせながら彼女に続く。「いや振らなきゃいいじゃないですか……」とジト目をマッカムに向けるのはチェルシーだ。
第四のロゼネリア・ヴィルジェーン。
第五のマッカム・ハルディート。
第六のチェルシー・クレメンティーナ。
今ここに、大和の陽明神社に三体の天使が集結していた。
彼女らはなおも歩く。参拝者がお参りをする拝殿の向こう側、神主さえ立ち入ることができない本殿へ向かって。
僅かな逡巡も無く、ロゼネリアたちは厳重に封された本殿の扉を開け放った。
「なるほど、これが……」
「……何だか、腰にビンビン来るわ」
「……っ」
超人である彼女らを以てしても瞠目させるほどの荘厳な雰囲気。
三人の視線の先、それは太陽神天照が祀られている本殿の中の御神体であり御霊代。古めかしい台座の上に、丁重に安置されていた。
それは赤い。ギザギザと、八方手裏剣のような平たいその赤い石は太陽を模している。
伊勢神宮にある天照の御神体は八咫鏡であるが、ここ陽明神社の赤い石も、それに負けず劣らずの厳粛さを放っている。それは鋭利な風となって三者の神気を削っていく。
神聖な本殿。清めすら享けていない一般人――いやそれ以下の堕天が文字通り土足で上がり込んでいるのだ。太陽神の怒りを浴びるのも当然のこと。
「……まあ、どうかお怒りをお静めくださいな」
言って、ロゼネリアが無遠慮に御神体に手を伸ばし――即座にそれは激しい光を放って彼女の手を焼き退けた。
「あら、女性同士ですのにお堅いですね。ふふ、それにしても、私に傷を付けるとは流石といったところでしょうか」
傷付いた、自らの右手を眺めてなお目を細めるロゼネリア。
「でもごめんなさい。それでも私たちは、どうしてもあなたをこちらに連れてこなければならないのです」
「……いよいよね。チェルシー、始めるわよ?」
「ええ」
御神体を囲い、中心に位置させるように、ケセド、ゲブラー、ティファレトの三人がそれぞれ移動した。それはさながら三角形。
三者は厳かな面持ちをして儀式に取り掛かる。
「ミヌトゥム ムンドゥム シウェ フンダメンタル コローリス――」
第四のロゼネリアが威厳を携え言い放つ。これは色を、そして存在を確認するがゆえの行為。
ケテルは至高であり森羅万象の頂。それは無と有を共有する聖なる純白。
コクマーとは灰色。ぼやけたそれはあらゆる色を綯い交ぜにした証。
ビナーは逆だ。ブラックホールよろしく全てを呑み込む深淵の黒。
この偉大な三頂がそれぞれ佇む。互いに干渉し合い、けれども決して崩壊しない不可侵のトライアングルが創造されるのだ。
同時に――場が震え、空間がずれた。
靄掛かった空間が飛び出し、そこにロゼネリアら三名が呑み込まれてゆく。
『――ッ!』
彼女らは目の当たりにする。そこで距離と座標を無視して鎮座する規格外の星たちを。
土星が浮かんでいた。及び、隣接する天王星よりクスクス笑う第三の声が。
蒼き、冷たく輝く海王星より第二の厳めしい視線が向けられる。
そして――この不可思議な空間を以てしても遥か遠くに位置する冥王の星より、第一が無言でロゼネリアたちを見下ろしていた。
「ァ――」
そこでチェルシーが頽れた。両手で身体を掻き抱き、どさりと膝を地面へ付ける。
呼気を乱し、喘鳴する全身から滝のように汗を流している。
「チェルシー!」
思わずマッカムが声を掛ける。サングラス越しゆえ表情は読めないが、流れる汗により彼にも相当の負担が掛かっていることが窺えた。
だが、そこでロゼネリアがマッカムを手で制した。
「立ちなさいチェルシー! 無礼ですよ!」
「……ッ」
ロゼネリアの檄が飛んだ。常に貞淑な彼女からは想像できないほどに声を荒げて。
けれど、これは当然の反応だ。
なぜならば、ケテルもコクマーもビナーも、ロゼネリアらに対して何ら危害の意を向けていない。ただ、自然にこの場に佇んでいるだけ。
