繋錠光輪(けいじょうこうりん)
――天使化。
聖なる輪を頭上に輝かせ、内なる力を解放した天使たちの真の姿。
しかし、八城大和は知り得ない。
生命樹の天使による変身という行為の意味を。
今まさに目の前で行われているシェイク・キャンディハートの形態変化を、以前目にしたときのモノと同一に考えるのは愚かである。
地上で彼女が携えていた光輪など、おふざけとノリによって創られた、言わばままごとに過ぎないのだ。
加えて、大和は天使の輪を備えた者と相対したことがある。
この黄泉で出会い、そしてシェイクの八色に殺害された大アルカナの二人。
だが、はっきり言ってそのような凡庸な連中の天使化など、理や概念を掌握するセフィラを有する天使のものとは、比較対象にすらならないのである。
「――く――――ッ」
その意味を、恐怖と共に身体に味わわされているのは他の誰でもない八城大和だ。
暴風と化した黄泉の怨嗟、それが大和の傷口に入り込んで激痛を引き起こす。けれど、彼は微動だにしなかった。効いていないわけでも耐えているわけでもない。ただ、それが意識の外にあっただけだ。
なぜなら、大和の意識は百パーセントただ一点だけに集中されていたから。
いや、他のことに目を向ける余裕が全く無いと言った方が正しいか。
「きひひひひひひ……!」
少女の容貌が愉悦に歪み、その全身から迸る邪気は可視化されて辺りを呪う。
天の使い――否、もはやこれは天に身を置く者の振る舞いだ。
圧倒的な強者ゆえの、自由気ままな不羈奔放さ。
目に留まれば掻っ攫い、気に入らなければ踏み潰す。乞い、縋り、哀絶する声を嘲笑して闊歩するのが第十なのだから。
「あんたをひきにくに変えてから、そこの女に食わせてやるわ」
その両眼が裂かれるように見開いて大和を捕縛する。
さあ、とくと目に焼き付けろ。あたしの正体を見て泣き喚いてのた打ち回れとでも言うように。
可愛らしく、爛漫で、そして嬌態を秘めたくちびるが静かに動き、そこから美音が放たれる。
「――ッ!?」
反射的に戦慄する大和。
これは違う。モノが違う。恐怖より先に、強烈な違和感が全身を走っていた。
なぜならば、自由気ままで享楽の塊であるシェイクが、まるで形式ばった神事を執り行っているようだったからだ。それが不気味極まりない。
大和の思考は間違いではない。
これは森羅万象に内在する絶対的な神秘と真理を発動させる聖なる行為。
人為らざる者へと変生し、泥犂を統べる女王となるために。
光の輪を、紡ぐのだ。
――繋錠光輪。
目が眩む光芒が漆黒の黄泉を白化した。
直後、嗤う天使の頭上に煌く光が収斂し、やがてそれは帯となって連環されていく。
そして、シェイク・キャンディハートは天使化し、遥か高みへ天翔けるための聖なる名を高らかに呼号した。
『――糜爛した寵塵界――』
「ぐ――っ!?」
それは刹那。
黄泉という国そのものが丸ごと埋められ葬られた。
同時に悲鳴の音響が爆発的に跳ね上がり、哀絶の刃となって霰のように降り注ぐ。
黒い瘴気は噴火の如く勢いを増し、場所を選ばず超速で流走した。
五感を襲う閉塞感。これは空間を巻き込んだ土葬だ。埋め立てられた万物がもがき苦しみ絶叫する様は、まさしく墓場と形容して構わない。
有無を言わせず死者を次々葬っては腐らせて、その塵の世界で玩弄する。
名と実体は切り離せず、互いに釣り合い干渉するのだ。
例えば真名は魂の根源と強く結びつく神秘であり。
二つ名は持つ者の栄光あるからこそ与えられ、それは悠久を越えて人々に個を知らしめる。
故人に向けた諡などは、その人物の徳や時代背景が見えてくることだろう。
ゆえに、名には言葉以上の理力や魂が付随される。言わば言霊の究極系だ。
セフィラを有さない大アルカナの天使は名を持たない。ただいたずらに光輪を顕現させるのみ。
無名の英雄などいないのだ。仮に存在したとしても、それは時という呪縛によって風化させられ消え果てる。
ゆえ、人の記憶に、網膜に、その魂に、灼熱の碑文を刻み付けることが可能なのは、己が神威の本質を呼号と共に召喚できる者のみなのだ。
それが証拠に――
「ァ――ガアアァァァァアアァアッッ!?」
涅色の濃霧が大和を浸食する。
纏う雷光の神威など紙の盾だとでもいうが如く、へばり、焼き付け、腐食させる。
咄嗟、強引に瘴気を引き千切り、大仰に跳躍してその場をやりすごすが、
「――ギィッ!?」
しかし中空で待ち受けていたのは更なる毒霧だった。この塵の箱庭において、安全地帯などどこにも存在しない。大地、岩や木々、空からさえもヒビ割れた亀裂から瘴気が止め処なく噴出する。
