散る大アルカナ
大アルカナの径天群。
全部で二十二体いる彼ら天使は、生命樹の天使群が治める至高のセフィラ同士を、径として繋げる役割を持っている。
マルクトとネツァクを繋ぐのが、月を大アルカナとする十八径。ケセドとゲブラーを繋ぐ、力を大アルカナとする八径といったように。
彼らは様々な意味で名を持たない。大多数が人間より転生した生命樹の天使群のメンバーとは異なり、タロットカードより生み出されたいわば人造の天使であるためだ。
『コフ』も『テット』も径としての名――つまりは記号を示すというだけで、彼ら自身の存在を呼称するものではない。
また、彼ら大アルカナの天使は光輪を頭上に連環することが可能であるが、セフィラを持つ天使、例えばシェイクの糜爛した寵塵界のような独自の名と能力を持つことが許されていない。
名とは魂に刻まれた碑文に等しいものだ。文字の無い石碑など路傍の石と変わらない。
ゆえに、大アルカナの天使は生命樹の天使を怖れ、敬い、そして妬んだ。
星を大アルカナに持つ、十七径という赤いツインテールを目立たせた少女がいる。
ツァディーは大アルカナの中でも一際劣等感に苛まれていた天使であった。
生命樹の天使の添え物という、底が見えた虚しい己の存在理由に。
……ふざけんじゃないっつーのよ。
名を持てず、自由に羽ばたけず、事象と神気を受け渡すだけのトンネル役に過ぎない己に怒りすら感じた。
なぜ自分はセフィラを持つことが許されないのか。所詮人造の天使では頂に昇ることが許されないのか。
いいや違う。あたしはこんなところで終わる存在じゃないはずだ。十七という下位の数字でありながら、自分の神気は九径にすら匹敵する。
つまり、こんな脇役のまま消え果てるわけがないのだと。
くちびるを吊り上げたツァディーに絶好のチャンスが舞い降りた。
『イェソドの天使を連れてきてください』
突如としてそう命令を下したのは、自分たち大アルカナを実効的に支配するケセドのロゼネリア・ヴィルジェーン。
頭脳明晰で物腰も柔らかく、四番目のセフィラに相応しい神力を有した女性である。
常に何手も先を見通して計画を練るロゼネリアは、セフィラや天使のためには時に非情な判断を下すこともある。
ロゼネリアは言った。この先の計画にはイェソドの協力も必要になるのだと。
そして、こうも続けた。
『ただ、彼はとても気まぐれでして、私の手にも余るのです。変に反抗されて、目的の阻害をしてこなければ良いのですが』
フッとした笑みであった。
加えると、ロゼネリアはほぼ全ての大アルカナに向かって命令していたのだ。
それはつまり、従わねば殺してこいという意味に他ならない。
現在のイェソドは、かつてのイェソドを殺害してセフィラをモノにし、激昂した当時のティファレトをも虐殺した。
いわば異端である。その獰猛な強さと性格ゆえ、人間から転生したのかも疑わしい。
だが、恐れるほどではない。たとえ崇高なるセフィラを宿しているとはいえ、下から二番目のものに過ぎない。単純な戦闘能力であれば大アルカナの最上位陣はマルクトをも凌ぐのだ。自分たちの力を結集すれば、イェソドに敗れる道理など無い。
それにしても恐ろしいのはロゼネリアだ。同胞であっても必要無いと判断すれば、即座に見限る冷血さ。数年前にもネツァクの曹玲の宗旨替えを見破り、斬り捨てている。
ロゼネリアがどれほどの権限を持ち、セフィラを有する天使を誅殺するにまで至るのかは分からない。が、ツァディーにしてみれば正直なところありがたい話なのだ。
いつか必ず上り詰めてやる。
自分こそが生命樹の天使に相応しいのだと、彼女は虎視眈々とその座を狙っているのであった。
