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いつもの彼女

「な、なんで……? なんであたしだって、あんた……その……」

「落ち着け。あとあんまりでかい声出すなよ」


 震える彼女の肩を抱いて安心させる。

 しっかりと、力強く、体温を感じさせるように。


「だって……! だってぇ…………!」

「だいじょーぶ、大丈夫だ。都合の良い幻覚じゃないぞ、深呼吸して一度目を瞑ってから、もう一度俺を見てみろ」


 告げて、美琴の肩から手を離すと、


「ッ! やだ! 嫌だよ!」


 置いてかないで! 美琴は涙目のまま必死になって大和にしがみ付いてきた。


「……悪い」

「……ッ! くぅぅ……!」


 背中に回された美琴の手はガタガタと震え、痛いほどに爪が喰い込んできている。

 それは感情の発露だ。堰を切ったように発散されたそれは雪崩の如く大和に降りかかる。


 だから、大和はそれを全て受け止める。

 どん底に堕とされたがゆえ、悲哀の膜が美琴を覆っているのなら、彼女の感情を凍結させているのなら、それを破って融解させる。自分の身体など、いくらでも神崎美琴に捧げたって構わない。


「俺はここにちゃんといる。どこにも行かないし消えもしない。だからまあ、安心しろ」

「うん……」


 美琴がやけに小さく感じられた。こんな彼女を見るのはいつ以来だろうと思うと同時に、正直言って少し安心した。こうして感情をぶつけてくれるから。

 この少女は紛れもない神崎美琴であり、黄泉に堕ちながらもしっかりと自我を持っているのだと確認できたことが嬉しかった。


 ひとしきり泣き腫らした美琴はしかし、フッと大和の腕から抜けると、涙に濡らした両目を細めた、非常に痛々しい笑顔で言った。


「大和……、よくあたしだって分かったね……。すっごく、すっごく嬉しかった……」


 つうっと、目端から雫が頬を伝い――


「でもね、あたしはもう……壊されちゃったの……。もうあたしは人間じゃない……地上には、帰れないんだよ……」

「あ?」

「あたしの身体……すっかり汚染されちゃった……。肌も、髪も……」


 自嘲するように美琴は肌に纏わりつく瘴気を見やり、更には朽ち果てた涅色の髪の毛を諦観混じりに握っていた。


「外にいた人たちを見たでしょ? 彼らは黄泉に堕ちた成れの果て。自我を失ってうろうろ徘徊するだけの亡者なの。いずれは、あたしも……」

「だから地上に行ってお祓いしたり、美味いもん腹いっぱい食えば――」


 その瞬間、大和は見つけてしまった。

 美琴の粗末な着物、そのお腹の辺りのれ穴から覗き見える悍ましいものが。


「お前、それ……」


 その場所をグッと掴み、有無を言わさず捲っていた。


「――ッ!」


 目を見張り、言葉を失う大和。

 美琴のお腹は見るも無残にどす黒く染まり、そして痛々しい痣がいくつも残っていたのだ。

 そういえば、先ほど座布団を持ってきてくれたとき、下女のフリをしていた美琴は腹部を庇うような動作を取っていたようにも見えた。


「あはは……。あの子にいろいろされちゃって、さ……。正直、すごく痛いや」

「……金髪のガキか?」

「うん、シェイクって子。……いやー、こっちの食べ物はホントに……キツイや」

「――」

「あとは、当り散らされるみたいにお腹蹴られちゃった、かなー……」


 たはは、とお腹を押さえた美琴が力無く笑った。

 諦めたような笑い、人形のような笑い。


 とても見ていられなかった。この期に及んでそのような笑みを見せる彼女が。


(っの……野郎……ッ!)


