大アルカナの動き
「……一体これはどういうことだ?」
隙間を縫うように凝縮されたビル風が吹き荒ぶ。
烏羽色のポニーテールを派手に靡かせた曹玲が、柳眉を顰めて疑問を投げた。
辺りは墨汁で塗り潰したかのような漆黒で染まっている。街の明かりが存在しなければ、一帯は完全な闇だったろう。
だが、今は決して夜ではない。太陽が無いゆえに、むしろ夜の方が月光があるだけ薄明るいという矛盾した世界。曹玲の黒が路地裏に溶けるようである。
次いで上がったのは絹を裂くような女性の悲鳴。
怯える声の主に這いずり、今に噛み付かんとしているのは八本の足を持つ巨大なヤモリのような生物。明らかに地球外の生命体と言えよう。
その常識外の巨大な口を引ん剥いて、泣き喚く女性を食い千切らんとする爬虫類を一瞥した曹玲は、ふんと鼻を鳴らした。
両眼を開き、その眼力だけで奇怪な生物を消滅させた彼女は小さく嘆息する。
(あんな雑魚はどうでもいい)
そう、先の曹玲の疑問は魑魅魍魎に向けられたものではなかった。
何より彼女自身、こうしてW県南部の市街地まで足を運んだのは、自身が起こした行為に対する清算である。八城大和を黄泉に運ぶために大樹の封印を解いたことで起きてしまった事象。
太陽が堕ちたゆえに世界中で妖魔が跋扈してはいるが、それらは人間を襲うまでには至らなかった。
が、迸る蛆を殲滅し、再び次元を封印したとはいえ、熊野に隣接するこの一帯では黄泉の気に中てられた怪異たちは人すら襲う悪鬼と化した。
だが所詮は低級の妖魔。放っておいたところでそうそう死者など出ないだろうが、他ならぬ自分が蒔いた種だ。自分で刈り取るのが筋だろうし、何よりケガ人が出ても夢見が悪い。
だからこそ、こうして曹玲は熊野周辺からこの街までのあらかたの魍魎を死滅させていたわけだ。では、今しがたの呟きとは何なのか。
「奴さんの神気が跳ね上がったぜえ!」
「――チッ」
肩に乗る八咫烏の警告に、我知らず舌打ちで応える曹玲。
腰を屈め、神経を鋭敏に研ぎ澄まさせる。
ピシッと、我知らず放射させた威武が建物のガラスにヒビを入れる。干上がった川を洪水が浸食するが如く、そのヒビに入り込む瘴気が黒の線を描いていった。
先の疑問、それは曹玲には些か予想外であったことだ。
それは、この日本という島国に、災害クラスの暴力を秘めた人外が目論見以上に集結しているということ。
彼女の見立てではセフィラを有した生命樹の天使群が四、五人程度だろうというものだった。
第一から第三は別次元の存在であり、わざわざ下位の事柄に干渉するはずがない。
現第七は新参、第八は利己主義者、第九に至っては大人しく命令を聞くとも思えない。
であれば、残りの天使たちが計画の実行人となるに違いないと、曹玲は読んでいたのだが。
「両手の指の数では到底足りんな」
十を軽く超える超常の存在。
その半数は都内及びその近辺に潜伏している。もっとも、そのうち数人はすでに消失しているが。
では、残りの半分はどこに潜んでいるのかという問いに、代わりに答えたのは飛来する神気の弾丸だった。
八咫烏を放り捨て、飛び込んでくるその気弾を弾き飛ばす。間断置かずに狂笑浮かべて突貫してくる一人の少女を見据え、爆音を耳にしながら上空へと回避した。
「へえー、やるじゃない! さすがは元第七ってだけあるわね!」
「……派手な奴だ」
