迦具土(かぐつち)
それは焔の咆哮だった。
音速の雄叫びが波紋状に広がって、漆黒の黄泉を灼熱色へと変えていく。
岩が、木々が、瘴気が、蛆が、その熱風に呑まれると同時に消し炭となって霧散する。
大和と美琴が命を繋いでいられるのは、神威が障壁となってどうにか凌いでいるからである。
「ァ――――……」
声が、出ない。
景色が、歪む。
呼吸が速まり、手足が小刻みに振動しているのは武者震いなどでは決してない。
今や黄泉全体に陽炎を発生させている炎の権現に圧倒されて戦慄する。
火の神――迦具土。
全長十メートルはある極大な蜥蜴、その眼がギョロリと動いて大和を捉えた。
「――っ」
目が合っただけで焼死しそうなその威武を浴び、ようやく絞り出したのは縋り付くに等しい言葉であった。
「な……なんで……、迦具土が、そんな……」
懐かしく馴染み深いその外見。
けれど、内在する気の質が違う。隣に立つべき者が違う。
そして何よりも――
「ち、違う……」
「はあー?」
焔の神を従えた幼い天使が、片目を眇めて不満を垂らす。
拍子抜け、期待外れ。そんな感情を見せびらかすようにして表情を歪めている。
おおよそ、腰を抜かして絶叫するザマを眺めて高笑いでも決め込むつもりだったのだろうが、それに反してどこか冷静とも言える大和の反応が気に食わないのだろう。
「違うって何がー?」
一転して相好を崩すシェイク。
甘ったるく、とろけるような声音だが、シェイクの目は冷血そのもの。
小首をかしげた可愛らしい仕種には、一皮剥けば迦具土のそれのように燃え滾る残虐な炎が内包されているのだ。
感情の糸がピンと張る。切れば地獄、千切れば奈落。それ一本で支えているのは、山より重い気まぐれな堕天の理性。
永らえるも壊れるも彼女次第。シェイク・キャンディハートの縄張りでは弱者が異を唱えることなど許されない。
けれど、それでも大和は言わずにはいられない。
「……違うんだよ。迦具土は……、そんな憎しみめいた眼をしちゃいねえ……」
そう、違うのだ。決定的に。
彼の父親、八城信幸が扱っていた炎神のその眼とは。
目と記憶に焼き付いているあの優しく雄々しい覇気は今でも鮮明に思い出せる。
そして、その迦具土を父親もろとも葬り去った眼前の少女のことも。
「ふうーん」
にやぁ、と喜悦を曝け出すシェイク。
パタパタと風に煽られるミニスカートから伸びた足を、ダン! と地面に叩き付ける。
「そりゃそーよ。あたしが目を覚ましてやったんだもーん」
「……なんだと?」
邪悪な笑顔で愛でるように迦具土を見やるシェイクに、大和が険を含ませ反応し、同時に右手で目を覆う。飛び込んでくる白金の光輪があまりにも派手に輝いていたから。
対するシェイクは「分かんないヤツねー」と、その頭上の輪を凄絶に発光させて目を剥いた。
「黄泉に堕ちたものは、みーんなあたしの可愛いパートナーなのよバーカ!」
糜爛した寵塵界。
溶かし、腐らせた魂を奈落の国にて愛で続ける。
墓場であり、地獄であり、シェイク・キャンディハートの遊び場だ。
潰され、死者が怨嗟の声を上げる様相は、彼女の背筋を心地よさそうにゾクゾクとくすぐるスパイスでしかない。
踏み砕かれた魂は彼女の手足となる。蛆や瘴気、八色の蛇雷もシェイク固有の能力ではなかったのだ。
時として、より残酷な行為に及ぶことがある。
相手の心理を理解し、そそのかし、存在自体を創り変えてしまう行為に。
「かわいそーよねぇ、悪気は無いのに産まれただけで忌み子扱いだもん」
「…………ッ」
迦具土。
伝承では産まれ出てきた際、その身に宿す炎で母である伊邪那美を焼き殺した焔の神とされ、同時にそれを見て激昂した父、伊邪那岐に斬り殺された悲劇の神でもある。
「まさか……」
「そーよ。あたしが優しく、やさーしく慰めてあげたの。あなたは悪くないのよー、ってね!」
蛆を従え、八色を這わせ、魍魎跋扈する地下の国を支配する女王。
まさしく死後の伊邪那美のそれである。
そう、かつての国生みの女神に擬態したシェイクは、あろうことか迦具土の自責の念を掘り起こし、挙げ句優しく包み込むという手前勝手な暴挙に出たのだ。
可愛い我が子よ、私はあなたを恨んでなどいませんと。
免罪どころか無罪の言い渡し。加えて子を想う無償の愛。それはシェイクの神力と相乗し、迦具土の心をついに掌握した。
「てめえ……!」
反射的に憤怒した。
なんという罰当たりな。神をも冒涜したその行為に血が沸騰する。
いや、この堕天はもはや自らを神だと思っているのかもしれない。
「てゆーかどーでもいいけど、あんたこの子見たことあんの?」
「……」
だから、有象無象など記憶の端にも残らない。
自分が殺した本来の迦具土の使い手なども、すっかり消え失せているだろう。
「ま、いーや。さーて、ほいじゃあさっさとあんたを――」
「ッ!」
シェイクの呟きが大和の思考を途絶させた。
火炎が狂う。大気中の水蒸気すら塵と消え果て、生者の喉を焼き付ける。
憤怒、憎悪、そして喜びの劫火。
灼熱と化した感情の余波が更なる焦土を創造し。
「――焼き殺して踏んづけてやるわ!」