だというのに、チェルシーは勝手に崩れた。三頂が垂れ流す威武に中てられて。
威厳とは高位の者なら当たり前に有する覇気だ。
一体誰が、厳かな謁見の間であぐらを掻くことを許すと言うのだろうか。
「申しわけ……あり、ません……」
チェルシーもそれを弁えている。
だからこそ、屈した膝に喝を入れ、彼女はどうにか再び立ち上がった。
「不躾な態度……どうかお許しください――メイザースよ」
決死の思いで、彼の冥王星に向かって不忠を詫びるチェルシー。
それに対し、冥王は、メイザースは、
『構わぬ』
と一言だけ返していた。
「――…………ッ――!?」
その――圧倒的な――重圧感。
絶対的な王が放つ言葉には、物理めいた神威が内包される。
対話をしただけで、チェルシーは圧死するのではないかと戦慄いた。
直接言葉を交わしていないロゼネリアとマッカムも、成り行きを見守るだけで精一杯だ。
生命樹の天使群、第一、冥王――マグレガー・メイザース。
英国、全盛期の黄金の夜明け団において首領であった男。
大天使を超えた存在は、かつて人の身であった。その眼に、怨嗟と焦熱を轟々と宿らせて。
『空虚に佇む第六を、見事反転させて闇色に輝かせるがいい。幼き陽女神よ、期待している』
「――はい……!」
その言に、チェルシーはただ畏まって頭を垂れた。
『さて……王冠よ』
「――はっ」
そこで、ほんの僅かだけ冥王の言葉に険が含まれる。
それにより場が一気に冷え固まるが、ロゼネリアは表情には出さずに応対した。
『私はそれなりに長く生きた。嗄れた喉や皮膚と共に、感情の角も取れてきたと自覚している。――だが』
言葉を切り、メイザースが憤怒の奔流を迸らせる。
『クロウリーだけは許せぬ。奴自身も、奴が遺したくだらぬ神秘もだ。塵も残してはならぬ』
「……っ、承知――」
激情の雪崩を浴びたロゼネリアが、さすがに今度は肝を冷やした。
長い白金の髪はバタバタ煽られ、その唇からは我知らず噛み千切った鮮血が流れている。
されど怯まず、彼女は全霊の意志で言上する。
「だからこそ、どうかお力を貸して頂きたいのです。愚蒙なアレイスター・クロウリーの術式を、この世界から滅するために」
『……よかろう』
ロゼネリアの祈りに応え、ようやく戮力の意思を見せるメイザース。
『……』
静観を続け、小さくため息を漏らす第二。
『あらあら大変ですのねロゼ。クスクス』
そして異彩を放つのは、唯一女性である第三の声だ。
フレンドリーで愛嬌のある模様であるが、それに騙され不用意に近づけば、即座に身を以て彼女の恐怖を知ることになるだろう。
そして今ここに、至高の三角形が光柱を顕現させた。
だが、その神力は想像を絶するほど膨大だ。
無論、その三頂の力を直接受け取る三者の負担も計り知れない。
「く……っ!」
「ウフッ、これは……中々ね……!」
チェルシーとマッカムはその蹂躙劇に我知らず顔を顰めていた。
「二人共……決して膝を折ってはなりません……!」
不敬は死罪。言外にそう忠告するロゼネリアにチェルシーとマッカムが気を引き締めた。
「つ……うう……ッ!」
まず降り立つのはケテルの栄光だ。その輝きは第六に黄色を反映させる。
「く……、ふふ、相も変わらず不機嫌ですねムルソー」
「あぁん! ま、毎度毎度女の子にイカされるなんて……、く、悔しい!」
次いで、コクマーは第四に青を反映させ。
ビナーは第五へ赤色を。
こうして、反映による第二の三角形が形成され、その甚大な魔力が太陽の御神体を完全に包囲する。
彼らが狙うは太陽の反転。神崎美琴が一度黄泉に堕ちたことによって不安定となった陽は、今や触れれば揺れる振り子のように危うい。
だからこそ、ケテルから力を授かったティファレトが、天照の影響から脱して反転するには、今このタイミングを置いて他に無い。
