穏やかで賑やかな朝
「うー…………んっ!」
陽明神社の境内。
神崎美琴は両手を上げ、つま先立ちのまま大きく大きく伸びをした。
華を模した髪飾りと、紅いリボンを結った髪が、お日様色に染まりつつぴょこんと跳ねる。
「――ぷあっ!」
と吸い込んだ息をはき出せば、ひんやりとした朝の澄んだ空気が全身に回ったようで心地良い。
もう、あの煮詰まったヘドロのような景観は目の前に無いのだ。
耳をすませば小鳥のさえずりが聞こえてくるし、また青々とした草木の香りが優しく鼻孔をくすぐった。
「帰ってこれたんだ、あたし……」
呟き、胸に手を当ててみる。
トクントクンと脈動するのは命の証し。
血が巡り、暖かな体温を発する美琴は間違いなく生きている。
「あなた達もありがとね」
言って、美琴は髪飾りとリボンを慈しむ。
大和はこれらの声を聞いて美琴の居場所を見つけたという。
本当に付喪神となっているのだろうか。どちらにせよ、これからもずっと大切にしていくことに変わりはないけれど。
空を仰げば、大地を照らす朝日が昇っていた。
聞くところによると、ここ数日は地球上が大パニックだったらしい。
太陽が消失し、至るところで妖魔が蔓延る暗黒の世界。
どうやら黄泉に堕とされたことが原因らしい。それが証拠に自分が現世に戻ってきたことによって、再び陽が顔を見せたのだ。
(とは言ってもなぁ……)
自分が世界にそんな影響を与えるなんて、とてもじゃないが信じがたい。
姿を消せば陽は沈み、現せばまた昇る。まるで天照さまじゃないか。
いやまあ、さすがにそこまで思い上がりはしないけど。
大和のお父さんや大和のように、神様と共存できるような資質なんてあたしに無いから。
あたしは巫女がいい。ずっと巫女であり続けたい。
この陽明神社で大和と一緒に天照さまを――
「――って! いやいやべつに深い意味は無いんだけどさ!?」
うがーっ! と、わしゃわしゃ髪をかきむしる。
息を荒げて真っ赤な顔で、やがてへなりとその場にしゃがみ込んだ。
そのまま膝を抱えつつ、ぽてんと顔をうずめてしまう。
「ああでも、正直……」
かっこよかった。
というかめちゃくちゃ嬉しかった。
あんなね。あの状況で髪飾りとリボンを付けられて『お帰り』なんて言われたらね。そらもー泣きますよ。イチコロですよ。
「うー……」
ああもうやばい。一晩開けて気持ちが落ち着いたかと思ったけど、恐怖や緊張感から解放されたからか、むしろ余計に悶々としちゃう。
抱えた膝が吐息で暖まり、それが顔へと伝播する。紅潮した表情のままうーうー唸る美琴であったが、やがて「だーもう! 調子狂う!」と勢いよく立ち上がった。
「おーおー、コロコロ態度が変わるおもしれーお嬢ちゃんだなー。ケケケッ」
「……へ?」
ひ、人に聞かれた!? というか見られてた!?
驚きと小っ恥ずかしさから硬直した美琴だが、やがて恐る恐る振り向くと、
「よー! 俺とは初めましてだなあ! 神崎美琴、ちゃん!」
「変な鳥がしゃべっとる!?」
なんじゃこいつ気色悪っ! と一歩退いてドン引きする美琴。
「おいおいずいぶんとご挨拶じゃねーかー」
「あによもう馴れ馴れしいわね! ってちょっと人の頭に乗っかんないでよ!」
「んー、なんか止まり心地がちげーなあ」
ゴソゴソ、もぞもぞ。
「ならすな! 人の頭をクッションみたく!」
「? 何言ってんだコイツ?」
「うわ、うっざ!?」
きぃー! 何よこいつムカつく!
