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不倶戴天

「…………ッ!」


 八城大和は対峙する堕天を見据え、我知らず歯を軋らせた。

 負の軍団を引き連れた、黄泉にあまねく幼き女王、シェイク・キャンディハートのぎらつく視線と殺気を浴びながら。


 そこに加重されるは八色やくさの圧。八匹分の蛇雷が神気を乗せつつ大和を睨みつけている。瘴気と蛆も、今までのモノより遥かにたちが悪い。

 手汗が滲み、それが担いだ美琴の着物をジトリと濡らす。一方で唇はカラカラに渇いてささくれ立つ。全身に起きた鳥肌も、僅かでも邪気を感じ取れるように毛羽立って面積を増やしていた。

 挑発的にシェイクが一歩動けば、反射的に大和も一歩だけ退いて。


 何をカカシになっている。さっさと離脱し、駆け抜けろ。

 脳が命令を発するが、それでも大和は動けない。動いてくれないのだ。凄まじいプレッシャーで底冷えした心臓が、全身に血を送るのを止めてしまったかのようで眩暈すら起きている。


 捕まってはいけない。追い付かれてはいけない。とにかく走って逃げろと曹玲をして言わしめたほどの天使。地上と黄泉を牛耳るセフィラ、第十マルクトを治めるシェイクが放つ鬼気は、人外に至った大和を以てしても恐怖させるほどの圧力だ。

 それがまるで追い詰められた鼠か蛙にでも見えたのか、捕食者であるシェイクが意地悪く口の端を上げていた。


「きゃはっ! なーにその顔おもしろーい! てゆーか自分でやらなくても、あたしがちゃーんと遊んでブタそっくりに変えてあげるから安心しなさいよ」


 こいつらみたいにね、と更に添えて。

 目を細め、ねとりとした粘着性の視線を大和らに向けるシェイク。


 彼女が従える八匹の蛇雷、そのうち胸と腹に纏わりついた二体が、見せつけるように黒炭と化した人間らしきものをぶら下げていた。


「ひ――!?」


 それを見た美琴が青ざめて息を呑む。

 彼女を担ぐ大和は無言であったが、しかしその死体には見覚えがあった。


はなっから全開で行きますわよ!』

『チャンスを授けてくれたシェイク殿のためにも……!』


 行きで原生林を通過した際、大和の行く手を阻んだ天使たちである。

 見目麗しかった少年少女はしかし、骨の髄まで焼かれて凄惨さを晒すのみ。


 歪に曲がった手足、朽ち果ててその先端が消失しているものもある。

 粘膜などはすっかり蒸発し、丸見えの歯が死体のイメージを大幅に跳ね上げる。

 窪んだ眼孔から垂れている一層黒ずんだ一本筋は涙なのか、それとも血であろうか。


「っ……」


 思わず大和が拳を強く握り込む。

 鼻に届くたんぱく質の焼けた臭いがやけに不快に感じられた。


「ほんとこいつら使えないダメダメ天使よね。せっかくチャンスをあげたってのに、怯えちゃってなーんにもしないんだもん。だからバーベキューにしちゃった。まずそうで食べられないけどねー、にゃははははははっ!」

「……」

「なーにあんた、おこってんの? こんなゴミのタメに? あははっ! そーゆーの知ってる! 偽善! 偽善っていうのよ気持ち悪っ!」


 黄泉の女王が大口開けて爆笑する。ゆかいゆかいと侮蔑を込めて。

 そして、嗤った勢いそのままに二人の死体の頭を握りつぶしていた。

 崩れ落ち、闇色の大地に呑まれるように溶ける死体。更にシェイクがそこを踏み付け、躙るが如く擦り付ける。


「ばーか! うっざいのよ人間ごときがさあ!」


 強気な嗤いを崩さぬまま、歯を剥き出してシェイクが猛る。


「あんたもそうよクソ女! 生意気にあたしに喧嘩売って殺されたんだから、その辺のキモい死体共と仲良くやってりゃいいのに、無様に足掻いちゃってみっともなーい、ダッサダサ!」


