大神実(オオカムズミ)
「肉も、魚も、野菜もか……?」
「ああ」
黄泉竈食ひの呪い。曹玲の肯定に改めて絶望する。
「この……カレーもかよ?」
口元を戦慄かせ、大和は縋るように美琴に問いかけたが、
「……うん」
「――ッ」
返ってきたのはどうしようもない現実。
日本人には定番と言っていい御馳走が、美琴にとっては鼻を焼き付けさせる劇物でしかないのだ。
やりようのない怒りが拳に向かう。固められたそこから垂れる鮮血が、足元の草むらに呑まれていった。
「神崎の呪いはそれだけではない」
「まだ……何かあるってのかよ……!」
「私らにとっての御馳走がゲテモノに映るなら、その逆も然りというわけだ」
「な……に……?」
大和は目を剥いて曹玲の手に注目する。
そこに握られているゴカイに、そういえば美琴はよだれを垂らすしぐさを見せなかっただろうか。
虫、蟲、むし、ムシ……。
「…………っ!」
心臓が早鐘を打つ。
食事とは生きる糧を得る行為だ。それに対して泥水どころではないものを浴びせる呪いは、あまりにも人間の尊厳を踏みにじっている。
「や、べつにまだ口にしちゃないからね?」
「そ……なのか?」
宥めるように、安心させるように、苦笑を浮かべた美琴が大和の動揺を取り払う。
しかし、とは言っても、その言葉が本当だとしても――
「お前は今まで何も口にしていないのだろう?」
「それは……」
曹玲の問い掛けに口ごもる美琴。
それを見据え、無言で曹玲が歩を進めた――ところに、
「待てよ」
大和が割り込んでいた。彼女の右手を注視していた双眸が、今度は彼女の眼に向けられ引き絞られる。
「お前、こいつに何を食わせるつもりだよ?」
「食わなければ死ぬ」
「てめえ……!」
問い詰めをモノともせず返してきた曹玲に、大和が歯を軋らせ唸りを上げた。
確かに曹玲の言い分は正しい。
だが、だからと言ってグロテスクな生物を食えなどと、どの面下げて美琴に強制などできようか。
方向性は違えど、それではシェイクと何ら変わりない。鬼畜の所業を継ぎ、美琴を泣かせるなんて真似はとてもできない。
「ふっ……、ふう……」
「大和……」
逡巡し、汗を垂らす大和に美琴が何かを言いかけたとき、フッと曹玲が両手を上げた。
「冗談だ」
「……あぁ?」
「冗談だと言ったんだ。こんなもの食う必要はない」
言ってから曹玲はゴカイを再びクーラーボックスに放り込み、水で手を洗い始める。
呆気に取られる大和と美琴だが、間を置いて大和が口元をヒクつかせた。
「あ、あんたなあ……タチの悪いことやってんじゃ……」
「とはいえ、代替案はあるのか?」
「ッ」
「このままではただの冗談が、本当に冗談では済まなくなる」
「……」
曹玲の言葉と視線を浴びた大和は閉口してしまう。
美琴はもう丸一日何も口にしていない状態だ。のんびり構えている余裕など無い。
「まあまあ、あたしそんなお腹減ってないか――」
きゅるきゅるーん。
「あぅ……」
咄嗟に出た強がりも、ひかえめな主張によって無力化される。
羞恥と空腹からへたり込んでしまった美琴。それを眺めた曹玲は堪えきれなくなったように、プッと吹き出してしまう。
「あーひどい! なんで笑うんですかぁ!」
「いやいやすまん。なんだか可愛らしくてな」
「ぐぬぅ……」
美琴はジトりと曹玲を睨み、対する曹玲は「そろそろ苛めるのもやめるか」と腰に手を当てる。
「八咫烏、アレを持ってこい」
「あいよー」
木陰から八咫烏を呼び付け、そう命じた曹玲。
大和と美琴がアレとは何だと顔に出していると、八咫烏が袋をぶら下げて帰ってきた。
袋を受け取った曹玲が中から取り出したものは、
「なんだ、それ……」
「キレー……」
黄金色に輝く桃であった。
目を丸くしてそれを見据える二人に、曹玲はふふんと胸を張る。
「こいつは黄泉に生る、あらゆる呪いを解く大神実だ」
「じゃあ、美琴の呪いも……?」
「治る」
「――ッ」
曹玲の断言に美琴がピクリと反応する。
隣にいる大和もジッとその実を見つめていた。
「こんなもん、俺は向こうで見かけなかったが……」
「相当に貴重なものだからな。そう簡単には見つからん」
「じゃあなんで……」
あんたが持っているのかという問いに、「知りたいか?」と返す曹玲。
一拍置いてから彼女は続けた。
「マッカムだ」
「……え?」
「マッカム・ハルディート。昨夜お前たちも会ったろう。彼が神崎にと、これをくれたのさ」
「っ」
大和と美琴は同時に息を呑む。
マッカム・ハルディート。
第五のセフィラを有する筋肉質の大男。口調や態度は飄々としているものの、内包される闘気や威圧感は他の天使の比ではない。
事実として、過去に曹玲はこの男によって神力を潰されたのだ。
「…………」
だからこそ解せない。なぜそのマッカムが敵に塩を送る真似をするのかが。
「義理堅いのさ、あのオカマは。……バカ真っ直ぐなくらいにな」
虚空を見つめ、曹玲は呆れを含むため息をついた。
『たまにシェイクから貰ってたのよ。持っていきなさい』
『どういうつもりだ? 貴様にとっては友人の仇を助けることになるんだぞ』
『……あの子も、天命ってものに翻弄されてる。ただの女の子なのにね。アタシたちとは違うのよ』
