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久方の食事

「……おいねーちゃん、こりゃ一体どーいうこったよ?」


 八城大和の眉間が物凄いことになっていた。メンチ切ってガン垂れてツッパっていた。

 大神実オオカムズミが崩れ去った理由を説明しろコラ何とかしろコラ早よしろコラと捲し立てている。


「うーむ……」


 対する曹玲が腕を組みつつ目線を左上に向けて唸る。

 そしてハッとした表情で、そのままテーブルに向かい、


「とりあえずカレー食おう」

「……よーし動くなよ。俺が『あーん』してやらあ」


 こめかみに血管を浮き立たせた大和が嘔吐えずかせる気満々で曹玲の元へと近付いていく。さすがに慌てた曹玲が「まあ待て」と彼を制した。


「せっかく神崎が魂削って作ってくれたんだ、冷ましてしまっては失礼だろう」

「その美琴を放置していきなりカレーをバクバク食おうとしてるてめーの神経が分からねえよ。殺すぞ?」

「確かに大神実はなぜか朽ちてしまった。だがこれならどうだ?」


 言って、曹玲は新たに掴んだ物を再び美琴に投げ渡す。


「わっとと……」


 慌ててそれをキャッチする美琴。

 次いで、その物体が放つ甘い香りが彼女の鼻孔を優しく撫でた。


「これ……は」

「桃だよ。スーパーに売っているごく普通のな」


 確かに、何の変哲もないただの桃である。

 それでも、ぷっくりと膨らんだ実は果汁が多くて甘そうで、見ているだけで頬が緩む。


「あ、れ……?」


 その違和感に美琴はすぐに気付いた。


 この桃を見ておいしそうだと、食べたいと、そう思ったのだ。

 横顔を滑り落ちる雫の橋が、我知らず流れ出た涙と理解するのに数秒かかった。


 きゅう~っと、小さく切なげに主張するおなかの悲鳴が上がる。

 徐々に大きくなるそれを耳にしつつ、滲む視界で美琴が曹玲を見やると、


「食えるよ。安心してかぶりつけ」

「~~っ!」


 目頭が熱くなった。眉間にはしわが寄り、口もへの字になっていて、お世辞にも綺麗だとは言えない表情だった。

 でも、それは神崎美琴が心の底から発したもので、だからこそ血の通ったその反応は大和と曹玲に笑みを浮かべさせたのだ。


 二人の視線を受けながら、美琴は桃にかぶりついた。

 瞬間、甘ったるい味と香りが彼女の全身を満たしていく。美琴の渇きを潤していく。まるでそれは渇水地に降り注ぐ、恵みの雨のようであった。

 ぽろぽろと涙がだだ漏れる。口内がピリッと痺れて痙攣する。ブルブルと膝すら震わせ、けれど美琴は食べるのを止めない。止められるはずがない。


 ただの桃。お店に行けばどこでも手に入る普通の桃。だけれど、それは美琴の餓えをどこまでも満たしていた。本当の意味で、彼女はこちらの世界に帰ってこれたのだ。


「曹玲さん……」


 食べ終えた美琴が肩を震わせ鼻をすする。

 そのままくしゃくしゃの顔で、彼女は曹玲に対して頭を下げた。


「ありがとう……、おいしかったです……!」

「大げさだ。礼には及ばん」


 腰に手を当てた曹玲が苦笑で応える。

 見届けた大和も表情を緩め、美琴を連れてテーブルへと向かった。







「いやー、おなか一杯です。満足満足」


 テーブルを囲んでの夕食。並んだ皿はきれいに空になっており、美琴もまた桃のおかわりをたらふく口に運んだところであった。


「五つも食うとは……。相当腹が減ってたんだな」

「……そういうあんたもカレー三杯も食ったろうが」

「手が止まらんくらい美味かった。よく煮込まれて味の染みた肉野菜がまた絶妙だったよ」


 言いつつ、口直しの水をゴクゴクと音を鳴らして飲む曹玲。

 タンと彼女がコップを置いたタイミングを見計らい、大和が静かに口を開く。


「ところでよ、何でその大神実オオカムズミじゃない普通の桃でも、美琴は口にすることができたんだ?」

「桃というのは聖なる果実だ。私の国では不老長寿の実とされているし、この日本でも鬼を退治する『桃太郎』というおとぎ話があるだろう」

「……なるほど」

「本来、桃は黄泉にのみ生る果実だった。大昔にこちらに持ち込まれた大神実が拡散し、世界中にその実を結ばせたというわけだ。大神実を祖に持つ実だ、極限に薄まっているとはいえ、良薬には違いない」


