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第十(マルクト)のシェイク

 黄泉の国がなお一層奈落へと引きずり込まれていく。

 琥珀色から涅色へと変化した大地と空が這い回るように蠕動し、そこかしこでパンと爆ぜた破れ穴から間欠泉の如く闇の瘴気が放出される。それは土から、岩や木々から空からも。


 まるで生皮を剥がれた人畜だ。蠢くのは痙攣で、噴き出すガスは鮮血だろうか。

 この死の国ですら、斯様かような蹂躙劇に嘆き苦しんでいる。

 血と汚濁に塗れた生暖かい風が鳴らすのは怨嗟の声だ。耳朶に触れればしがみ付き、貼り付いたまま離れない。


 無論、責め立てているのはどこまでも無邪気な悪意。諧謔が過ぎて反吐を叩き付けたくなってしまう。


「あのガキ……」


 今にも黄泉の女王、シェイク・キャンディハートのせせら笑いが聞こえてきそうな様相に、大和は美琴を担いで走りつつ眉根を寄せていた。


「――!」


 そこで急停止。いつの間にやら四方八方から涅色の亡者が大量に押し寄せていたのだ。

 取り囲むその数は実に千五百。まるで死者の軍勢だ。


 胡乱げな足取りでふらふらと、けれどその濁った視線は大和たちを捉えて離さない。

 その死んだ瞳から窺えるのは、怖れ、嘆き、そして妬みであった。

 死にたくなかった、嫌だ嫌だ逃げ出したい、なぜお前らだけがのうのうと地上に戻ろうとしているんだと。


 だだ漏れた感情はもはや正負の境目など存在しない、濁り腐った汚水に等しい。

 そのドブの飛沫は一滴でも猛毒なのに、千五百という数ゆえの死の雨となって大和らを穢しに掛かる。


 大和に付いていったところでもはや黄泉から抜け出せない。天に繋がる蜘蛛の糸など端から存在しないのだ。ならばせめて道連れだと言わんばかりに、彼らは獰猛に牙を剥く。


「大和……」

「ああ心配すんな。へーきだ平気」


 声を震わせ、怯える美琴が大和の服をギュッと掴む。

 対する大和は気軽な調子を見せて安心させ、彼女を担ぎ直した。

 そして、改めて神威を迸らせる。襲い来る穢れた驟雨を邪魔だと蒸発させながら。


 徐々に距離を詰めてくる亡者の群れに、大和は幾分も臆しはしなかった。

 確かに気の毒だとは思う。死んでしまってからもいいように弄ばれ、安らかに眠ることすらできないのだから。シェイクに理不尽に殺された者も数多くいることだろう。


 無感情な成れの果てに堕ちながら、気まぐれなシェイクの諧謔に中てられてはこうして慟哭の声を上げている。我知らず耳を塞ぎたくなってしまうが、しかし生々しくもこれは紛れもない人間の感情だということも確かなのだ。


 だからこそ、大和は思わず眉を顰める。やりようのない怒りを覚えてしまうから。


「……悪いな、あんたらは連れていけねえ」


 救い出すには年月が経ち過ぎた。

 それに手前勝手で申し訳ないが、今の自分には美琴を背負うだけで手一杯なのだ。体温越しに伝わる命の重み、鼓動の重み、そして彼女が持つ温もり。何があろうと手放せない。目的に向かって愚直に走るには、脇見など出来はしない。