黄色い光を纏うチェルシーが、畏れと痛みをどうにか捻じ伏せ、双眸に神力を漲らせて儀式の言の葉を発し始めた。
‘昏迷なる洞穴’
‘煢然し、跫音鳴らす旅人’
‘畏れを棄てよ。弓手を拡げ、五色の爪痕を遺せ’
口から神威が紡がれる。
その思念が、三角形の辺を周回しつつ徐々に内側に浸食するように。
‘閃爍する一本の矢’
‘梏桎解き、手握る咎人の馬手’
‘引き絞り、雲頂の鱗を破る嚆矢とせよ’
十字を切り、チェルシーは再度祈る。
‘鳴動し、黒雲は大地を穿つ槍を落とし’
‘黒白の車輪は轍鮒を招く’
‘陰雨、沛雨、紅雨、凍雨、叢時雨――’
‘我は肯んじない’
‘暁の鐘の音が、遍く凋枯に寿ぎをもたらさん’
誓いと共に、開かずの扉を抉じ開ける。
その勢いのまま正面から喝破する。
‘我は慊焉する。翡翠の穂波と嘴を’
‘我は慊焉する。夜殿の巻尾と由無し言を’
太陽の御神体がある三角形の中心に、やがて天をも衝く柱が顕現された。
それは‘均衡の柱’
第一、第六、第九、第十を繋ぐ中央の柱。
それを伝い、ケテルの至高の純白が舞い降りてくる。
‘雲海より輝く陽の出となりて’
‘悠久の営みを赫奕たる息吹で包み込まん’
純白が御神体へ注がれゆく。
じわじわと、真っ赤なそれが白化されていき――
‘六曜よ、三王よ、我が霓裳を纏い、虹の輪廻を繋錠せよ’
第六は生命の樹の中心。
ならば九のセフィラよ公転せよと、大見得を切って燃え上がるのだ。
御神体の柱頭に聖なる光が到達し、同時にチェルシーは夢想した。
照臨する自分を。蕾裂き割り花開かせる自分を。
赤は白へと成り変わる。
至高の純白が御霊代を飲み込んでいく。
その光を見据え、厳かに言い放つ。
‘我は太陽。日輪の華!’
御神体を完全に白化させた輝きを、今度は自分の許へと手繰り寄せて――
吸収し、瞑目し、
今ここに――チェルシー・クレメンティーナは新生する。
ゆっくりと、その慧眼を開かせて――
‘唯、この瞳で四の天淵を照臨せん’
ここに、儀式及び第六の反転は終了した。
光を根こそぎ奪われた太陽の御神体は、今度は一変して闇色に染まっていた。
「――……フッ……、ふう……っ」
「お疲れさまですチェルシー」
張り詰めた糸を切らし、大きく息を切らすチェルシー。
じわじわと、陽色に染まった双眸が元の碧眼へと戻っていく。
その視線で見渡せば、いつの間にやら不可思議な空間は姿を消していて、元の陽明神社本殿に足を付けていた。
「……メイザース」
呆けた意識で呟くが、返事は無い。
用は済んだとばかりに、彼ら高次存在は再び三王世界へと舞い戻ったのだ。
「ハアー……、全く肩凝っちゃったわよもー」
「マッカムもお疲れさまです。……これはこのまま安置しておきましょう」
気疲れと気怠さから、肩をグルグルと回すマッカム。
彼に労いの言葉を掛け、ロゼネリアは黒く変色した御神体が台座の上にあるのを確認していた。
(…………)
一方のチェルシーは、儀式によって表裏を変えた第六の神気に目を向けつつも、これといって大きな変化の無い自分に戸惑っていた。
「心配ありません、見違えましたよチェルシー」
「……え?」
見透かしたように微笑んでくるロゼネリアに、思わずチェルシーは影を落とした。
「でも……」
「徐々に馴染んでいくわよ。てゆーか反転したからって、そりゃ影響の多寡はあるにせよ、必ずしも何もかもが逆転するわけじゃないし。あなたはあなたなのよ、好きになさいな。あたしのようにね、フウ――ッ!」
そこに割り込むマッカム。彼なりのアドバイスを送り、腰を振る。ドン引きされても振る。
弛緩した空気が流れ、各々が肩の力を抜いた――その瞬間。
『皆さん、本日はお疲れさまでした。今夜はゆっくり疲れを癒してくださいませ』
飛来する第三の声音。一転して場が緊張の一色に染まり上がった。
『ロゼもマッカムも、そしてチェルシーも。見事な立ち居振る舞いでしたわ。メイザースも満足そうにしておりました』