『ならばレールから引っ張り上げてやればいい』
『それはアタシがやることじゃないわ。……ううん、出来ないのね。アタシに出来ることは、せめてその友人が掛けた迷惑料を払うくらいよ』
『それが、この大神実か?』
だってホラ、とマッカムは言った。
『ごはん食べられなくなっちゃうのは、可哀想じゃない』
困ったような、そんな笑みで。
「そう……ですか」
話を聞き終えた美琴は、真剣な面持ちを曹玲に向ける。
「そういうわけだ。さて、君はどうする?」
「頂きます」
即答であった。その眼や口調に遊びは一切含まれていない。
美琴自身、助かりたいという気持ちは当然ある。だがそれ以上に、マッカムの気遣いには茶化すことなく、真正面から受け止めるのが礼儀だと思ったからだ。
考えてみれば、黄泉から現世へ帰還したとき、マッカムは大和と美琴に対して泣いてくれた。
始めこそ驚いたが、あれは演技や嘘泣きの類ではないだろうと思える。
曹玲においてもそうだ。強引過ぎるが、彼女を慮っての行動だったのだから。
「……ああ、食ったほうが良い」
美琴と同じ感想を持った大和もそう促した。
マッカムはシェイクとは明らかに違う。
天命。天使。……堕天。
生命樹の天使とは一体何なのだろうか。彼らを突き動かすものとは何なのだ。
少なくとも、マッカム・ハルディートは根っからの悪党とは思えない。
(チェルシー……)
ならお前も、引き下がれない理由があって行動しているのか。
……分からない。風に揺れる木々を眺めつつ、大和は小さく嘆息した。
「つーかよ、あんたも人が悪いな。端っからそれ食わせてやりゃ、こいつもこんなに苦しまずに済んだのに」
「彼女を試したからな」
「……なに?」
軽めの問い質しに帰ってきたのは、少しばかり聞き捨てならないものだった。
糾弾の意を込めて、目をかっ開いた大和が曹玲を射抜く。
「いちいち熱くなるな。私とて、べつに意地悪でやったわけではない」
そう告げて、曹玲は美琴の方へ向き直る。
「君の覚悟が知りたかった」
「覚悟……ですか?」
「そうだ」
向き合う曹玲と美琴。
漆黒のポニーテールと、お日様色の長い髪が同じ方向へハタハタと靡きゆく。
「君はなぜ付いてきた?」
「え?」
「そりゃてめーがいきなりキャンプ行こうとか抜かして――あいてッ!?」
横入りしてくるたわけ者に松ボックリをぶつけて黙らせ、なおも曹玲は問い詰める。
「神崎、君は一度死んだ身だ。なのにどうして再び非日常へと首を突っ込もうと思った? 確かに私が連れてはきたが、断ろうと思えば断れたはずだ」
「…………」
その追及にしばし美琴は黙っていたが、やがて彼女は意を決したように顔を上げた。
「あたしがやらなきゃいけないことが絶対にある。そう思ったからです」
「……」
「もちろん怖いです。すごく痛かったし苦しかった。思い出すだけで足が震えてきます。でも、逃げちゃだめだって思うんです」
「天照による使命感か?」
「あたしの中に神様がいるなんてあまり実感は湧かないけど、もちろんそれもあります」
でも……、と美琴は両手の指をギュッと握り込む。
「大和が頑張ってる。痛いのを我慢して頑張ってる。だったら、あたしも一緒に歩きたい!」
「おま……、何言って――」
「嫌なのよ! あんただけに責任おっ被せてのうのうとしてるだけなんて!」
「……ッ」
「ずっと、一緒だったじゃん……。隣じゃなくて良いよ。背中を任せる間柄になりたいなんて身の程知らずなこと言わないよ。三歩でも五歩でも後ろでいいから、これからもあんたの側にいたいのよ……! それにあたしだって、この世界が好きだもん……!」
「美琴……」
肩を震わせ、しかしまっすぐこちらを見据えて訴える美琴を見て、大和はただ絶句する。脳芯を打ち抜かれた気分にまでなった。
神崎美琴が、まさかここまで覚悟を決めていたのかと。
「うむ! 合格! やはり合格だ!」
大和の葛藤を、そして美琴の哀絶を途絶させたのは、咆哮に近い曹玲の大声だった。
「その信念は眩く、素晴らしい。はっきり言って君は到底戦力には数えられんが、魂の強さとは力量の多寡に関わらん。修羅場を潜ることができるのは、芯の通った心を持つ者だけだ」
半端者ほど道を見誤り早死にする。
なればこそ、自らの立ち位置を見極め、そこで全力を出せる者こそ死地を踏破できるのだと。
「魚も、この食事の材料も、君にとっては猛毒だった。空腹もあったろう。それを君はおくびにも出さず、こうして調理をやってのけた。これを強さと言わずして何と言う」
「っ……ッ……!」
「……苦しかったろう?」
「は……い……!」
「すまない……。物見遊山で付いて来たかもしれないと疑った」
「いえ……ッ! あたしの方こそ……弱っちいのに出しゃばって……!」
「言ったろう? 神崎のそれは強さであると。君にも活躍の場は必ず来る」
慈母のような微笑みで、曹玲は美琴を言い宥める。
そして改めて手に大神実を掲げ、
「さあ食え。食って治せ。味も絶品だ、美味いぞ」
「……はいっ!」
それは美琴の元へと放られた。
煌びやかな放物線を描きながら美琴の手に収まった黄金の桃は――
――瞬間的に朽ち果て、風に攫われ大地に溶けた。
「……あれ?」
という間の抜けた曹玲の声が木霊した。




