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黄泉竈食ひ(よもつへぐひ)

 曹玲ツァオリンはひたすら歩いた。八咫烏に導かれ、日本という国を隅から隅までその脚で。

 寺社仏閣、祭り、芸術、学問、食文化――多種多様な文化があった。

 歩いて学び、見て学び、人々と触れ合うことで学んだ。


 そして、また歩く。何百キロ、何千キロと。汗を掻き、呼気を荒げ、足が棒のようになってもまだ歩く。常人となった曹玲には相当に過酷な道のりだ。

 始めこそ億劫だった。日光の眩しさゆえに下を向いて歩くことが多かった。

 それでも歩けよと八咫烏は言う。人々と関われと言う。


 牛と呼吸を合わせ、搾乳をやってみた。

 彫刻刀を用いて木彫り細工を作ってみた。

 茶を点て、泡立つ淡い緑色に目を奪われた。

 頂いたおにぎりを頬張った。目が丸くなる。とても美味しい。


 神社でお参りをして、桜を眺めて花火を見て、紅葉狩りをして雪を踏み締め、お参りをして――また春が来て。

 いつしか彼女の双眸には新たな光が宿っていた。

 前を向いて歩く彼女がいて、上を向いて歩く彼女もいて。


 全国行脚(あんぎゃ)という行動を通して、曹玲という人間(・・)はひたすら道という道を踏み締めたのだ。

 道路、あぜ道、獣道。目的らしい目的がないゆえに、全てが寄り道のようなものだった。

 そして遂に踏破した。それは人道、武道に至るまで――




「づ――ぐぅ――!」

「なんだその動きは! 眼だけに頼るな! 五感を使って初動の前から対応しろ!」


 曹玲の檄が飛ぶ。

 固く握られた彼女の拳が容赦無しに大和の身体を弾き飛ばしていた。


「……っそ!」


 吹き飛ぶ大和は顔を顰めて苦悶を漏らす。

 空中で転じ、目前にあった大木の幹を引っ掴んで無理くりに停止――大量の葉を散らせつつ、しなりを終えた木の枝に降り立つと慌てて曹玲を見やった。


「…………」

「――くッ!?」


 目が合った。寒気がした。歯の根が合わず、我知らず戦慄する。

 吹き飛ばされた結果として、二人の間には五十メートル程の距離が開いているがしかし、曹玲の所作には一縷の隙さえ存在しない。


 攻め込んだ直後だと言うのに、彼女は腰を落とした構えのまま、いつでも追撃を行えるよう、及び反撃に対応できるよう、大和を見据えて全身を鋭敏に研ぎ澄まさせている。

 緊張感が尋常ではない。見ているだけで心身が中てられ、疲弊されていくようだ。


 これはいわゆる残心ざんしんである。あらゆる武道において存在する、言わば心構えだ。


 曹玲は二人に多くを語らなかった。

 八咫烏と出会ったその日からはどうしたのかという問いに、『ひたすら歩いただけさ。まあ自分探しだな』とお茶を濁したのだ。


 ゆえ、八城大和は結局のところ彼女のことをほとんど知らない。

 だけれど、未だ残心を解かずにこちらを睥睨し、全身から真に迫った闘気を迸発させる彼女を見れば、理解するに至らなくとも感じるものはあって、


「……かっこいいな、あんた」


 と、感嘆の意を示していた。

 正直言って、想像以上だったのだ。


 曹玲が元セフィロトの天使であったことは聞かされてはいた。

 多少のいざこざはあったろうとも思っていた。

 けれど、この勝ち気でいて、常に自信と余裕に満ちた表情を見せる彼女が、過去にこれほどまでの敗北と挫折を味わっていたとは思いもしなかった。


 そして、その折れた心すら克服したという事実も、大和にとっては想像の埒外だ。

 常人となった彼女がこうして超越した力を振るえている理由も知らない。

 ただ、ちょっとだけ彼女のことが分かった気がした。


 多分、いやきっと、曹玲はこの日本が好きなんだと。


 言葉で聞いたわけではない。態度で示されたわけでもない。

 けれど、曹玲の総身から立ち込める気配から、なんとなくそうなのだろうと思えたのだ。

 凛として、力強く引き絞られた双眸。隙無く構えるしなやかな全身。その全てが力強くて、厳しくあって、そして根底には優しさがあった。

 この国で形作られたであろうその強さに、曹玲は感謝の念を持っているのだと。


