忍び寄る魔獣
陽が消えた瓶詰めの夜。そこを闊歩する数多の妖魔。
世界中を大パニックに陥れた怪異現象は掻き消え、人々は以前の生活を取り戻しつつあった。
その中でも日本の対応力は凄まじく、この数日で公共機関は概ね回復に向かっていた。
早朝、人々を元気付ける朝日が昇る下で、急行電車が走っていた。
用心として、各学校が未だ閉鎖を続けているために学生はおらず満員とは行かないが、経済を回すために働く勤め人たちによって座席と吊り革は埋まっている。
いや、例外が一つだけ存在していた。
中間車両。車内で最も混雑するはずのその場所は、何かを怖れて避けるが如く人がまばらにしか存在しない。まるでそう、災害から逃げるように。
「おいコラ外人、なに俺にガンくれてんだ」
その車両の一角で、剣呑な空気が立ち込めていた。
言葉を発したのは頭を茶色に染め、両耳のピアスを筆頭に人を威嚇する服装と態度で固めた若者だった。
荒事には慣れているのだろう。まばらとはいえ無人ではない公共の場において、衆目を集めることを怖れていない。絡んでいる相手に向けた睨みもなかなか堂に入っている。
裏付けるように、周囲の人々は我関せずといった無関心を貫いていた。若者の暴力に対する引き金はあまりに軽い。立ち入ればその的が一つ増えるだけと、皆弁えていたからだ。
加えるならば、対象の人物が金髪を目立たせた外国人であったことも大きい。この国において、問題の火種になりやすい他国の人間には関わらない方が良いと、暗黙の了解となっているからである。
と――普段であればそうだったはずである。
冷静に考えて、ガラの悪い若者が一人二人いたところで、空いている時ならともかく満員に近い人波をこれだけ遠ざける効果があるだろうか。
答えは否である。個人の持つ暴力など、押し寄せる圧倒的な数の前には無に等しいのだ。
であるにも関わらず、人々は何かに恐怖している。
無関心を演じているわけではない。察知能力に欠けたがゆえにこの場に居合わせてしまった己の未熟さ不運さを呪いつつ、せめて矛先を向けられないよう空気の一部となることに全力で臨んでいるのであった。
羽虫もヘタに飛ぶからこそ潰される。人智の及ばぬ怪物に対して、人はそうするより他に方法が無い。
「……おい、聞いてんのかよ……」
よく見れば、茶髪の若者は脂汗を流していた。
口元もおぼつかず、乾いた口内から発せられる言葉は聞き取り辛い。
戦慄している。だというのに噴火前の火口に顔を覗かせるのは蛮勇を求めているのか、不良としての意地か。
いずれにせよ、愚かであった。
彼が相対しているのは、人の形をした災害だったから。
「ハッ」
災害が、怪物が嗤う。若者の矜持を屑同然に吐き捨てるように。
その一挙一動が、車両内の空気を掌握して凍り付かせる。
二十歳には届いてないであろう、幼さを僅かに残した金髪の悪童。
金色をしたウルフヘアーを天に衝かせ、その首元にはどういうことか頑強な鎖が巻かれている。まるで猛獣を縛り付ける首輪のように。
異常な出で立ちだ。悪目立ちしたそれは見方によっては奴隷か家畜を連想させる。
しかし、金髪の彼は全く意に介した様子を見せずに足を組み、座席端の手すりを利用して頬杖を付いた楽な姿勢を維持している。
すると、人を人として扱わない冷酷な眼差しを若者に向け、口の端を上げて犬歯を見せた。
「無理すんなや兄ちゃん。膝が笑ってんぜ?」
「……あぁ?」
尊大な態度で小馬鹿にしてくる外国人に、茶髪の若者が反抗する。
だがしかし、それは所詮上辺だけのものだった。
金髪の少年に射竦められ、先ほど以上に全身を戦慄かせて歯の根をカチカチ鳴らしていた。
称賛すべきは未だに両の足で立っていることだろうか。いや違う、彼はもう身動き一つ取れないのだ。
「フン」
つまらなそうに鼻を鳴らす金髪の少年。