 桃には様々な縁起や御利益がある。魔除け、厄除け、そして不老長寿。

 伝承でも桃の実が黄泉の化け物を払ったとされており、それが大神実(オオカムズミ)と言われる神聖なる原初の桃だ。

 黄泉より持ち込まれた大神実は人々の厄を払うため世界中に散らばる。つまり曹玲の言ったように、この世の桃は全て大神実の子孫であると言えるのだ。


 であれば、疑問は残る。なぜ原初の実である大神実が朽ち果て、遥か格下である一般的な桃は形を保ったまま美琴の手に残ったのか。

 それを質問として曹玲にぶつけると、彼女は真剣な面持ちで言った。


「おそらくは、ロゼネリアだ」

「――ッ」


「最初は黄泉竈食よもつへぐひの呪いが大神実を上回ったのかと思った。だがそこまでの出力があるなど到底思えん。そんなとき僅かに感じたんだ、鬱陶しいヤツの神気をな」

「あの女……! まだ美琴に何かしてやがるってことかよ……!」


 人の良さそうな淑女めいた笑みが、一同の脳裏に浮かぶ。しかしそれは偽りの仮面だ。剥ぎ取った先に見せる毒々しさは、シェイクすら置き去りにする邪悪さを内包している。


「……性格の悪い女だ。きっと――」


 その先を言うことなく、口を噤む曹玲。

 きっと、ロゼネリアはマッカムが曹玲に大神実を渡すことを見抜いていた。その上で、こうして陰で嘲笑う真似をしてくるのだ。


 救いなのは大神実を対象とする強力な術だけに、それ以下の桃に対してはザルになるということ。夜の網戸が小さな羽虫の侵入を許してしまうように。

 ……いや、それすら楽しんでいる節すらある。懸命に足掻く美琴たちを眺め、口の端を歪めて肩を揺らすのだ。


 遊んでいる。その事実に苛立つ曹玲だからこそ、奥歯を噛み締めてしっかりと美琴に目を合わせた。


「安心しろ。きっと君を治してやる」

「……はい! ありがとう曹玲さん!」

「……う」


 はにかんだ美琴の声はとても晴れやかだった。

 まっすぐで、信頼しきって、人馴れしてくる無邪気な笑顔。

 裏表の無いそんな気持ちを、曹玲は生まれて初めて向けられた。


「むぅ……」


 だからちょっと戸惑って、視線を逸らしてからごまかすように髪をくしゃりと掻いていた。

 なんとまあ不意打ちで、してやられた気分になってしまう。

 ああこれが焦がれた陽向ひなたの空気かと、ガラにも無い心臓の昂揚を自覚した。

 してやられたついでに、もう一つ解決策を伝えることにする。


「ちなみに、ただの桃でも食い続けていれば呪いは浄化されるぞ」

「ホントですか!?」


 曹玲の言葉に美琴がさっそく食いついた。「どれくらいだ」と問うてくる大和に言い返す。


「毎日食って……ざっと三十年くらいだな」

「さっ……!?」


 絶句する美琴。ピシッと固まり、ほっとけば風化しそうな様相である。


「三十年、毎日毎日ずーっと桃ばっか食うのかよ……。カブト虫じゃあるまいし」

「スッゲー桃臭くなりそうだなー」


 大和と八咫烏が好き放題言っていた。

 微動だにせず直立する美琴の両目から、だらだらあうあうと涙が溢れている。


 ……さすがに居た堪れなくなった曹玲がフォローを入れ始める。


「ま、まあ待て。いろいろ食い方を変えれば良い。すり潰したりジュースにしたり」

「ああなるほど。そういや焼きリンゴって代物もあるな」

「うむ。他にもうさぎの形に切ったりな。苦しいときこそ遊び心が大切になってくる」

「心の持ちようってやつか」

「えーっと……」


 当人を置いて盛り上がる二人をジト目で見やる美琴。というかいつの間にかリンゴの話になっている。


「あとは……細かく切ってハンバーグに入れたりか」

「なるほど。それで野菜嫌いの子供にも食べさせられるな」

「野菜といえば……私はすき焼きや焼き鳥の、あのでかいネギの存在意義が分からん」

「なんでだよ」