そう、我々はビナーが直々に創造してくださった誉れ高き神秘の軍勢なのだ。
たかが元人間風情め。堕落し、地に伏せてその場を明け渡せと。ツァディーは内心で黒い感情を燃え滾らせる。
いける、やれる。曹玲とも同等に戦うことができた自分だ。果てなく上を目指していける。
そう考えるのは彼女だけではないようで、何かと行動を共にする十五径も、沈着冷静な十四径も感情の多寡はあるにしろ、同様であったようだ。
いや、もはや大アルカナの全てがそう考えているに等しい。
抑圧された現状を打破すること、セフィラに自らの存在を知らしめること。そのタイミングはまさに今であるのだと。
ツァディーは内心ほくそ笑んだ。
今回は零径や一径に譲ることになりそうだが、いずれは自身も天翔ける化身へと転生するのだと。
その高みで見下ろす景色とは、いったい如何ほどの物なのだろう。
ツァディーは、他の大アルカナは、そうした高みを夢見て獲物の元へと向かっていった。
だが、しかし――
「あ……! あ、あァ…………」
ツァディーの視界は血に染まっていた。
むっとする高密度の死臭に呑み込まれて燻られて、思考と手足が完全に硬直している。
見渡せば、ぶち撒けられた吐瀉物のように、骨と肉片がそこかしこに転がっている。
その中心で、喜悦を発しながら月光を浴びる存在が、クチャクチャと何かを咀嚼していた。
口元から覗き見えるのは指だった。遅れてそれが仲間だったものの一部だと理解する。いったい誰だろう。五径か八径か三径か……。
「あーん?」
「ひ――!?」
天使を喰らい、嚥下した禽獣が、縦に開いた瞳孔をした眼をツァディーに向けて睥睨する。
ベッと骨を吐き捨てて、鮮血に染まった犬歯を剥き出しにして男はせせら笑う。
「ハッ! 揃いもそろって味気ねえボケ共が。威勢が良いのは結構だがよ、相手見て喧嘩売れや」
イェソドのウォルフ・エイブラム。
月のセフィラを自ら掴み取った、最凶の獣人。
その戦闘能力はツァディーたちの想像を遥かに凌駕するものであった。
マルクトのシェイクをも超える零径と一径を、たったの一撃で瞬殺した光景は、大アルカナの軍勢を射竦めさせるに十分だった。
そこからは一方的な虐殺。いや、屠殺であった。
絶叫を背景に、千切り、引き裂き、喰らって吐き捨てる。
虚腹の餓狼は衝動のまま、血肉の雨を駆け抜けた。
しかも、ウォルフは光輪を顕現させてすらいなかったのだ。
「この俺をシェイクなんぞと同等に扱いやがって。弱っちい上に身の程知らずじゃ、鼠の方がよっぽど救いがあんぜ」
「ィ――ぅぅ…………!」
「それとも、お前も強者を狩れる鼠だってことかい?」
意味深な問いに、しかしツァディーは答える余裕が全く無い。
十四径も十五径もとっくに殺されてしまった。
残っているのは自分だけ。自分だけに、浴びるだけで卒倒しそうな視線と殺気が向けられている絶望。
「しかしまあ、ちっと癪だな。ロゼネリアの都合が良いように事が運んで、まるで俺が道化みてえじゃねえかよ」
「え……?」
その言葉に、我知らずツァディーが反応する。
都合が良いように? それはまるで自分たちが邪魔な存在だとでも言うような……。
「ま、取るに足らねえ些事だ。俺ぁ太陽さえシャキッと昇りゃあそれで良いから――なぁ!」
「ガ――ァ――」
「夢見るのは構わねえが、ちゃんと足元見て歩けや」
もはやウォルフが何を言っているのかも分からない。
心臓を貫かれて混濁する意識の中、ツァディーは一つの結論を導き出した。
ああそうか、あたしたち大アルカナは……。
所詮紙切れから創られた、ただの端くれに過ぎなかったんだ。




