感謝の心
網膜が紅蓮に染まり、ゆらゆらと歪んでいく。
「ぐぅ……ッ!」
知覚し、刹那に回避の動作を取れていたのは紫電に等しい反射ゆえ。二十メートル程の距離を稼ぎ、どうにかこうにか地に立った。
しかし、戦闘において敵手から目を離した代償は決して少なくない。
迦具土の指の先、それが僅かに大和の背中を掠っており、結果として彼は背に大きな火傷を負ってしまった。皮膚が爛れ、嫌な水膨れがみるみるうちに出来上がる。
「ハッ……! いっ……てえ……!」
卒倒レベルの激痛だった。それも打ち身や切り傷とは種類が違う、纏わり付くような粘っこい痛苦。
まるで全身を高熱で浸食されるんじゃないかという恐怖が頭を駆け巡る。
中世の魔女裁判において、人はあらゆる種類の拷問を魔女に掛けてきたが、その最終局面が火刑だという。
今なら拷問の締め括りが火あぶりというのも納得できる。磔にされて生きたまま炎に抱かれるというのはそれこそ焦熱地獄だろう。
せめてもの抵抗として苦痛に対して身じろぎすることすら許されず、常に身を焼かれているために気絶することすらできず、火や煙で呼吸まで奪われ、徐々に、徐々に、しかし加速度的に全身を焼き肉にされている様を自覚しながら骨身を晒して死んでいかねばならないのだ。
逃れられない死への片道切符。これが炎、これが紅蓮。
ライターやコンロで手軽に熾せ、日用的に扱っている自然の力。
だが方向を変えればこれだ。その力は人間など欠伸混じりに燃え散らす。
意識を朦朧とさせて絶え絶えに喘鳴を漏らす大和に、更なる追い打ちが加えられようとしていた。
「……おいおい」
迦具土が口元で火炎の闘気を練り上げていたのだ。
刹那、雄叫びと共に放射。景色ごと燃やしながら豪速で迫るそれ。
「くっそ――」
腕を交差し着弾。ボロ屑よろしく派手に飛ばされ、強かに大地を削って進みながらようやく停止した。
「あ――ガ、ァ――――!」
倒れ、虫のようにもがく大和。
ジジジ……と、微かな音が耳を突く。焦げた臭いが嗅覚を刺激する。
その両腕が、見るも無残に焼け焦げていた。
火傷を起こす肌も、膨れ上がる水分もそこにはない。
獄炎により真皮まで一瞬で炭化し、皮下組織どころか場所によっては筋肉まで晒している。
痛々しいが、しかしシェイクは鼻を鳴らして不満を垂れる。
「反射的に雷ぶつけて威力を殺したってわけえ? しつっこいなあ、そこまでして生き延びたいの? うっざ!」
「うる……せぇ……」
呼吸を荒げ、大和は滝のように汗を流しながら上体を起こす。
「こんな汚え場所……さっさとおさらばしてよ、風呂入ってメシ食って寝るんだよ……」
「ひ、ひひ……、きひひひひひ……!」
シェイクは嗤う。この期に及んでよくもまあそんな口を利くものだと。
「――あったま来た」
そして冷酷に顔を染めた。
大声で迦具土を呼び、感情のまま命令を下す。
「そこのバカに伸しかかれ! 逃がさないようしっかり捕まえろ!」
「――」
言うが早いか炎神が吠え立てながら突進してきた。
慌てて膝に力を入れて立とうとする大和だったが、瞬間足首に狂熱が宿る。
「バーカ。寝てろってのよ」
手を掲げたシェイクにより、一匹の蛆が発生して噛み付いていたのだ。
気を取られて動きが止まり、そしてそれは致命となる。
「ァ――――」
巨大化する影。否、これは肉薄する炎の壁。召喚された蛆は灰燼と帰していた。
紫電など藁同然に消し飛ばされ、そのまま大和は炎神に押し倒された。
「が、あァッ、あああぁぁぁああぁああああッ!!」
「にゃはははははは! あっはははははははは! そーよ、それよそれ! そのバカみたいな声が聴きたかったのよ!」