 その指を美琴に向かって突きつけ、嘲るように言い放った。


「太陽、太陽、太陽! ばっかじゃないの! 好き勝手できる理想郷にガミガミうるさい陽の光なんていらないっつーの! あんたがいるおかげで秩序とか希望とかいうくっだらない概念がいつまでも消えないんだからね!」


 つーかあんたさあ、とシェイクはなおもニタッと口元を吊り上げ、


「気色悪いのよ、そのオレンジの髪がさあ。どろんこ色の方がお似合いよ。またいっぱいお腹蹴ってあげよっか? ああ、蟲のスープはおいしかったかしら?」

「――ッ!?」

「てんめえ……!」


 虫唾が走りそうな悪辣さに、堪忍袋の緒は疾うに切れた。

 辛うじて大和が理性をフル稼働して抑えているのは、抱えた美琴の身を案じているからだ。

 やり合えば敵わない。だからこそ戦いを避けるのだと。

 二度と彼女を失わないために、生存確率を高める選択肢は逃げる他に無い。


 いけるか……? 完全に包囲されたと言って良いこの状況で敵の目を欺くにはどうすれば。

 思考して、しかし瞬間大和はそれこそそれを肌で感じ取る。


「――ッ――――くぅ……っ」

「…………、」


 美琴が――震えていた。

 戦慄し、呼気を速めてカタカタと。

 魂で、刻み付けられているのだ。現世でシェイクに殺され、黄泉に堕ちてからもなお痛めつけられていたのだから。


 それは一体どれほどの苦しみだったのか。

 大和が地上で成し遂げた修練などとはベクトルの違う、言ってみればシェイクの憂さ晴らしの拷問めいたものだったはず。苦痛で言えば比較にすらならないだろう。

 だと言うのに――


「ごめ……、大和……。あ、たしはだいじょぶ、だからさ……」


 神崎美琴はそんなことを言ってのける。

 引きつりながらも笑みさえ浮かべてみせる。

 ガタガタと、震えながら。


(……ッ!)


 また、このような顔をさせてしまった……。

 そして自分は、思い違いをしているのではないか。

 この場から逃げおおせたとして、確かに美琴の命は保障される。だがしかし、刻み付けられたトラウマは一生彼女に付きまとうに違いない。


 それではいけない。永遠に恐怖と向き合わせて生きることを強要するなど、何ら堕天の連中とやってることは変わらない。

 神崎美琴には心から、屈託なく笑っていてほしい。今まで甘えてしまった分、少しずつでも返していけるように。


「…………」


 どうしても戦いが避けられなかったなら、絶対に引くなと曹玲ツァオリンは言った。


 ――その羽はお守りだ、持っていけ。


(……ああ、サンキュな)