「こんのー! 離れなさいよもう!」
「……ッ!」
「痛い!? ちょ、踏ん張るな!」
無理くりに引き剥がそうとする美琴であったが、変な鳥は三本の足でギュムッと髪の毛をロックして抵抗する。
押し問答を続けた結果、息切れした美琴がとうとう折れることになった。
「ぜー、ぜー……。ていうかあんた、何であたしの名前知ってんのよ?」
「おう、俺は八咫烏ってんだけどな?」
「いやまあ個体としては知ってるけど。てゆーかなんだろ……、もはやあんたっつー存在が意味不明」
「…………」
しょぼんと気落ちする八咫烏。
だが三秒で立ち直った。
「ケッケ、俺は大和とも知り合いっつーかもうマブダチだぜえ」
「えー……」
幼馴染がこの変なのと懇意にしているというだけで、美琴は心底嫌そうな顔になる。
というかなんなの? この鳥。
そんな美琴の気持ちを知ってか知らずか、八咫烏はやや真面目な口調で付け加えた。
「ま、俺の羽根はこれからも大事に持ってなよ」
「……え?」
「黄泉じゃ役に立ったろー? あれが無きゃ多分何度か死んでたぜ。ケケッ」
「あっ……」
思い出す。大和に渡された黒い羽根のことを。
あの地獄において生存できたのも、奔流する邪気や力の余波から羽根が護ってくれたことが大きい。
「あ、ありがと……」
だから美琴は素直に礼を言った。
「気にすんなってー。ま、俺が大和のやつに是非持ってけって渡したのが幸いしたな」
「そ、そーなんだ」
「いや嘘だ。無理やり引き毟られた。すげー痛かった」
「こいつ……」
頭に青筋マークを浮かべ、手をプルプルさせる美琴。
「そう怒んなよー、結果論だろー」
ついばみ、ついばみ。
「髪の毛食うな突くな慣れるな! あーもーホントやだこの鳥!」
美琴の嘆きが境内に木霊する。
清々しい気分など疾うに消え果てていた。
「あれ? どこ行くんだよ」
「うるさいなあ、大和のやつを起こしに行くのよ」
「おいおい寝かしといてやれよ、疲れてるだろうに。嬢ちゃんを助けるために奮闘したんだぜえ?」
「……あんたに正論言われてイラッとするのはまあ置いといて。いや確かにそうなんだけどさ」
言って、美琴は微笑みながら澄み渡る青空を見上げた。
「この空と朝日は見て損は無いかな、ってさ」
「うわクサッ」
「っさいわねもう!?」
頭の上から聞こえる無礼な声に、憤慨した美琴がダンダンと地団駄を踏む。
だがその瞬間、「痛っ」とお腹の辺りを押さえていた。
「ん? どした?」
「っはあ……。べつに、なんでもないわよ」
顔を顰めつつ八咫烏の問いを受け流す。
せっかくの良い朝なのだ。余計なことに意識を向けたくはない。
思っていると、その場に新たな足音が聞こえてきた。
「なんだなんだ、騒々しいな」
「よー曹玲」
Tシャツとハーフパンツという極めてラフな格好で、片手を腰に当てながらこちらに歩む、黒髪の綺麗な少女が姿を現した。
髪は降ろしているが、曹玲という名から昨日の彼女に違いない。
というよりも、美琴は曹玲のことを知っている。普通に学校の先輩なのだ。割と有名な人で、この見た目とシャキッとした性格から人気が高い。特に女子から。
「おはよう。疲れは取れたかな?」
「あ、お、おはようございます。あ、と、おかげさまで、ハイ……」
実際美琴もこの端麗な顔で見つめられれば軽くドキッとしてしまうくらいだ。
雰囲気と目力がやばい。同性として羨ましい。
「……ん?」
というか何でこんな時間からこの場所にいるのだろうか?
この奇妙なカラスとも知り合いのようだし、彼女は一体何者なのか。大和とはどんな関係なのだろう。
問いたい衝動に駆られ、美琴は曹玲の方へ改めて視線を向けて、
「……んん?」
そして苦笑いをし、固まった。
……なんか見えるゾ?