焦熱に梱包されて絶叫を上げる大和を見て、シェイクはパチパチと手を叩きながら嗤っていた。
心底可笑しくてたまらないのだろう、嗤いすぎて目尻に溜まった涙を拭ってさえいる。
「あはははッ! ひー、ひー! だ、だいじょぶだいじょぶ、すぐには死なないよう調整して、じっくりのんびり焼いてあげるからさぁ! きゃはははははは!」
ひとしきり大笑いし、シェイクは口元を上げて意地悪く振り返る。
そして美琴を睥睨し、侮蔑するように言い放った。
「見てみなさいよ。この無様に喚き散らすブサイクを。そのうちもっと惨めに泣き喚いて、みっともなく命乞いするだろうからよーく見ときなさい!」
「……しないと思うよ」
「はあぁー?」
何言ってんのこのブスはと、シェイクはなおも美琴に突っかかる。
「どこまで夢見たバカなのよあんたは! 知らないようだから教えたげるわ、こいつは死んだあんたを見て、ブサイク晒してロゼにペコペコ頭下げて泣いてたのよ! お願いしますお願いします、どうか生き返らせてください、うわあぁんってね!」
「――」
一瞬だけ、美琴は驚いていたようだが、しかしすぐに「そかっ」と落ち着きを取り戻した。
「……は?」
だがその態度を良しとしないのがシェイクだ。
意にそぐわないモノに対しての不快感。
「なーに強がってんのよ。膝震わせちゃって、やせ我慢が見え見えなのよ。失望したんでしょ? 自分が虐めをあえて受けることであたしから目を逸らさせた、大事な大事な男の本性を知っちゃってさ」
「んーん。ちょっと驚いたけど、ああやっぱりなって思った。大和はそういう奴だから。そう言ってくれる奴だから。有り体に言えば」
――人のために泣ける男の子なんだ。
「――――ッ!」
瞬間、シェイク・キャンディハートは虫唾が走って逆流してくるのを確かに感じた。
そして口内に溜まったそれを、嫌悪と共にベッと吐き捨てる。
だけでは収まらず、爪で自らの手の甲をガリガリと引っ掻く始末。
「あー気色悪い! あたしはそーいう偽善ぶったもんが死ぬほど嫌いなのよ! 自己犠牲とか思いやりとかホンットーに反吐が出るわ! かっこつけてんじゃないっつーの! いい、あんたもあいつもちょいと追い込めばそんなセリフ――」
言いかけ、ハッとするシェイク。二の句が継げず、そこから先の言葉が出ない。
なぜなら、大和も美琴も、決して自分の身の安全を乞う態度を取らなかったからだ。
泣き顔を晒したにも関わらず。蛙みたいに悲鳴を上げたにも関わらず。
言ってしまえばそこは他の人間と同じだ。蹴れば泣くし殴れば呻く。玩具のスイッチと変わらない。
けれど決定的に違うのは、大和らは命乞いだけはしていない。
まるで、それをした瞬間に大事な何かを喪失するとでも言うように。
それは誇りだろうか、意地だろうか、いいや違う。彼らは互いに互いを護っているのだ。
今現在、大和が屈したら美琴はどうなるか。
屋敷にて、自分の責め苦に美琴が屈したら大和はどうなったのか。
「――……っ」
それが理解できるからこそ、シェイクは彼らの気持ちが欠片たりとも理解できない。
「なんなのよ、あんたら……」
たかが他人じゃない……。
「スカしてんじゃないわよ」
一皮剥けば見苦しい畜生のくせに。
「なんだっつーのよッ!」
理解が及ばないモノに対し、人は不安や嫌悪を覚えてしまう。
ゆえ、シェイクはここに来て初めて彼らに対して焦りを抱き、慄いていた。
……慄く? バカな! あたしはシェイク・キャンディハート! こんな狂った雑魚の自己満足に恐怖なんか覚えない!
