昇る陽
真夜中の墟街地。薄皮一枚隔てて黄泉の世界と繋がる地上の地獄。
その場所の次元を引き裂いて、一人の少女がヌッと現れる。
「とーう」
気の抜けた掛け声を発し、少女――チェルシーは両手を前に放り出す。
「痛っ!?」
「んにゃ!?」
それぞれの手からポイ捨てされた大和と美琴は地面へとダイブした。
「ったたー、おしり打ったー……」
「あらら、それは申し訳ない。……おろ? 八城さんはどうしてうつ伏せになってるんです? 胃がムカムカするの?」
「食ってねえよ草なんざ!」
犬コロじゃねえんだよと、起き上がって憤慨する大和を「そですか」と受け流し、チェルシーは次元の亀裂に神気をぶつけて塞いでいた。
フウッと一息ついたチェルシーを、目を眇めて射抜く大和が口を開く。
「……どういうつもりだよ?」
「どういうつもり、とは?」
「とぼけんな、お前も連中の仲間だろうが。俺らを助けて、一体何を企んでやがる」
「ちょっと大和、せっかく助けてくれたんだし」
「おめーはちっと黙って――」
刹那、大和は息を呑む。
空に浮かぶ、あまりにも巨大で不気味な三日月が目に飛び込んできたからだ。
「おいおい……」
呆然と呟く大和はその三日月から目が離せない。
まるで嘲笑うかのように歪んだ弧を描くそれは、禍々しい月光を迸発させて一面を銀色に染めている。
「あ、あんなにデカかったか? あの月……」
大きさもさることながら、気分を害する邪悪な銀色も以前とは比較にならないように感じた。
それでいて、取りつかれるような奇妙な畏怖感も味わわされる。横にいる美琴も同じ感想を持ったようで、慄然としながら月光を見やっている様子がはっきりと見てとれた。
そう、はっきりと。白夜の如く夜を浸食するその月は、まるで小さな太陽だ。
「あまり直視しないほうが良いですよ。悪魔になっちゃいますから。……ふわぁ」
言って、生あくびをするチェルシーの言に反射的に従う二人。
彼女の言葉は比喩ではあるが、当然楽観できるものではない。
元々、日が落ちて出てくるあの月の光を浴びた人間が豹変するのは周知の事実だ。明らかに凶悪さを増している月に対し、警戒しろというのは当たり前のこと。
しかし、それにしてもあの存在感にはたじろいでしまう。
一体何がきっかけで、あそこまで変貌してしまったのか。
「怖ーいワンちゃんが色々やる気出しちゃったからよ」
「――ッ!?」
突然の知らない声に驚愕し、すぐさま振り返る大和。
「な……ぁ……」
言葉を失う大和であるが無理もない。
鋼の山、としか形容できない巨漢がそこに佇立していたのだ。
大和より頭二つ分以上は大きく、全身を形成する筋肉の装甲も凄まじい。
甚大極まるプレッシャーである。対峙しているだけで足が震えそうになるほどの。
しかも、男は全く気を込めてすらいない。ただ垂れ流しているだけの神力で大和を圧倒し、閉口させているのである。
「い……いつの間に……」
「あら失礼しちゃうわね。アタシってばずーっとここにいたわよ」
「……嘘付けよ」
「あん! ひどぉい、ホントなのにぃー。ね、チェルシー。てゆーかおかえり」
「ただいまマッカム」
「……ッ」
涼しげなチェルシーの態度は嘘が無いことへの証明だ。
臨戦態勢ではなかったとはいえ、今の大和から気配を悟らせなかったほどの実力者なのである。
(こいつも……連中の一人か)
嫌な汗を垂らしつつ、大和は察すると同時に納得した。
この男の力は強大だ。強大すぎて計り知れない。
正直言って、あれほど苦労して斃したシェイクが赤ん坊にでも思えてしまう。
大和の勘は当たっている。マッカムと呼ばれたこの男も有象無象の追従を許さない、唯一無二のセフィラを有する至高の天使。
……そう、天使なのだ。これで。この見た目で。
坊主頭にサングラス。黒のレザーパンツを履き、裸の上半身にはなぜかサスペンダー。極めつけはオネエ言葉である。
「大和くん……だったかしら? だってアタシ、ずっとあなたのお尻に夢中で声掛けなかったもの。……っていうかお顔も中々かっこいいじゃなーいッ!?」
「うおおぉ……!?」
鳥肌立ちまくりの大和。
要するに、完全無欠のアッチの人だった。