道路を砕いて感心した様子で、ビルの壁に捕まっている曹玲を見上げるのは、オシャレで固めた服装に、赤髪をツインテールに結った表情豊かな女の子。
苛立たしげにそれを見下ろす曹玲の双眸に入り込むのは、彼女のこめかみに刻まれたTzの紋様である。
だが瞬間、喜悦を深めた赤髪の少女が大きく跳躍して曹玲に肉薄する。
「女の子ってのは着飾るもんなのよ! あんたの服地味すぎるんじゃないの!?」
「ヒラヒラした格好で戦えるか、鬱陶しい」
そんなやり取りの後にビル壁が爆砕した。
派手に舞う粉塵からまず飛び出したのは曹玲で、
「オラ逃げんじゃないわよ!」
続いて表情を歪めた赤髪の少女が曹玲に迫りゆく。
その様相は物理法則を明らかに無視していた。
二人の少女はビルの壁を垂直に走っていたのだ。まるで次元を九十度傾けたかのように、彼女らは次から次へと何棟ものコンクリ製の壁を蹴り渡る。
踏み砕かれたガラスが鋭利に光る雨となって地上へと落下する。幸い真下に通行人がいないので、曹玲にも遠慮が無い。
彼我の距離を開かせながら曹玲は疾走する。このまま人気の無い場所までおびき寄せようかと思ったところで、
「――繋錠光輪!」
「……っ!」
赤髪の彼女が犬歯を剥いて吠えていた。続いて彼女の頭上に光の帯が円を描く。
獰猛に目を剥いた少女がガラスを蹴り、一足の元に曹玲に接近。
「どおおおおりゃああぁあ!」
「ちっ!」
目を眇め、曹玲は振り抜かれてくる拳を肘で受け、空いた腕を赤髪の頬に向かって走らせた。が、相手も同じように防いでおり、互いに踏ん張り合う拮抗状態へ。
足場のガラスがパンと爆ぜ、それを合図に膠着を解いた両者は苛烈な拳撃を交わしゆく。
二十、十六、十三階と、高層ビルを駆け落ちながら激しい爆風と怜悧な雨を起こしつつ、しかし見る者がいれば心を虜にするだろう演武を繰り広げていた。
叩き、突き込み、躱して捌く。特徴的な二つの色が対比するかの如く電灯越しに踊っている。
「はん! 防戦一方ってわけぇ!? 悔しかったらあんたも力を見せてみなさいよ!」
勝ち気に身を染め、しかし体操のリボンのように流麗に宙を舞うのは赤いツインテール。
「さあな。もう三倍力を上げたら見せてやってもいいが」
対するは冷静に。それでいて力強い鞭の如くしなるのはポニーテールの黒。
赤が二本、黒が一本、対照的な三本の尻尾は災害の中心にありながら美しく弧を描く。
まるでそれは綾糸だ。狂気が孕む街中で、熾烈極まる爆轟を縫うように、食むように、鮮やかな二色の糸は危うい幻想を編み込んでいく。
「っですってえ!」
曹玲の挑発に眦を決した少女が二本の赤い尻尾を怒髪させる。
光輪を瞬かせ、怒りのまま大振りの蹴りを放っていた。
しかし、それを見極めていた曹玲はその脚を掻い潜り、ガラ空きの脇腹目掛けて固めた拳を叩き込んだ。
「イ――ギァッ!?」
落下が一時停滞し、同時に漏れ出るツァディーの苦悶。
一方の曹玲は重力に逆らわぬまま下方へ落ちる。
ガン! と、そこで窓枠に向かって踵を打ち込み急停止。
もう片方の足をしならせ、無防備に遅れてくる獲物を必殺する意思で待ち構えた。
が――
「情けねえなツァディー」
という声が割り込んできた。
刹那、剛掌が疾走する。
「――ぐっ!?」
超人的な反射神経により、蹴り上げの動作から一瞬で防御の姿勢に入った曹玲。
そのガードごと弾き飛ばされ、彼女は派手にガラスをぶち割ってビル内へと突っ込んでいた。
――な、なんだ!?
――きゃああぁああ!