「感謝……か」


 自惚れないこと。驕らないこと。ありがとうと思えること。

 それは規範的行動での礼でも言える。自らを律し、他者を重んじ、共生を図っていくのだ。


 力に対しても礼は不可欠。火も水も、大地や風に雷も。

 だからこそ大和は神との対話に至ったし、共存することを可能にした。


 帛迎はくげいとは、自らを幣帛へいはくさせて神の力を迎え入れる秘術。

 それにより発現された天之尾羽張あめのおはばりとは神よりの天錫てんしゃくであり、また八城大和の魂なのだ。

 発する神力はセフィラを有する堕天に伍する。事実、第十マルクトのシェイクは大和の帛迎に力負けし、平静を失って自滅した。


 であれば、当然曹玲も帛迎に至っていると考えるのが自然だろう。裏付けるように、このハードな組手において、「帛迎は使うな」と彼女は言った。

 何も持たない徒手空拳における戦闘への心構えは、あらゆる方面での基礎となる。

 間合いの計り方。野外、室内問わずの様々な戦闘領域においての動き方。痛み慣れや、頼るものが己の拳のみという極限地での判断力と行動力。加えて慎重さと大胆さも同時に身に付けねばならない。


 そして何より――


『慢心するなよ』


 曹玲は言った。帛迎に頼りすぎるな、依存するなと。帛迎さえあればどうとでもなると楽観し、自惚れるなと。


 驕り高ぶりとは油断を生む。

 神の力を宿すのは肉体で、引っ張り出すのは精神で、行使するのは神力だ。

 その三つを常に磨き、研ぎ澄まさせていなければ、見る見るうちに錆び付いていってしまう。


 であるがこその組手である。精神力も神気も、まずは土台となる身体が強健でなければお話にならない。地力が底上げされれば、帛迎の状態になったときのポテンシャルも跳ね上がるのだから。


「…………、」


 ふうっと息をはく。次いで、こちらに向かってくる曹玲に備え、全身を程よく緊張させる。

 今やこうしてどっぷりと浸かっている非日常。だが大和の目に怯えや迷いの色は無かった。


「もう乗りかかった船だ。……どこまでも付き合ってやらあ!」


 ボコされても泣くんじゃねえぞと、大和は咆哮して突貫した。








「で、誰が泣くなって?」

「…………」

「ええ? おい」


 ツンツン。


「痛っ!? 傷口突っつくんじゃねえよ!」


 逆にボコされた。全身ボロボロで正直泣きたい。


「ハイ、ばんそうこう。ほれ、あんま動かないでよ」

「んー」


 美琴の治療を大人しく受ける大和。こめかみの×マークの絆創膏がなんともマヌケであった。

 腕組みした曹玲が「はあ……」と嘆息する。


「全く……あれだけ粋がっておいてこのザマか」

「っせえな……」

「まあそう睨むなよバッテンマーク」

「ぐ……こいつムカつく……!」


 こいつはどこまで行っても外道だと、大和は本気でそう思った。

 それから大和と曹玲はおこした火を囲み、釣った魚を焼いていく。辺りを見やれば、眼下の炎と同じような黄昏色に染まっている。リンリンと虫の鳴き声がこだまして、心に安らぎを与えてきた。


「……喧嘩にゃ自信あったんだけどな、あんた強すぎなんだよ」

「お前は動きに無駄が多い。余計な力は入れず、相手の呼吸を読め。だから魚も釣れんのだ。このボーズが」

「ほんと一言多いなお前……」


 大和にジト目で睨まれる曹玲だが、自嘲するように口の端を吊り上げた。


「ま、私もあまり人のことを言えんがね。前に言った通り、生命樹セフィロトですらない下っ端天使から、武器を使わなかったとはいえ手傷を負った」


 言って、曹玲は左腕を掲げる。


「こいつは疾うに治ったが、そういう問題ではない。連中程度、素手で制圧するくらいの余裕がなければ渡り合えん。現に、大アルカナを死滅させた天使は光輪すら出していないんだからな」


 神気の温存はもちろんのこと、地力で生命樹セフィロトの天使に肉薄していなければ、長期戦で不利になる。そして何よりも、大和らにとって帛迎とは切り札に等しい。安易にホイホイと使ってしまえばその分だけ能力を、場合によっては弱点すら晒すことになる。