 どうやら何もかも曹玲はお見通しだったようだ。

 懐を探り、八咫烏の尾羽を取り出す大和。

 それを美琴に手渡した。


「なに……これ?」

「大事にそれ持って離れてろ。心配はいらねえ」


 言って、大和は美琴を降ろしていた。

 戸惑う美琴であったが、もはや制止の言葉など意味は無いと理解し、言われたままに大和から距離を取っていた。


「あはっ! 観念したってわけえ? だったら遠慮なく」


 獰猛な笑みを携えたシェイクが従えた蛆を大量に――あえて美琴に向かって解き放つ。


「そっちの女から……死ねえええぇぇぇぇええッ!!」

「――っ!?」


 驚愕する美琴に最上位の蛆が殺到した――が。

 瞬間、美琴の握っていた八咫烏の羽根が光りだし、その閃光で蛆虫たちを殲滅していた。


「は――!?」


 瞠目するシェイク。直属の蟲が見るも無残に焼け死んでいる光景に理解が追い付いていない。

 そんな彼女に大和が言ってのけた。


「地下で息巻いてる日陰モンに、今の美琴は害せねえよ」

「……あっそ」


 その言葉だけでシェイクは意を得た。

 直感で感じ取ったのだ。今しがたの閃光は陽の光であると。


 そしてそれは間違いではない。神崎美琴に内包されるは太陽神。加え、彼女が握っている羽根の持ち主である八咫烏とは、太陽の化身なのだ。

 それによりブーストされた陽光は襲い来る邪気を苦も無く払う。言わば、神崎美琴にのみ扱える聖なる結界だ。

 破壊するのは容易なことではない。


「てめーの望み通り、これから俺が遊んでやるよクソ天使」


 八城大和が目を眇めてシェイクを射抜く。

 その可愛らしい見た目と鈴を転がす天使の声。

 されど、大和にとってはその全てが不倶戴天。


 親の仇。忘れた事など一度もない。災禍をばら撒き、万人の魂を玩具にする禽獣きんじゅうめと、眦を決し、黒髪が風に逆らい天を衝く。

 だが、今はそれ以上に優先させなければならない理由がある。

 神崎美琴の命を、心を、魂を、その全てを根底から救い出すため――


 覚悟は決めた。ならば進む。全身全霊で以て、禍根そのものを今この場で断つ!