耳をつんざく悲鳴をバックに、曹玲は仕事用の机やパソコンを次々に吹っ飛ばし、轟音鳴らして壁に叩き付けられていた。
「く……そ……!」
思わず顔を顰める曹玲。
身体に張り付く壁の残骸などを振り払いながらゆっくりと立ち上がる。
慄き慌てる衆目を無視して窓へと視線を向ければ、
「結構危なかったんじゃねえの? 助けてやったアタシに感謝の言葉はどうしたよ?」
「うるっさいわねアイン。余計なお世話よ!」
壊れた窓枠に足を掛けた二人の天使が罵り合いつつこちらを睥睨していた。
ツァディーと呼ばれた赤いツインテールの天使のこめかみを改めて確認する。Tzの刻印が見て取れる。
同じく、そのツァデイーが呼んだアインという天使の存在感は圧倒的であった。Oの印をこめかみに刻んだ敵手の体躯は山といって構わない。
頭の上では光輪を輝かせ、浅黒い肌に短髪。二メートル近い身長に合わせて漲る筋肉は凄まじい。同時に声質や膨らんだ胸元から女性であることが窺えるが、その肉体には鍛え抜かれた男性でもそうそう及びはしないだろう。
それが証拠とでも言うように、巨体のアインが口端を上げていた。
「なあ曹玲さんよお。アタシの拳はどうだったよ、なかなか痛かったんじゃねえ?」
「……」
対する返事は無い。だが、その沈黙は問いを認めたも同然だ。
そのような曹玲の態度になお一層機嫌を良くしたアインはひとしきり嗤い、そして僅かに眉尻を下げていた。
「……あんたらセフィラを持った奴らはいつもそうだ。下なんか見やしねえ。いや分かってんだ、見るまでもねえんだと。それくらい遥かな高みに身を置いているんだとな。路傍の石っころに興味を示さねえのはそりゃ至極当然のことだよ」
「何が言いたい?」
「足元見ねえとその石ころに蹴躓くってこった。もっとも、今のあんたはセフィラを持たねえ落ちこぼれた枯れ葉だがね」
せいぜいが小虫の隠れ蓑。そう言いたげなアインの嗤笑。
しかし、そこで怒声を上げたのは片割れのツァディーであった。
「っさいって言ってるでしょ! あたしが遊んでるのよすっこんでなさい!」
「おー怖っ。へいへい分かりましたよっと」
大仰にお手上げのポーズを取る巨体の女、アイン。
改めて、勝ち気でいて愉悦の思念に浸る赤毛のツインテール少女、ツァディー。
彼女らに共通するのは浮かんで煌く天使の輪、そしてこめかみに鈍く光る刻印。
大アルカナの径天群。
そう、彼女らこそが、曹玲の目論見の上を行く原因となった天使である。
だがしかし、改めて疑問が浮かぶのだ。彼ら二十二の天使に命令を下すのは、基本的には創造者である大天使のみなのだと。
例外として数人に限りロゼネリアが指揮を執る場合もあるが、それにしても数が多いし、あくまでも大アルカナは第三のもの。
だというのに、感じる神気は目の前の二人以外にも多く存在している。
分からない。一体裏でどんな動きが、思惑が蠢いているのかが。
そこまで思考したところで、曹玲の意識は現実に引き戻された。
「ボーッとしてんじゃないわよ!」
大響一声。烈々としたツァディーが距離を消す。
勢い殺さず閃く神気を込めたツァディーの突き。
いなし、回り込む曹玲だが、
「甘いってのよ!」
「……っ」
瞬時に対応し、赤毛の少女が曹玲に猛追を掛けていく。
どうにか捌く曹玲だが、動きが鈍い。端的に言えばせせこましく縮んでいる。彼女が後退すれば人垣を割るように社内の一般人が悲鳴を上げて避けていく。
それを、獰猛に目を剥くツァディーが嘲笑する。
「人間なんか気にしちゃってお優しいのねえ! 試しに二、三匹潰してあげようかしらん!」
「――」
ついとツァディーが横目で一般人を捉え、そのまま暴虐の塊を放とうとしたところに曹玲が割り込むと、
「――うっそよーん」
嗤笑と共に急展させた赤髪の足刀が曹玲の頸椎に喰い掛かり――けれど彼女はスウェーバックでそれを回避。
チッと舌を鳴らしたツァデイーであるが、一転して寒気が彼女を襲っていた。