「意味分からん! 存在を主張しすぎだろあのでかさは! 貴様は肉と比べて三ランクは下だろうと、何を肩を並べた気になっているんだと問い詰めたいぞ!」

「いや、でも味染みてて美味いだろ」

「あのキュッっていう食感が嫌なんだ!」

「それ存在意義がどうこうっていうか、お前がネギ嫌いなだけじゃねーか!」

「ええい、うるさいわ!」

「あぁん!?」


 睨み合い、一歩も引かない両者。

 そのまま数秒経過し、ハッとした二人は同時に美琴を見やった。


『美琴(神崎)はどう思う!?』

「どうでもいいです」


 美琴はかなりキレてた。無理もなかった。






 夜の帳が下りていた。

 巨大な弓張り月が煌々と昇っている。問答無用に一面を銀色に塗り潰す光源は、あらゆる邪を逆撫でして引っ掻き回し、覚醒させようと嗤笑する。


「まだ怒っているのか?」


 二つあるテントのうち、片方の入り口が開いていた。

 そこから顔を出して夜を見上げる少女を咎めるように、曹玲は横になったまま声を掛けた。


「いえ、そういうわけじゃないんですが……」


 問われた美琴は困ったように頬を掻き、


「ただ、月が出てるなあって思って」


 言って、再び悪辣な半月に目を向けていた。

 だが、曹玲は美琴の行為に対し、柳眉を顰めて忠告する。


「あまり感心せんな。魂が喰われるぞ」

「似たようなこと、チェルちゃんにも言われました」


 たははと、膝を抱えて苦笑する美琴。

 様々な感情を抱え込むような彼女を眺め見て、曹玲はフウと息をつく。


「チェルシーのことは大切か?」

「えっ……と……」

「べつに隠さなくてもいい。君らが一緒にいたのは学校で知っている」

「そういえば一緒の学校でしたね」

「接触はしてないがな。それなりに気配も消させてもらっていたし」

「えー? でも曹玲さん目立ちますよー。背高くてきれいで格好良いし」

「そういうのは良く分からん」

「ぶー! もったいなーい!」

「はあ……」


 弛緩した空気はしかしワンクッションとなる。

 口元を尖らせていた美琴もやがて、神妙さを取り戻した。


「はい……大切です。チェルちゃんは、本当に大事なあたしの友達」

「そうか」


 曹玲はその告白を止めも咎めもしなかった。

 それは美琴を慮ってのものなのか、それとも彼女にも思うところがあるのか。

 時間にして数十秒、曹玲は閉じていた口を開く。


「堕天共はもう一度、君を狙いにやってくる」

「……」

「太陽が一度堕ち、地上への照臨権は宙に浮いた。いま昇っている太陽は一応神崎(アマテラス)の影響下にあるとはいえ、非常に不安定な状態だ。第六ティファレトを覚醒させたい連中にとって好都合というわけさ」

第六ティファレト……」

「ああ、チェルシーだ」


 だから、と一拍置いた曹玲が頭上を見ながら言い放った。


「君は君で、納得するまでやればいいさ。願わくば、君が太陽神として主権を握るのが理想だがね」

「――はい、やってみます。でも太陽とかは難しいので考えずに」


 その言葉に、曹玲は鼻を鳴らして「好きにしろ」と返した。


「Golden Dawn」

「……え?」


 突然流暢な英語を呟いた曹玲に、美琴は我知らず聞き返す。


「The Hermetic Order of the Golden Dawn.――『黄金の夜明け団』という意味だ。聞いたことは?」

「……あ、ちょっと知ってるかも」


 おずおずと手を挙げる美琴。


「確か、アレイスター・クロウリーっていう有名な魔術師がいたところですよね?」

「その通りだ」


 黄金の夜明け団。十九世紀末にイギリスで生まれた、西欧神秘を研究することを目的とした魔術結社である。美琴の言うように、社会から「食人鬼」と忌避されたアレイスター・クロウリーが最も有名であろう。