 バチン! と、紫電を迸発させつつ大和が宣告した。


「来いや。いい加減俺もてめーにゃ勘弁ならねえ」

「――上等よ東洋人イエロー!」


 交錯する感情が火花を鳴らして迸る。

 目を引ん剥いたシェイクが両手を広げ、蛆と瘴気をイナゴの軍勢よろしく大和に向けて絨毯爆撃。逃げ場のない大和が選んだのは真っ向勝負。


「オラアアァァッ!」


 根拆の閃光が蟲ガスを薙ぎ払う――がしかし、


「――!?」


 殲滅には至らない。直撃を喰らってもなお勢いを収めない個体さえいる始末。

 反射、ならば幾度でもと八城大和は神威を放射し続けた。

 迅雷の速度ゆえに手数はこちらが圧倒有利、三度目の雷光で迫る軍勢を死滅させた。


「はっ、根拆よりあのアホウドリの羽根の方が上ってのも複雑だな」


 言葉とは裏腹に笑みを浮かべる大和に、「ぶつぶつうっさいってのバーカ!」と嗤笑が飛んだ。直後に彼の背後から肉薄する闇の群れ。

 間に合わない。このタイミングで先ほどと同じく三度根拆をぶつけるのは。


「きひっ」


 殺った。口の端を歪めたシェイクであったが――

 青白い稲妻の光が彼女の双眸を染めていた。

 大和の総身、そこに纏うは岩山を砕いた石拆が。


「ウ――ラアッ!」


 裂帛の気合い。

 振り返りざまに右の裏拳で瘴気を掻っ捌き、喰いかかる蛆を左の掌底で根こそぎ叩き落としてからダンと地面を踏み付ける。土を奔る紫電が容赦無しに死骸の山を積み上げた。

 射程は狭いが石拆ならばほぼ一撃だ。


 だが目論見通りの結果に満足する間も無く、八城大和が反射的に横っ飛びでそこを離れれば、黒い雷がその場に爪痕を刻んでいた。


「……いい気になるなっつーの、バーカ」


 諸手を広げたシェイクがその肢体からずるりと蛇雷を解き放つ。

 頭から、胸から腹から下腹部から艶めかしくスルスルと。

 そして両の手足からも、蛇から電熱を迸らせつつ大和を獲物と認識させる。


 八色やくさの蛇が解き放たれる。細長い舌をチョロ出しながら、その八対の目で八城大和をギロリと睥睨し。

 刹那――雷轟。

 八本もの異なる稲妻が獲物を八つ裂きにせんと迅速で奔った。


「チイッ――!」


 歯噛みした大和が地を蹴って離脱する。

 けれど、まさに蛇の如くうねる八色が縦横無尽に彼を次々追い立てる。


「あはははははっ! いけいけー! ホラホラ逃げないと黒焦げだよー!」

「うざってえ……!」


 捌き切れない。全速で移動しつつも、追い縋る蛇が曲線を描いて大和の総身に裂傷を刻み、同時に雷気で焼き焦がす。手が、足が、脇腹が血飛沫を上げて火傷を晒す。


 無様に転がった大和を見据え、黒雷、拆雷、鳴雷、伏雷の四匹が天へと飛翔した。

 すると――


「……ッ」


 天空を渦巻くように、黒き雷雲が形成されては辺りを暗く染めていく。

 雷気を噴出させつつ、唸るような轟音が直下の大和を威嚇した。

 喚け、慄け、恐怖しろ。爆ぜる紫電が明滅し、餌を睨めつけ肥大化して――


「――」


 それは落雷として八城大和に直撃していた。


 雷霆万鈞らいていばんきん


 避ける間もない神の怒り。雷速の槍が敵手を穿つ。

 光の柱は爆音と閃光を迸発させて黄泉を照らし、爆ぜ散った雷電は土煙を濛々と巻き上げた。


「――大和ぉ!」

「きゃははははは! 脳天ぶち割られて死んじゃったかなー?」


 悲愴な叫び、喜悦な嗤い。

 対照的な少女たちの感情はしかし、すぐさま逆転することとなった。


「心配すんな美琴。こんなもんで殺られやしねーさ」

「はあ――!?」

「大和!」


 晴れた砂塵の中心点、八城大和は佇んでいた。まるで避雷針のように右手を掲げ、不敵に笑ってすらいた。


「無傷……? あれを受け止めたっていうの?」


 さしものシェイクも動揺を隠せない。

 それを見やり、八城大和は口端を上げた。


「受け止めたんじゃねえ。撃ち返してやったんだよ」

「はあ?」


 どういう意味だとシェイクは思考を反芻させ、思い至ったように天を見上げていた。


「うそでしょ……?」


 消失していたのだ。

 黒雷、拆雷、鳴雷、伏雷の四体が。


 キッと大和を見据えれば、その掲げた右手から紫電の残滓が残っていた。

 まさか、本当にあの落雷を正面から爆散させたというのだろうか。

 わなわなと両手を震わせ、ギリッと歯を噛みしめるシェイク。


「殺せ!」


 右手を振って大号令。

 残る半分の蛇雷を大和へと殺到させた。


 だが――それら全ては雷光を爆発させた大和によって四散されることになる。


 大雷は今しがたのように真っ向から掻き消され。

 火雷はそれによって燃え上がった焔に呑まれて消し炭に。

 若雷、土雷、の二体は彼が大地に放った稲妻に捉えられて絶命する。


「な――!?」

「お前が扱う八色の特性なんざ、こっちはとっくに習得してんだ」


 大、火、黒、拆、若、土、鳴、伏。

 八色――それは雷が持つ理をそれぞれ顕現させたもの。

 絶大な力、巻き起こる火柱、暗黒の空間、引き裂く雷光、生命への刺激、大地に奔る姿、轟音の発生、明滅する紫電。


 それら全ては驚異的な自然現象として、人々を畏怖させている。

 だが、大和は現世で根拆を解放した瞬間、すでにその現象をも掌握していたのである。

 ゆえに、同じものをそれ以上の威力で相殺、及び撃滅させたというわけだ。


「さあどうするよ? 従えた手下連中は全部消えちまったぜ」

「…………」


 シェイク・キャンディハートは反応を示さない。

 俯いたまま、手足を寸毫たりとも動かさず、固まったままである。

 不審に思った大和が一歩動こうとした、そのときであった。


「きひっ……」


 漏れ出たのは嗤い。そしてそこに孕まれていたのは不遜極まりない感情だった。


「きひひひひひっ! あんた、あんたほんとーにムカつくわ! あははははははは!」


 暗い天を仰ぎ、しかしそれ以上に暗い情念を含ませて哄笑をぶち撒ける。

 ただごとではない様相に、一転して大和は身構える態勢に入っていた。


「ちょっと手加減してやったらチョーシぶっこいちゃってさぁ……。いいわ、いいわよ! そんじゃあお望み通りにグチャグチャにしてやるわッ!」

「――ッ!」


 シェイクの双眸が邪悪を孕んで引ん剥かれる。

 その口元は引き絞られた弓のように弧を描き、覗く犬歯は捕食者のそれであった。

 鮮やかな金の髪をバタバタと靡かせつつ、諸手を広げた彼女に宿るは王者の風格だ。

 ギラつく邪悪。天空の雷雲など迸発された神気によって悉く霧散した。

 来る。曹玲が言っていた、本当の意味での天使の恐怖が今ここに顕現される。


「な――」


 絶望が――八城大和を呑み込んだ――


 ――繋錠光輪。

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