曹玲のスウェーによる後方への体重移動がもたらしたのは、後ろ足を軸に正中線をずらした奇妙な構え――俗に猫足立ちと呼ばれるもの。
瞠目するツァディーを呑み込むのは怜悧な薄笑いであった。
「図に乗るなよガキめ」
「……あれえ? ちょ、タンマ」
聞き入れられるはずがない。
十二分に体重が乗った軸足をグンと踏み込み、赤髪の顎に炸裂する爆発的なトゥキック。
「ア――ギャアアァァアアアッ!!」
轟音破砕。蹴り込まれたツァディーは天井をぶち破り、更に更に上階へと呑み込まれていく。
それを窓枠から見やるアインが「な……んだと?」と焦燥し、寸毫の硬直すら生んでいた。
瞬間、アインが見据える烏羽色のポニーテールが真横を薙いだ。目が――合ったのだ。
次は貴様だと言わんばかりの猛禽の眼光。息を呑む間も無く弾け飛んだ曹玲がアインのどてっ腹を殴り穿つ。
「ギッ――」
顰め面で中空へと踊り出すアインの背後で、すでに回り込んでいた曹玲は彼女をビルの頂上へと蹴り飛ばしていた。
屋上へと着弾するアイン。そこには大穴の横で瓦礫に塗れて咳き込むツァデイーがすでに存在していた。
「ゲホッ、ゴホッ! ちくしょう、あの女ぁー……!」
「おいおい泣くなよみっともねえ」
「泣いてねーわよ!」
茶々を入れるアインに激昂するツァデイー。
そこへ、曹玲がポニーを翻しながら跳躍してくる。
「ここなら余計な気を揉む必要もない」
「ハッ! アタシらをせこいチンピラと一緒にすんなよ」
呟いた曹玲に、しかしアインが噛み付いた。
「いいぜ、今度は堂々と真正面からやってやるよ。さっきのあんたの動きは驚いたし、それなりに痛かったが所詮それまで。単に痛いだけで軽いってことよ。人を崩す力はねえ」
その言葉に同調するよう、無言でツァディーが瓦礫を叩き落として曹玲を睥睨する。
「いつまでも見下ろしてんじゃないわよ。隅っこの怪役なんてもう終わりなのよ」
「何……?」
意味深なその台詞と共に、視線と頭上の光輪が幾多の情によりぎらついていた。
ツァディーとアイン、含有する大アルカナはそれぞれ星と悪魔。
それが鳴動していた。因果の楔を引っこ抜き、陽の目を求めて飛ぶように。
戦場が張り詰める。引き伸ばされた糸はしかし、触れれば千切れる脆弱な線だ。
限界まで伸びきったそれを断ち切るタイミングを互いに窺っていたところで、
「何をしている」
と、横槍の声が場を支配していた。
「その女は目標ではない。体力と神気を無駄遣いするな」
「……ッ!」
「サメフ……!」
割り込んだ男にツァディーとアインが反応する。
同じく曹玲も彼を見やっていた。
逞しい男だ。マッカムやアインほど大柄ではないが、よく引き締まった肉体はあらゆる戦闘に向いた理想的体系。
こめかみに刻む印はSであり、大アルカナは節制。
既知の仲だ。彼も第三によって生み出された天使の一員なのだから。
だが、そのサメフという男は曹玲を一瞥しただけで興味を失ったように言った。
「行くぞ。最優先すべき事柄はお前らも分かっていよう」
「……しゃーないわね」
「あーあ、暴れ足んねえ」
サメフの言葉に続く二人の天使。
しかしそこで曹玲が彼らを引き留める。
「優先の事柄だと、貴様ら一体何が目的だ? 第一、逃がすと思うのか?」
「虚勢はよせ。片腕で我々とやり合えると本気で思っているのか?」
「……」
起伏の無い目で、言って聞かせるようなサメフ。
そのまま彼は踵を返して二人の女と共に歩みを進め、「目的と言ったな」と去り際に一言。
「狼狩りだ」
そのまま、彼ら三人は溶けるように虚空へと消えていく。
残された曹玲は痺れる右腕をごまかすように振ってから独りごちる。
「……これは課題ができたな」
眉間にしわを寄せつつ、直後に尋常ならざる重圧が街を包んでいた。
「シェイクめ、本性を晒したな」
更なる暗黒がぶち撒けられる。汚濁と嘲弄に満ち満ちた、どこまでも無邪気な悪意が。
ここが正念場だぞと、曹玲は地下に向かって大和に活を入れていた。