「所詮は群れる三下どもの理屈じゃない! 一人じゃ何もできないから他に依存すんのよ! 弱いから、バカだから! いちいち寄り添ってお手手つないでなきゃ歩けもしないのよ!」
「だから我が物顔に振る舞うの?」
「世界はあたしのモンなのよ! どいつもこいつもゴミ同然! 毎日毎日千人は殺して、殺して殺して死体を大地に垂れまくってやるわ! あはっ! あはははははッ!」
吠えて狂笑するシェイクを受け止めて、美琴は静かに言を放つ。
「あたしもね、小さいときから大和とは馴染みだったし、大和のお父さんとも色々話をしたこともあれば、迦具土を見せてもらったこともある。そしておじさんはよく言ってたんだ、感謝の気持ちを忘れないようにって」
かつて大和の父、信幸は言っていた。迦具土とは感謝の象徴であるのだと。
自然とは人々に多大な恵みを与えるが、しかし一方で大災害を引き起こす怒りの象徴なのだと。
火、水、風、雷、大地など様々あるが、火はその中でも特に身近で危険を孕む。
調理に加工に、あるいは暖を取ったり花火などの娯楽に用いられたり。
手軽に扱える反面、僅かでも軽視すれば即座に炎は人々に牙を剥く。
驕ってはいけない。自惚れてはいけない。人間が炎の力を支配したなどとは決して。
「だからこそ感謝の気持ちを大事にするんだよって」
身近にある強力な力だからこそ、正しく丁重に扱えば炎の神も喜んでお力を与えて下さるのだと。
「もちろん、それは火に限らない。あらゆる力に対して言えることだし、その使い方と方向を見誤らず律せるのが人間なんだよ。まあ、おじさんの受け売りだけどさ」
たははと力なく笑う美琴だが、しかし一方でそこだけは譲れない。
つまり、シェイクの力は、力などは、冒涜で穢し尽くしたガキの火遊び以下なのだと。
「こ――の――――ッ!」
「…………」
憤怒に膨れるシェイクをよそに、美琴は更にその先へ視線を向けた。
あんたは違うはずでしょう。正しい力を示せるはずでしょう。
堕ちた魔や暴力も、あんたは祓い、清めて導けるはず。
だから――
「――いいかげん立てっ! 大和ッ!!」
力の限り、叫んでいた。
「ハッ! バーカ! 言うだけ言って結局他人任せじゃん。鬼ねーあんたも。だいたいあいつはとっくに迦具土に灰にされて――」
瞬間。
背後から、耳をつんざく大轟音が発生していた。
「――え?」
瞠目し、目が皿になるシェイク。
動けない。振り向けない。我知らず出た汗がつうっと彼女の頬を伝う。
ぎぎぎ、と。油の切れた機械のようにぎこちない動きで振り向けば――
「……誰が、灰になったって?」
「な――ッ!?」
炭クズ同然の八城大和が、迦具土を押し退けて立ち上がっていた。
吹けば飛んで四散しそうなその少年が、しかしシェイクには圧倒的なプレッシャーを与えていたのだ。
小枝に等しいその腕で、燃えるのも気にせず巨岩に等しい迦具土を持ち上げている。
「どこか……遠慮してたのかもしれねえ……、神様に対して刃を向けるのをな。……けどよ」
噴火や津波に対して、ただ指を咥えて見ているだけが人間ではない。
できる限り対抗するし、力を合わせて奔走する。
まして、それが悪意を孕んだものならなおさらだ。
「だからよ、もう遠慮しねえ……。悪い心が巣食ってんなら……、僭越ながらよ、俺がこの場で叩っ斬ってやらぁ!」
ギチッと迦具土に喰い込む左の五指。
次いで持ち上げている炎神の腹部へと、畳まれた右腕が合わされていた。
(俺の神饌をくれてやる!)
だから代わりに力を寄こせ。
その意志は号砲として、ついに神の意識を引っ張り出した。
八城大和の肉体が、見る見るうちに再生し、そして神性を帯びていく。
神威が螺旋となって迸り、双眸は慧眼と化して淡い光を放ってゆく。
「おおおぉおぉああぁアアアァァアッ!!」
信念を研ぎ澄まし、内在する神のために自らを幣帛して迎え入れ、その身を一柱と化せ。
それは至高の術。
もはや概念と化した天使らに、唯一対抗できる神力溢れる術式は――
――帛迎。
「そん……な――ッ!? な、何よそれェッ!?」
勝ちたい勝ちたい負けられない。
想いの丈を刃に変えて、八城大和は遂に聖なる名を典掌した。
『――天之尾羽張――』
堕天の驚愕に答えることなく解き放たれた、黒く玉散る十拳の剣が、黄泉に巣食う闇を一閃していた。