真っ赤な叫び、真っ赤な世界。堕天に命じられた焔の蜥蜴が猛々しく大和に突貫した。
「ぐ――ッ!」
間一髪、根拆を迸らせ迫り来る炎神を掻い潜ってやり過ごす――が、迦具土は埒外の反応で中空で転じ、着地。一呼吸だけ炎の呼気を吐いてから、即座に大和を捕捉し跳躍した。
「速えっ!?」
驚愕し、けれど右足をグンと畳んで紫電を爆ぜさせ一気に飛び退る。
バチン! と根拆が猛々しく咆哮する。汎用に優れるからこそ、扱いやすさ、エネルギー消費の観点で言えば根拆は石拆の上を行く。
だが、そんな雷の神威を以てしても逃げるだけで精一杯だ。シェイクの光輪の加護を受けた迦具土は膨大な速力で大和を捉えんと追い縋る。
「焼いちゃえ焼いちゃえ、こんがり肉だー! レッツ、ウェルダーン!」
「く――そっ!」
耳障りな歓声はしかし、迦具土にとっては力の根源なのだろう、迸発する神威が更に増して鋭くなっていく。
迅速を誇る大和に迫る速度。焦がし、水分を丸ごと奪う炎熱。そして何よりも恐ろしいのは尋常ならない重圧だ。
巨大な体躯、烈する紅蓮。まるで噴火山でも相手にしているかのような馬鹿げた息苦しさ。それが加速度的に大和の心身を削っていくのだ。
半ば炭と化した大木や巨岩を蹴り渡れば、即座に肉薄する迦具土がそれらを灰燼へと終焉させてゆく。
「…………ッ」
逃げ一手ではジリ貧。
ならばと咄嗟に後退しつつ大きく跳んで、大和は根拆の神威を限界まで引き上げ、練り上げた。
凝縮した雷光を右手に掲げ、空中のまま投擲する構えに入ったところで、
「バーカ! そんな線香花火が迦具土に効くとでも思ってんのー?」
ケラケラとした嘲笑が割り込んでくる。
だが、大和はそれに反応を示さず、迫る炎神を見据え、見据え、引き付けて――一気に落雷よろしく大地へと滑空。
「っ!?」
「バカは――」
瞠目するシェイクに目を向け、着弾した勢い殺さず身体を捻り、
「てめえだ!」
咆哮引っ提げ紫電を放っていた。
極太の有刺鉄線めいた稲妻が、彼方で高みの見物決め込む幼童へと喰い掛かる。
これこそが彼の狙い。
怪異や権化――迦具土をそこに含めてしまうのは業腹だけれど、とにかくそういう類を使役する者とは、扱う対象の力を引き出すことには優れているが、総じて本人自身が貧弱であることが多い。
それは単純に得手不得手の問題なのだろう。
例えばスポーツの世界でも、ランナー、格闘家、球技選手等々、種目によって扱う筋肉や発揮する力、集中力やスタミナ配分などは大きく違ってくる。
各アスリートは己の特性を見極め、肉体を特化させて先鋭し、磨き貫くのだ。
けれど、磨く力の種類には限界がある。許容量がある。
それは召喚術に長けた者が直接自分で戦うのを苦手とするように。
だからこその本人狙い。
ライターが放つ火に触れることはできなくとも、本体から油をぶっこ抜く程度ならば容易というわけだ。
思えば父がそうであった。もちろん常人からすれば十二分に人外めいた身体能力であったのだが、それでも召喚する迦具土には大きく劣る。
ゆえに八城信幸は殺された。執拗に信幸本人を付け狙っていたぶり尽くした幼きシェイクに。
無論それは戦術だし、同じ類の能力者でありながら天使と人間という掛け離れた存在ゆえに、魂の格そのものが隔たっていたことも大きい。
悔しい話だが、信幸が扱うより、今の迦具土の方が全てにおいて数段上である。仮にシェイクが真っ向から迦具土を相手取ったとしても、信幸が敗れることは時間の問題だったかもしれない。
しかし、それで納得できる息子ではない。
ならばそれを味わえと、因果応報をくれてやる気概で最大出力の根拆を放ったのだ。
だが、しかし――
「……あんたってホンットーにバカね」
「な――!?」
楯突く鼠に哀れだと言わんばかりに、蔑みを浮かべたシェイクが雷光の神威を片手で打ち払っていた。
方向を変えた閃光は燃える海へと呑まれていく。
次いでチッと舌打ち。払った右手を軽く振りつつ、シェイクは大和を睨みつける。
「あーあ、やーな感触。手が痺れちゃったじゃん! あたしって正座とか大ッ嫌いなのよね!」
「ば――かな……」
今のは間違いなく全力で撃った。
それこそ最高の集中力と仇敵に対する殺意めいた怒りを乗せた、これまでで最も強い一撃だったはずである。……だというのにこの始末。
「ハッ! あたしが迦具土より弱いわけないでしょーが!」
ふんぞり返って息巻くシェイク。黄泉の主を誰と心得るのだと。
あたしが主役。あたしこそがお姫様。
であれば名実共に一番と。光輪備えた天使は獰猛に犬歯を見せて嗤うのだ。
「ッ……」
大和は戦慄する。
では威力に勝る石拆ならばどうだったのか。答えは同じ、もはやそういう問題ではない。
相性だとか許容量だとか、そういう次元を超越しているのだ。
同じ舞台に立てていない。見える景色も全く違う。
一体勝機はどこに――
「ほーら、よそ見してて良いのかなーっと」
「っ!?」
ちょいちょいと指で上を指し示すシェイクを見据え、慌てて空を見上げる大和。
眼前に広がるのは、迫り来る業火の獣であった。