続いて不敵に笑いながらゆっくりと頬杖の姿勢を解き、横にある手すりにそっと小指を当てていた。
それを怪訝に見つめる若者をよそに――スライド。
「な――!?」
ベギンゴギンと、緩慢に動く小指が苦も無く金属製の手すりを破壊する。
歪に曲がり、毛羽立つように引き千切られた切断面は、激痛に叫ぶ口そのものであった。
鎖の首輪をした怪物がニイッと嗤う。猛獣特有の、何を考えているか人には理解できない恐ろしい眼で以て。
「ぁ――あぁ……!?」
ゆえに、若者は慄然とした。怖れのメーターが許容量を振り切ったのだ。
一歩二歩と、泥酔したかの如くフラつきながら後退し――反対側の扉に背中をぶつけると同時にへたり込み、手荷物をぶち撒ける。
そして――
「おいおい、情けねえヤローだな」
金髪の怪物が嘲笑混じりに言い放つ。
彼の視線の先、つまるところ若者の下腹部から液体が漏れ、水たまりが出来上がっていたのだ。大の男による失禁。しかしそれを笑える者など一人を除いてここにいない。
変わらぬ嗤笑を上げたまま、金髪の彼が足元を見やる。
ばら撒かれた荷物には麻雀牌や酒類、つまみなどが確認できた。
一杯引っかけながら知人と賭け麻雀でもするつもりだったのだろう。
「朝っぱらから良いご身分だねえ。ま、何にせよ――」
言い放ち、転がってくる缶ビールを蹴飛ばした。
紙一重、絶句する若者の真横を通過したそれが背後のドアに派手にぶち当たる。
豪速で跳ね返ってきた缶を難なく掴んだ金髪が、馴れ馴れしい態度で若者に近付いた。
「良い歳こいてそれじゃあカッコ付かねーだろ? ごまかすの手伝ってやんよ」
しゃがみ込み、グシャリと中身入りの缶を握り潰す。シェイクされて泡立ったビールが噴水よろしく飛び出した。一直線に若者の下腹部へ到達したアルコールがバシャバシャと上書きするように濡らしてゆく。
「よーしよし、これでもうバレやしねえよ、良かったな。おっと、ついでに顔も洗ってやるよ」
「ひ――ィァ――……」
悪辣な笑みを浮かべた金髪の少年が、今度はビールを若者の頭へと無遠慮に流し込んだ。
涙、鼻水や涎といったものが強制的に洗い流され、けれども彼は声を上げることすら出来はしない。もはや心も体も冷却され、虫同然に呼気を続けて震えるだけだ。
「なかなか良い男になったじゃねーの。ま、これからは怖い人相手にするときゃ、しっかりとオシメを付けとくべきだぜ兄ちゃん。ハハッハハ!」
ポンポンと、気安く若者の肩を叩く金髪の怪物。
周囲に点在する畏怖の念を歯牙にも掛けず、哄笑ぶち撒け立ち上がる。
タイミングよく電車が駅へと辿り着く。ドアが開いて降りる寸前、怪物は足元に転がる麻雀用のサイコロを二つ手に取った。
「お駄賃だ、貰ってくぜ」
口の端を歪め、ひらりと若者に手を振ってから電車を後にする。
そして、ホームでグッと伸びをしてから「こいつは良いおてんと様だ」と、機嫌良く天を仰いだ。
「なんせ俺の女はあんたの化粧が無えと出てこれねえシャイな性格でよォ」
陰と陽は表裏一体。どちらが欠けてもそれはもう不完全。二面が同じコインなど、賭けの遊びにすら使えない。
ゆえに、月の対極である太陽が半端だと彼は非常に困るのだ。
月を愛し、その愛を勝ち取り掴んだ男――ウォルフ・エイブラム。
第九のセフィラを含有する、悖逆の一匹狼。
視線をついと彼方へ注ぎ、彼は独りごちる。
「ククッ、陽光の女神さま候補にあいさつしとかねえとな」
天照を内包する神崎美琴。
第六の覚醒に挑むチェルシー・クレメンティーナ。
世を照臨するのはどちらの方か、ウォルフはそれを見極める。
月を照らし、輝かせるのは、眩く燃える太陽以外に存在しないのだから。
「だからしっかり仕事しろよ木星。いや……」
一度言葉を止めて、溜め込んだ威武を眼孔に乗せて彼は都内の方角を睨み付けた。
「穿き違えんなよ――ロゼネリアッ!」