 それは愚策だ、と断じた曹玲が最後の魚を串に刺して焼き始めた。


「もっとも、使うなと言っているわけじゃない。出し惜しみした結果、状況を悪化させてしまっては元も子もないからな」

「あんたのようにか?」

「そういうことだ。日和っていたつもりはなかったんだがな。ま、ちょうど良い修業になる」


 皮肉とも取れる大和の問いに答え、フンと鼻を鳴らした曹玲。

 と、そこへホコホコの鍋を持った美琴が現れた。


「はーい、カレーできましたよー」

「うむ、ありがとう」

「材料や水まで用意して、本当に準備が良いな」

「ふふん、昨日二十四時間スーパーで買って、貴様の家の冷蔵庫に突っ込んでおいたからな」

「誇らしげに言ってんじゃねえよ」


 ぶつぶつ言いつつ、大和も飯盒や皿を運ぶなどして準備を手伝っていく。

 そして簡易テーブルに、美琴お手製のカレーと付け合せのサラダ、先ほど釣った焼き魚が並んでいった。


 木々が鳴らす風や川の水音、透き通るような虫の合唱を感じながら食べるカレーは絶大である。運動したことも手伝って、腹の虫が早くしろと催促してきた。

 食欲をそそる見た目と匂いに引き寄せられるが、しかし大和はふと疑問を持った。


「あれ? 美琴、お前食わないのか?」

「うん。あたし、ちょいと食欲無いから……」


 カレーは二人分しか用意されていなかった。

 言葉の通り、美琴は少し顔色が悪い。


「体調でも崩したのかよ? でもなんか腹に入れといた方がいいぞ」

「んーん、だいじょぶだから」

「まあまあ遠慮すんな。この俺が丹精込めて焼き上げた魚だ、美味そうだろ」


 一匹も釣ってないボーズの男が調子こきながら魚を美琴の口元に持っていく。

 が、


「やっ!」


 美琴はプイッと顔を背けてしまった。


「おいおい警戒すんなって。ちゃんと塩も振って……」

「やあっ!」


 プイッ!


「…………」

「…………」


 なんやねんコイツと思う大和。

 間合いとタイミングを計りつつ、両者の攻防は加速した。


「フンフンフン!」

「やっやっやあっ!」


 プイプイプイッ!

 とことん美琴は嫌がった。


「っだよオメーは、っとによォッ!?」

「ぎゃーす!?」


 さすがにイラッときた大和が美琴のほっぺをむんずと捕まえ吠え立てる。

 迫る男に、悲鳴を上げる少女。

 完全に犯罪現場だった。


「やめんか、この暴漢が」


 そこへ曹玲が割って入る。……大量のゴカイを大和の眼前に掲げながら。


「うおわっ!?」と飛び退る大和に対し、不満げに曹玲は言った。

「おい貴様、何だその反応は? 傷つくじゃないか」

「いきなりそんなもん目元に持ってきといて何だその言いぐさはテメー!」

「嫌だったか?」

「あたりめーだろがボケ!」

「うむ。それは今の神崎も同じだ」

「……あん?」

「……ッ!?」


 その言葉が解せないという大和と、息を呑んで絶句するのは美琴だ。

 美琴の反応を見逃さず、曹玲は彼女に問いかける。


「神崎よ、お前は黄泉でシェイクにかまどで煮た物を食わされたな?」

「……はい」


 消え入りそうな彼女の声に、「嫌なことを思い出させてしまってすまない」と謝罪する曹玲。


「……黄泉竈食よもつへぐひを口にした者は黄泉の住人となる。神崎は再びこの世界に戻ってはこれたが、その呪いは未だに解けてはいない」

「まさか……」


 思い当たるふしがある大和は、思わず美琴の腹部に注目する。

 一方の曹玲も、縮こまって震える美琴の方へ近づくと、


「これがその呪いだ」


 一息に彼女の服を捲り上げた。


「ァ――」

「――ッ」


 晒された美琴の腹部を見て、大和は目を剥いて瞠目した。

 そのお腹は黄泉の屋敷で目にしたときと変わらず、見るも無残に黒ずんでいたのだ。

 戦慄く美琴に「すまんな」と謝りつつ、曹玲は衣服を戻した。


「お前、それ……」

「いやー、ばれちった……」


 でへへと、いたずらが見つかった子供のように笑う美琴。


(クソ……!)


 大和は拳を固め、歯を軋らせた。

 認識が甘かった。現世に帰ってきた美琴はよく笑い、よく喋って明るかった。無理をしているようには見えなかったし、実際彼女は笑顔を取り戻したのに違いない。

 美琴自身、お腹のことは話題に出さなかったし、完治とは言わずとも黄泉から解放されて少しずつ回復してるのだろうと決めつけてしまったのだ。


 辛いとき、神崎美琴はそれを抱え込む傾向にある。近しい立場にありながら、気付いてあげられなかったのは自分の落ち度だ。


「……痛むか?」

「ん、たまーにズキッと」


 力無く笑みを浮かべる美琴が痛々しい。

 やりきれない想いを持つ大和に、曹玲が言い放つ。


「腹の痛みももちろんだが、彼女にはそれ以上に辛いことがある」

「……辛いこと?」

「これだ」


 ズズイッと、曹玲が再びゴカイを大和の眼前に持っていく。

 ウネウネ蠢くそれを見て「てめえ!?」とキレる大和だが、


「これが神崎の世界だ」

「……あ?」


黄泉竈食よもつへぐひを口にした彼女にとっては、普通の食物がこれらゲテモノのように映ってしまっているんだ」


 曹玲の残酷な一言。大和は絶句して言葉を失い、美琴はギュッとくちびるを噛みしめて視線を逸らしていた。

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