 高等な魔術を研究、披露して多くの人間を魅了したが、団内では団員同士の保身や嫉妬、強欲から成る低レベルな衝突が絶えず、分裂と衰退を続けた結果、完全に消滅してしまう。


「でも、一体それが何――」


 言いかけ、ハッと息を呑む美琴。次いで「まさか」と曹玲を見やり、


「……そのクロウリーが、生命樹セフィロトのトップってわけですか?」


 才覚ある人間。『食人鬼』という恐ろしい二つ名。そして、美琴でさえ耳にした程の高名な魔術師。となれば、天使の一群を総べる役者として不足は無いはずである。

 けれど、問いを受けた曹玲は静かに首を振っていた。


「いや、クロウリーではない。確かに術者として多くの実績を残した彼ならば、セフィラを有するには十全な人物だとは思うが」

「じゃあ……」


 一体誰なんですかという美琴に、対する曹玲が片目を眇めて続けた。


クロウリーには優秀な師がいた。クロウリーが魔術師として大成したことは、その師の存在があってこそのものだった。そしてその人物こそ、生命樹の頭であり第一ケテルなんだ」

「……っ」

「名はマグレガー・メイザース。かつて全盛期の『黄金の夜明け団』の首領だった男だ。頭に叩き込んでおけ、シェイクもマッカムもロゼネリアも、所詮はこの男の手足に過ぎん」


 その言葉の信憑性は、曹玲の険しい顔つきを見るだけで十二分に判断できる。


「数年前に一度だけ、ご機嫌伺いの儀式でメイザースの神力を浴びる機会があったが、正直それだけで気が触れそうになったよ」


 桁が違い過ぎるのさと、曹玲は浮き出た冷や汗を手で拭う。


「その……メイザースって人は、いま世界のどこにいるんですか?」

「この地球上にはいない。遥か遠くに鎮座している」

「遠くって……?」


 美琴の問いに、曹玲は起き上がると共に人差し指で方向を指し示した。


「遥か彼方の星、冥王星さ」

「め……冥王星!?」


 聞き慣れてはいるものの、実感が掴めないその名称を耳にした美琴は驚愕した。


 十数年前まで、太陽系最遠の第九惑星とされていた星である。

 現在では定義が変わって準惑星とされているが、地球から五十億キロ前後という途轍もない距離に位置する事実は、天文学に詳しくない者でも漠然とした畏怖を覚えるだろう。


「そ、そんなところで一体何してるんですか?」

「さあな。この世を俯瞰ふかんしているんじゃないか?」


 お手上げといった感じで両手を上げる曹玲。


「さて、そろそろ本当にテントを閉めろ。あの月光を浴び過ぎれば、冗談抜きで魂が汚染されるぞ」

「あ、はい。そうしま――」


 ――す。と言いかけた時であった。

 美琴の足元に、はらりと花弁が一枚降ってくる。


「……? なんだろ、桜?」


 でももう五月も終盤だ。それに山桜も見かけなかったはずだけど……。

 疑問を浮かべ、何気なく外を見渡し――


「――ひっ!?」


 目を剥いて絶句した。口内の水分が一瞬で干上がった。

 それは明らかな異常。いや、可視レベルにまで実体化した恐怖の塊と言って構わない。


 月が――消えていたのだ。

 その代わりに、


「な……な、なんなの……よ、あれ……ッ!?」


 巨大という言葉すら生易しい。

 空一帯を浸食し、塗り潰し、それ(・・)は景色を一変させている。

 まるで、地球に蓋でもしているかのように。


 球が見える。輪が見える。否が応でも目に入る。


 それは土星。夜空を根こそぎ侵した天体が、矮躯な地球を見下ろしていた。

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