「大和!」
「おめーは絶対動くな美琴ォ!」
叫ぶ美琴を黙らせる。
石拆を爆散させて無理くりに離脱し、見据える地面の瘴気も消し飛ばしつつどうにか着地する。
黒ずむ肌。麻痺する神経。痙攣を起こしたように手足が震え、眩暈と戦いながら喘鳴する大和。
そのあがくザマを眺め見て、天使化した黄泉の女王がケラケラと破顔した。
「あははははっ! だっさ! まるで蚊トンボね!」
指をさして嗤笑する。
意地悪い主演女優が、名無しの端役や黒衣にでもするように。
羨望と喝采受けて、心でスポットライトを浴びるのはこのあたし。四流役者は影板に引っ込めと、腰に手を当て大見得を切ったシェイクが態度で示す。
だが、対する大和はその天才子役のプライドを唾と共に吐き捨てた。
「っせえな……。蠅の幼虫なんぞ従えてるガキが一丁前によ」
「じゃあその幼虫に喰わせてやるわよ!」
バッとシェイクが右手を上げた。
瞬間、新たな蛆が大量に湧き上がり、一斉に大和を睨めつけてからシュルシュルシュルとのたくって迫りゆく。
「くそっ!」
迎撃を試みるが間に合わず。光輪を備えたシェイクが召喚した蛆の速度はなおも速い。
皮膚を食い破って血が飛沫く。腕の裂傷に入り込んだ個体が肉のトンネルを開けながら突き進み、肩口から勢い良く飛び出した。
「痛ぅ!」
ブシュッと鮮血が跳ね上がる。脳芯を叩かれたような狂熱がそこに宿り、滝の如く汗と呼気が溢れ出た。
「あはははは! よーし喰っちゃえ喰っちゃえ! いけいけー!」
主の声を浴びた蟲が歓喜の蠕動をさせ、そして一斉に餌に群がった。
肉の咀嚼音、滴る血、まるで軍隊蟻やピラニアを思わせる行進は、しかし迸る雷霆によって悉くが燃え散らされた。
「――っ!?」
「ハッ……ハアッ! ……ハアッ!」
ボトボトと炭化した蛆が落ちた先には、呼吸を荒げて血飛沫を噴く大和が佇んでいた。
強化され、超速を誇る蛆を眼前で全て叩き落とすことは不可能。
ならば、誘い込んでから殺せばいい。
石拆の神気を溜め込んで溜め込んで、蟲共を十二分に引き付けてからその紫電で殲滅する。
無論代償は少なくない。文字通り肉を切らせて、という方法だが他に手段が思いつかなかった以上は仕方がない。
夥しい量の血を地面に吸わせているが、それでも大和は立っている。
その双眸を燃やして敵手を威圧し睥睨する。半分以上は虚勢だが、気圧されるわけにはいかないのだ。むしろ稚児にはこれで十分だとでも言うように、幼いシェイクを目で殺しに掛かっていた。
――が。
「あーあ。なーんか醒めちゃった」
そんなものなど歯牙にも掛けず、オモチャに飽きた子供のように、ため息と共にシェイクが漏らす。
「なんかさー、脇役のくせしていつまでも引っ込まない雑魚ってすっごくウザいんだよね。無様だし、映えないし、見苦しいじゃん?」
「…………」
能天気に気だるげに、白金の光輪を明滅させつつそんなことをのたまうシェイクに、大和の焦燥が加速する。
本気を出して放ったその業を、ボロボロにされたとはいえ撃退したのだ。
格下だということは認めるが、それにしたって自分の牙はシェイクにすら届くはず。
だというのに、なぜそこまで余裕を保っていられるのか。
「――」
まさか。
この少女の本質は、瘴気でも蛆でも蛇雷でもなく――
「だ・か・ら・さ」
思い至った大和を嘲笑うかのように、シェイク・キャンディハートの総身から神気が轟々と吹き荒れた。
だが次の瞬間、黄泉の世界が瘴気や蛆を吐き散らすことを止め、そしてそれらもピタリと活動を停止する。
「……?」
なんだこれは?
未だ闇色に染まったままであるが、しかし静けさを取り戻したその世界に疑問を抱く。
いや違う。これは明確な恐怖だ。
駄々をこねて暴れるシェイクにしては不自然で不明瞭なこの現象。噛み合わない歯車同士が強引に回転を進め、嫌な音と共に破滅を創造しているような不気味さ。
嵐どころかハリケーン前の静けさを孕ませる場所に、着の身着のまま放り出された気分に侵される。
そして――それは決して思い違いではなかった。
「虫ケラは虫ケラみたいに、プチッと潰して燃やしてやるわ」
くちびるを舐め上げての宣告。呼応するが如く、赫怒の焦熱が火柱となって迸発された。
その爆風を浴びて金髪を靡かせるシェイクが遂にとっておきを顕現させる。
大地をかち割り、そこから這い出る獄炎の獣。
「さあおいで! 迦具土ぃッ!!」
「な……に……?」
聞き慣れたその単語に、目を見開き驚きを禁じ得ない。
その名は、その神は――
今は亡き大和の父親が、かつて召喚していた火の神であった。