天上より偽りなき称揚の言葉が降りそそぐ。
三者は畏まってそれを頂戴した。
『これでわたくしも安心して二径を創造できるというものです』
ギーメル。ケテルとティファレトを繋ぐ二番目の径。
二十二の大アルカナの中で唯一天使化されていなかったもの。
その理由はいくつかあれど、歴代第六が太陽を完全に掌握できていなかったことが大きい。
反転していない未熟なティファレトにケテルの威光を流し込めばどうなるか、それは火を見るよりも明らかだ。
言い返せば、今の第六には径を通しても問題ないという、ビナーからの最大級の賛辞が含まれているのだ。
だからこそ、チェルシーは瞑目して頭を垂れた。
『そう慎むことはありません。これはわたくしからの贈り物ですわ』
ひらり、と空より一枚のカードが舞い落ちる。
それがゆったりとチェルシーの許へ降りる――寸前、突如として風が吹き、それに煽られたカードがくるりと回転してから、
「――……ッ」
ロゼネリアの右手に収まった。
『あらまあ、春風の悪戯でしょうか。せっかくなのでロゼに差し上げます。今度は無くさないようにしてくださいね』
「……」
二十二ある大アルカナの最後のカードを施す第三。
そしてロゼネリアは過去に二十一の天使を使い捨てた。
これはビナーなりの意趣返しなのか。
黙し、固唾を呑み込むロゼネリアに、ビナーが咲みながら続けた。
『そうそう、あの子のお腹、わたくしが治しておきましたわ』
「――」
『パッと花開くお日さまの笑顔が見たかったもので、つい。ご迷惑でしたでしょうか?』
「……いえ、お手を煩わせました」
『お気になさらず。では皆さま、幸運を』
ふわりと言い残し、ビナーの女神は気配を消した。
静寂が訪れ、しかしロゼネリアは手中のカードを穏やかならぬ眼差しで射抜いていた。
「…………、」
示されたのは女教皇の逆位置。
女教皇とは英知や女性らしさといった意味を内包するが、それが反転してロゼネリアの手にあるわけで。
「ふふ……、私が無能でヒステリーですか。少々、戯れが過ぎませんか天華よ」
口元に弧を描き、ロゼネリアはそのタロットカードを握り潰していた。
「ロゼ……あなた……」
「何でしょう、マッカム」
先のやり取りから、浮かんだ様々な疑問を混ぜて訝しんでくるマッカムを、ロゼネリアはその一言で黙らせた。口調こそ穏やかであったが、瞳には紅蓮の光が宿っていたからだ。
そしてそれは――決定的な軋轢と葛藤の芽を吹かせていた。
外へと出た三者は再び本殿を封じ、木の葉と砂利を踏み鳴らす。
「ねえロゼ」
「どうしました?」
チェルシーが俯かせた顔を上げて問う。
「わたしがちゃんと働けば、もう誰も死なないんだよね?」
「……ええ、その通りです」
相好を崩したロゼネリアがチェルシーの頭にポンと手を乗せた。
「あなたがご自身で日輪の輝きを空に満たせるのならば、誰も死なせることはありません」
「でも……それって――」
言いかけたチェルシーの頭からフッと消える温もり。
「少々用事ができました。各々神気を研磨しつつ待機してください」
「あ――」
チェルシーの手が虚しく空を切る。すでにロゼネリアは鳥居の方へと向かっていて、背中越しからはどういう表情をしているのか、チェルシーには判断が掴めなかった。
だらりと垂れた右腕に、反応するように木陰が突然ざわめいた。
「子猫……?」
見やれば、痩せた黒い子猫がチェルシーを見つめていた。
吸い込まれるように、チェルシーがその場へと近付いて、
「お母さん、いないんですか?」
しゃがみ込み、手を差し出していた。
かぷりと、指を甘噛みしてくる黒猫に対して苦笑するチェルシー。
「わたしも……家族いないんです」
子猫を抱いて、立ち上がる。
「なんだか、よく分からないなぁ……」
「…………」
力無く呟くチェルシーを、マッカムは無言で見やっていた。