 ゆえに――


「ここは通らせてもらうぜ」


 いつの日か、あんたらを蹂躙する堕天を始末し、解放してみせるからと付け加えて。

 瞬間、咆哮した。


「だから――どけええぇぇええええッ!!」


 足に縋る瘴気ごとその場を蹴立ち、舞い上がる砂塵を置き去りにして大和は駆ける。

 迅速による力業、タイミングによる柔軟な立ち回り。


 千五百もの大群ではあるが隙間は存在する。速さにものを言わせ、縫うようにして突き進む。

 肉の壁に突き当たればあえて止まって引き付けて――新たに出来上がった死者の波の割れ目を見据え、刹那の間合いを計っては疾駆した。

 跳躍し、大岩や木々を蹴り跳んでいる間は無駄な怨嗟を浴びることもない。


 瞬身、不動、急転、飛翔――縦横無尽に八城大和は天翔ける。


 まさしくつづら折れた稲妻だ。平面のみならず立体に動く雷獣を捉えることは至難を極める。

 さらに言うなら――


「大和、蛆が!」

「てめえら相手なら――」


 突如湧いた数千もの巨大蛆の群れ。飛行し、雷獣狙ってその大口を開けていたが、しかしそれは愚かな行動だったと言えよう。


「遠慮はしねえぞ!」


 赫怒の雷轟が全方位に爆ぜた。

 抑え込んでいた怒りを爆発させ、その餌食となった数千の蛆は一匹残らず炭クズと化す。


 そう、今の彼がその気になれば、亡者たちとて一瞬で消し炭だ。それをしないのは大和なりに彼らの意を酌んだ矜持が理由であるが、万一にでも亡者が美琴を害すれば、その瞬間に八城大和は修羅となる。