「ッフウ――――ッ! 来てるわ来てるわ切れてるわよォー!」
「ナイスバルク!」
腰をカックンカックン振りながら筋肉を強調するマッカムに向かって、悪ノリしたチェルシーが声援を送る。大和と美琴は完全にドン引きしていた。
ひとしきり腰を振ったマッカムは、「ふう……」と呼気を整えてから大和らを見やった。
反射的に身構える大和の元へ、マッカムはゆっくりと距離を詰める。
舌打ちし、来るなら来やがれと臨戦態勢に入る大和を尻目に彼は言った。
「その子を助けに……黄泉まで行ったのよね?」
「……あ?」
美琴を見据えつつ、いきなりそう尋ねるマッカムに、大和は我知らず間の抜けた返事をした。
どういうつもりだと訝しるが、当のマッカムは、
「無事に救えて……よ、良がったわねぇ……! うぅう……ふううぅ……ッ!」
「……はい?」
号泣していた。ガチ泣きだった。
肩をぷるぷる震わせ、サングラスから零れる雫をハンカチで受け止めている。
「困難に立ち向かう男の子と、健気に耐え忍ぶ女の子。悲しみと障害だらけで、けれど最後はハッピーエンド。……ああっ! ダメッ! ダメよアタシ泣いちゃダメ! アタシってばこういうお話に弱いのよもうっ!」
「「……」」
呆気に取られる大和と美琴。
サングラスを傾けて涙を拭い、鼻を啜ったマッカムは美琴の肩へポンと手を置いた。
「ごめんねぇ色々迷惑かけちゃって。辛かったでしょ?」
「は、はあ……ど、どうも?」
迷惑どころか一回殺された美琴だが、すっかり気圧されてしまい、文句を言うどころか妙な返しまでしてしまう。
(なんじゃこいつは……)
大和は呆れ返った。ふざけた態度が目立つマッカムが本当に邪悪な天使の一員なのかと疑ってしまう。
美琴も同じ感想を持ったようで、きょとんとした表情をしている。
数瞬の間、弛緩した空気が流れた――が、「ところで」というマッカムの重い声。
「――シェイクはやっぱり帰ってこないのかしら?」
「ッ……」
その問いに、大和と美琴は同時に息を呑み、固まった。
凄まじい威圧感である。巨人の手で掴まれているかのように、身動きが全く取れない。
マッカムのサングラスの奥の表情は読み取れない。けれど、僅かに変化した声色は二人が肝を冷やすには十分であった。
『破壊』のセフィラ、第五のマッカムが見せる闇の片鱗。
二メートルを優に超す大男の体躯は大和と美琴に影をもたらしたが、
「マッカム、最初に決めてたじゃないですか」
「……そうだったわね」
そこでチェルシーの助け舟が入っていた。
一つ呼気を吐いたマッカムが張り詰めた気を霧散させたのを見て、チェルシーは続けた。
「シェイクは戦場で他人に干渉されるのを激しく嫌います。だから手は貸さない、と。それに」
「ロゼも言ってたしね。シェイク一人にやらせるようにって。……正直、それについては思うところが無いわけじゃないわ」
「わたしも同感です。そして、儀式の当事者としては遣る瀬なくて不甲斐ない。……先ほどのことも、あなたにとっては面白くはなかったでしょうけど――」
「まさか。いいのよ、気にしないで」
「……何を、言ってんだお前ら」
チェルシーとマッカムの会話を聞いていた大和が解せないといった様子で横槍を入れる。
それに反応したマッカムは真面目な表情を崩し、うぷぷぷと口元に手を持っていくオネエ笑いをしながら返した。
「イヤねえもう、分かってるくせにぃ」
「あ?」
「チェルシーはね、大和くんたちが心配で心配で助けにいったのよ」
「……はん?」
「いや、ちょっとマッカム……」
ちょい待てと、ジト目を送って抗議するチェルシー。
同時に、目をキラキラさせながら彼女を見つめるのは美琴であった。
「わあ! やっぱりそーだったんだ! ありがとチェルちゃん!」
「や……、その……」
美琴の好意を向けられ、チェルシーはもにょもにょと口ごもる。
だが、そこで大和が美琴を庇うように前に出た。
「ふざけんな。そんな答えで納得できるかよ。てめえらはこいつを殺した奴の仲間なんだろ。なあなあで済ますつもりは無えんだよ!」
「…………、」
射殺すような大和の糾弾に、チェルシーとマッカムは沈黙する。