何だろうか? あの人が入れるサイズの突っ張った布の塊は。
にんまりと笑った顔で、しかしサーッと血の気が引いていく美琴。
ギギギとぎこちなく右手を持ち上げ、「あれはなんデスか?」と指を差す。
「お? ただのテントだが?」
「テ……ッ!?」
テントォ!? テントと言いましたかこの人は!?
神聖な神社の境内でキャンプをするという暴挙に、美琴の開いた口が塞がらない。
「ああ心配するな。値段の割に丈夫でな、雨風でもバッチリなんだ。ふふっ」
「そんな心配してねえ!?」
我知らずタメ口でツッコミを入れるくらいどーでもよかった。
ああやっぱりこの人もちょっとおかしい。
眩暈がした美琴はこめかみを押さえて深い深ーいため息をつく。
「……それちゃんと片付けてくださいね」
言い残し、今度こそ大和の元へと行こうとしたが、「おい、ちょっと待て」と呼び止められる。
「奴はいま相当に疲労している。休ませてやろうとは思わんのか、非常識だぞ」
「そーだそーだ非常識だぜー」
「ぐ……! ぎぎ……ッ!」
非常識コンビにそう言われ、女の子がしてはいけない顔で歯軋りする美琴であった。
「と、ゆーわけなのよ大和ぉ!」
「……何が、というわけなんだよ。変なもん頭に乗っけやがって」
「これはこの鳥が勝手に慣れてくんのよ!」
「イマイチだと思ったけど、踏み鳴らせば止まれなくもねえなー」
「ケンカ売ってんのあんた!? だったらどっか行きなさいよ、キィー!」
バンバン!
(朝っぱらからうるせえ……)
真っ赤な顔でベッドをバンバン叩いてくる美琴にげんなりする大和。
いきなり叩き起こされたと思ったらこれである。
嘆息しつつ、けれど彼は緩やかな笑みを浮かべていた。
いつもの空気で、いつもの美琴で、この喧騒が疲れた身体に心地良い。
カーテン越しに見える日差しを見つめると、ぱあっと嬉しそうに反応した美琴が何かを言いかけて、
「良い青空と朝日だ。目に焼き付けておいて損は無いぞ」
「ちょ、曹玲さん!? あたしの台詞!?」
「さすが曹玲だなー。良いこと言うぜー」
「おまえェッ! このクソガラスーッ!!」
怒り出した。
頭の上で格闘をする美琴を放置して、大和は当たり前のように部屋に入ってきた曹玲に目を向けた。
いつものポニーテールは姿を消して、解放された長髪が背中へと流れている。
思わず目を奪われた。いつもと雰囲気が違うのは、結った黒髪を下ろしているだけではないようだ。
しっとりと濡れているその髪は、まさしく烏の濡れ羽の如く艶やかで、その青みがかった黒色は見る者を引き付ける。
軽く上気して赤みを孕んだ頬ではあるが、普段の凛々しさは寸分も損なわれてはいなかった。
隙を見せるようで見せていない。多少雰囲気が変わったところで、曹玲という女性のあり方は変わらないのだ。強いて言うなら、肩にかかった白いタオルが日常感を演出していることだろうか。
「…………あ?」
そこまで考えて、大和は一つの疑問を持った。
なんでコイツこんな格好してんのと。
まるでひとっ風呂浴びてきたかのようだ。
いやいやまさか、いくらなんでも勝手に人んちの風呂場を使うことはないだろう。それくらいの常識は弁えているはずだ。いくらこいつが暴君染みていても。
「ふふん。いま貴様、私が風呂に入ってきたと思っているな?」
「……え?」
なぜか得意げに鼻を鳴らす曹玲に、大和は呆けた声を返す。
「じゃあ、何をしてきたんだ?」
「風呂に入ってきたんだ」
「……チッ」
イラッとするやり取りに舌打ちが出たが、まあ風呂くらいは良いだろう。
一度深呼吸をした大和は陽を求め、勢いよくカーテンを開け放っ――飛び込んでくる境内のテント。
「ウオラアアァッ! 片付けてこいコラァ!!」
さすがにキレた。