 本能レベルでそれを察した黄泉の住人たちは恐れ慄き、モーセの海割りの如く道を明け渡していた。

 無言でそこを通り抜け、大和は振り返りはしなかった。


 すでに屋敷から距離にして数十キロ。時間で言えば数分足らず。人外の域に到達している大和であれば容易いものだ、改めて曹玲ツァオリンに感謝する。


 見据える先には行きに通った原生林。

 やっかいな場所ではあるが、方向さえ見失わなければ問題ない。

 光線の如くまっすぐに突っ走ろうとしたところでしかし、突然の雷がその意識を硬直させる。それは八城大和が発生させたものではない。


『きひひひひひ……。きゃはははははははははっ!』

「ひ――」

「……ッ」


 黄泉を揺るがす大嗤笑。

 反射的に美琴が怯み、彼女を担ぐ大和も神経を集中させて身構える。


『ちょこまかとウザったい、ゴキブリみたいなヤツね!』


 幼く可愛らしい声音。その無邪気で欣喜雀躍きんきじゃくやくな様相は聞く者を陶酔させるが、同時に奈落へと滑落させる。


 刹那の昂揚と引き換えに与えられるのは永久とわの絶望だ。

 人としての尊厳などは砕かれて躙られる。それが如何ほどのものなのかは、黄泉に住まう涅色の住人たちを見れば一目瞭然だろう。


『ゴキブリはゴキブリらしくさぁ……』


 剣呑な気配が跳ね上がる。大和の五感が総毛立ち、これは危険だと主に告げる。


『踏み潰されて死んじゃえ!』

「な――!?」

「きゃああぁぁあ!!」


 突如、大和たちの視界が更に黒ずんだ。

 なぜならば、見上げた先に巨大な岩が出現し、彼らに向かって落下していたからだ。

 いや、あれはもはや岩ではない。直径数百メートルはある山に等しい隕石だ。万人が総出で挑んだところでビクともしないだろう。


 圧倒的なプレッシャーを引っ提げて目前に迫り来るそれが、小虫同然の彼らに無慈悲の鉄槌を下しにかかる。


「ちいッ!」


 反射、大和は根拆ねさくの力を召喚してその紫電を大岩に解き放つ。

 が、その神威は岩の表面でパンと弾かれ消失する。僅かに表面を削るのみ。


「く――!」

「ァ――」


 絶望が二人を染めた。眼前にまで肉薄したその山は、そのまま彼らを虫ケラの如く押し潰していた――


『イエーイ! やったやったバーカ! あーでもやっぱあっさり殺しすぎたか……な……?』


 ――かに見えた。


 激しい爆音と地響きを見据えながらはしゃぎ喜ぶ声はしかし、即座に懸念を孕んだものへと成り変わる。

 黄泉の女王が凝視するその岩山の中心、そこから雷光が奔り出したのだ。


 そして、破砕。

 爆散した砂利の山から二人分の影が飛び出していた。難なく着地した大和に、担がれている美琴が「ど、どうやったの?」と疑問を向けていた。


「俺が契約した神は一柱だけじゃなかったってだけだ」


 八城大和が一番初めに手にした神とは根拆。

 天にも届くほどの大樹を根元から引き裂くほどの雷光は、現世の熊野で示した通り。

 けれど、先の大岩に対してはさすがの根拆の神力も相性が悪かった。


「だったら、より向いた神の力を発現すりゃ良い」


 言って、自身の右手に纏わせた新たな紫電を爆ぜさせる。


 その名は――石拆いわさく


 山すら砕く、一点集中型の雷神だ。

 根拆ほどの遠距離性と連射性能は無いために汎用性は劣るが、代わりに集約させた一撃の重みは根拆を大きく上回る。

 加え、名前が示すとおりに石拆とは岩や大地を裂き割るのだ。だからこそ、今しがたの大岩が崩壊したのも必然と言えよう。


 とはいえ、大和が扱える神威は根拆と石拆の二柱のみ。他にも新たな神が宿っているのかは分からない。いやむしろ、普通は一人につき一柱だとは曹玲の言。不確かな皮算用をするのも良くないだろう。


 思索を終えた大和にしかし――


『あー……、うっざ。なまいきなことしてくれちゃってさ』


 不機嫌さを隠そうともしない少女の感情が降りかかる。


『まーでも今ので死ななかったのは良かったわ。やっぱあんたらは直接あたしがグッチャグチャにしてやる方がスッキリするしねー。きひひひっ』


 ――覚悟、しなさいよ?


 ドクン、と。空間が疼いた。痒い、苦しいと世界が自らを掻き毟るように。

 だったら手伝ってあげるわよと、黄泉の世界を引っ掻いてぶち破り、悲鳴と慟哭を耳にして微笑みつつ、空から一人の天使が舞い降りる。


 暗黒に染まった世界の中、特に目立つ金色の髪はどこまでも神々しい。

 起伏の少ない幼い肢体、けれど人を狂わす妖艶ようえんさが一杯に詰め込まれている。


 纏う涅色の濃霧は今まで大和が目にしたどの瘴気よりも劇物で。

 直接従える蛆の軍勢は凡庸なそれらとは一線を画し。

 そして――何より目を引くのが彼女の身体に巻き付いた八匹の蛇雷だらいであった。


 頭からは大雷おおいかずち

 胸からは火雷ほのいかずち

 腹からは黒雷くろいかずち

 下腹部から拆雷さきいかずち

 左手から若雷わかいかずち

 右手から土雷つちいかずち

 左足から鳴雷なるいかずち

 右足から伏雷ふすいかずちを。


 総称して八色やくさ雷神いかずち


 先ほど大和の足を止めた雷光の正体こそが、これら稲妻の神威である。

 ただの幼童ようどうと侮るなかれ。彼女は天使。セフィラを宿す十天じってんが一。


 第十マルクトの――シェイク・キャンディハート。


「泣き虫さん、ひさしぶり」


 悪童の天使が腐った大地へ、パタンとトングサンダルを鳴らしつつ降りていた。

 それだけで、黄泉の国が喘鳴して地鳴りを起こす。その重圧は先の岩山の比ではない。

 にんまりと、執拗で粘っこい碧眼と刃より鋭いその犬歯を覗かせて、


「今度はもっと、もぉーっと」


 いじめてイジメて虐め抜き、泣き喚かせて殺してやるわと宣告した。

 もはや可視化されたその殺意。僅かであるが、彼女なりに殺しを我慢した反動は割れた風船の如く緊張と轟音を噴出させる。


 逃がさない、逃がさない、その魂と尊厳を殺略して踏み躙る。

 瘴気、死の蛆、雷の蛇――

 直属の配下を従えたシェイク・キャンディハートは獲物を見据え、そのピンクの舌でくちびるを舐め上げた。

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