ギラギラと輝く銀色の月光に顔を染めた四人が膠着状態となったとき、その場に新たな声が加わった。
「そう熱り立つな。ただでさえ出来の悪い脳が茹って使い物にならなくなるぞ」
「――」
聞き覚えのある女性の声であった。というよりも忘れられるはずがない。ここ数日で、大和に多大な影響を与えた人物のものなのだから。
同じく、チェルシーとマッカムも僅かに息を呑んで彼女を見据えていた。
砂利を踏み鳴らし、漆黒のポニーテールを銀世界に遊ばせつつ勝ち気な表情をして近付いてくるその少女。
「……曹玲」
「間抜け面を晒すな。まあ、とりあえずは二人共無事に戻ってこれてなによりだ」
「あれ? この人……」
という美琴の呟きは風に溶ける。
一方でマッカムが口元を和らげ、気さくに曹玲に声を掛ける。
「ずいぶん久しぶりね。元気そうで良かったわ」
「それはどうも。あなたに生かしてもらったようなものだからね」
「……ひょっとしなくても怒ってる?」
「まさか。感謝してるさ。倍にして叩き込んでやりたいくらいにね」
曹玲とマッカムの間に奇妙な空気が生じ始めた。
それを不穏と感じ取ったチェルシーが、「この場でおっ始めるのはやめてくださいよ」と間に割って入る。
「お前は背が少し伸びたな、チェルシー」
「あなたは出るとこ出てきたのに、相変わらず色気が無いですね」
「……放っておけ」
舌打ちし、面倒そうに頭を掻く曹玲。
そして彼女は大和からの視線に気付き、「何だ」と目で促した。
「……やっぱり、こいつらと知り合いだったんだな」
「ああ、前に言った通りだ。私もかつては生命樹の天使の一員だった」
今しがたのマッカムらとのやり取りを見ても、それが純然たる事実に他ならない。
曹玲は元第七。勝利の概念を内包するセフィラを過去に有していた。
ゆえに、彼女は堕天使たちの目的を知っている。そしてその対策も。
けれど、いま最優先すべきはそれではない。曹玲は大和たちにそう促してから続けた。
「とりあえずお前たちは帰ってゆっくり休め。後で私が納得行くまで説明してやる」
「いや、けどよ」
「休息というものが身体には必要だ。お前だけじゃない、彼女だって心底疲労しているんだ」
「あっ……」
「や、あたしは別に」
笑みを見せる美琴だが、無理をしているのは明白だ。
思い直した大和は一度大きく呼気を吐き、「分かった、帰ろう」と従った。
「それが良い。じきに世の混乱も落ち着いてくるだろうからな」
「どういうことだ?」
「気付かんか? あれだけ跋扈していた瘴気や魍魎共が消え果てていることに」
「ッ」
言われてみれば、確かに不快なガスも蟲も全く存在していない。
黄泉に近しい墟街地ですらこうなのだ。ならば当然、世界中に一時の安寧が訪れたことになる。
「お前がもたらしたんだ。誇れ」
「俺は……」
「いちいち謙遜するな。それにホラ、空を見上げてみろ」
「……っ」
「わあ……」
曹玲に続いて天を仰いだ大和と美琴は感嘆する。
空が、白んでいたのだ。それも先ほどまでの禍々しい白夜とは正反対の優しい光で。
「夜明けだ。この星に再び太陽が昇った」
生命を包み込む神々しい陽の光。
見据えつつ、曹玲はチェルシーに問いを投げた。
「お前はあの太陽をどう思う?」
「……」
一拍置いて、問われたチェルシーは静かに答えていた。
「温かい、とても良いものだと思います」
「そうか」
フンと鼻を鳴らし、口元に弧を描いた曹玲。
そのまま彼女は大和らを連れて、墟街地から離れていった。
「……さて」
残されたチェルシーも思い立ったように歩み出そうとする。
「マッカム?」
だが、自分とは違って一向に動こうとしないマッカム。
チェルシーの問い掛けにも反応せず、彼は地面を見つめながら一歩二歩と歩き、やがて近くの瓦礫の上に腰掛ける。
「アタシはもうちょっとだけここにいるわ。もしかしたら、シェイクがひょっこりと帰ってくるかもしれないしね」
「……そうですか」
マッカムの意を酌んだチェルシーは余計な口を挿まない。
一度だけ大地の方を見やってから、彼女は流れる風のように去っていく。
陽はなおも昇り続け、いつの間にやら月の姿は見えなくなっていた。