 同時に、殺害するだけに飽き足らず、死後の世界においても美琴の心身に深い傷とトラウマを刻み込んだ堕天に対し、燃え滾った殺意が沸騰する。


『きゃっはっはっは! ばーか! 死ね死ねー!』


 シェイク・キャンディハート。

 一体お前はどれほど人を傷付けるのか。どれだけ俺の家族を殺傷すれば気が済むのか。


 やりようのない怒りは拳に集まる。固く固く込められたそれは細かく震え、爪が今にも手の肉を裂かんとしていた。

 美琴を怯えさせないよう、紫電を抑え込むのに精一杯だ。この感情をそのままシェイクに爆発させることができたらどんなに楽だろうか。


 けれど、辛うじて踏み止まる。曹玲に言われた言葉を思い出す。


 ――神崎美琴を救出したら、とにかく逃げろ。


 目的を見誤ってはいけない。

 ここで必要なのは我慢。耐え忍ぶ心。

 大きく、ゆっくりと深呼吸をした大和にしかし、耳を疑う一言が。


「ごめんね」

「……は?」


 なぜ、美琴が謝る必要があるんだと、目で問い掛ける大和に対して美琴が「それ……」と手で示す。それは大和にも付着している黄泉の概念であった。


「さっき抱きついちゃったから、あんたにも瘴気を移しちゃった……。ごめんね? あたし、嬉しくって、つい……」


 ごめんね、ごめんねと、美琴は何度もその言葉を繰り返す。

 濃霧が付いた指で涙を拭えば、それすら黒に侵された雫となって彼女の顔を汚してしまう。


「悔しいなあ……。さっき、あの子に先に言われちゃったからさ」

「……」

「でも、大和まで巻き込んでここに堕としちゃうのは……絶対に嫌だから……」


 あえて、もっかい言うね、と。

 神崎美琴は、泣き腫らしつつもまるで慈母の如き笑顔をさせて――


「ごめんね大和……。あんただけでも、逃げて」

「――――」


 そんなことを、言い放ったのだった。


 それは、どれだけ自分の心を殺して放った言葉だったのだろう。

 絶望の最中さなか、家族に等しい男の子が自分を助けに来てくれた。

 暗闇と寒さで凍え死にそうになっているときに見慣れた笑顔でひょっこり現れ、明るい火で顔を照らしてくれたような安心と心地良さ。


 縋りたい、泣きつきたい、ありがとうと笑って一緒に帰りたい――


 そんな気持ちを全て押し殺し、神崎美琴は大和の身こそを第一に優先したのだ。

 それだけ、神崎美琴はシェイク・キャンディハートを恐れている。

 言いかえれば、堕天の悪辣さをその身に叩き込まれてしまっているのだ。孤独に、一人で、怯えながら。

 けれど、いやだからこそ――

 神崎美琴は、儚くとも微笑みだけは貫いて、安心させるように、そう言ったのだ。


 瞬間、大和の中で、音を立てて何かが崩れた。


(俺は……馬鹿だ……)


 ひょっとしたら、思い上がっていたのかもしれない。

 超常の力を手にして、どこかヒーロー気分で少女を救う気でいたのだ。

 ふざけんなと吐き捨てる。何を上から目線になっているのだと。


 考えてみれば――いつも、美琴はこうだったではないか。

 世話焼きで、お人好しで、お姉ちゃん然とした彼女にいつも助けられていたのは一体誰だ、常に迷惑をかけていたのは誰なんだと。

 他の誰でもない、自分自身ではないか。図体ばかりでかくなって、華奢な美琴に世話を焼かせるのはいつも自分。


(最悪だ……!)


 情けない。死ぬほど情けない。

 お祓い? 腹いっぱい食え?

 想像を絶する苦痛を味わった美琴に、それすらも無理やり押さえ込んで自分のことを気にかけてくれる美琴に、そんな能天気な言葉を掛けてしまった己を殺したくなってくる。


 けれど――


 今回ばかりは、絶対に美琴に甘えるわけにはいかない。

 双眸を燃やして顔を上げる。

 一歩、大和は美琴に近付いた。


「待って」


 咄嗟に彼女は手で制す。

 聞かない。自身に蠢く黒い濃霧を右手で薙ぎ払い、また一歩距離を詰める。


「ねえ……、もう、もうやめよ?」


 それも無視する。

 瞠目し、思わず後ずさる美琴。けれど、それ以上の速さで大和は美琴に肉薄し、


「あ――」

「ほれ、捕まえた」

「やだ……。嫌だよ……」


 掴まれた腕を振りほどこうとはしない、言葉だけの抵抗。


 閉じられた瞼から伸びる繊細なまつ毛には、雫が朝露のように付いていて。

 微かに震えている小さなくちびるからは、怯えるような吐息が幾度も漏れていて。

 縮こまった肩は触れたら壊れてしまいそうだった。


 年相応の、華奢な女の子。

 罪悪感が湧くと同時に、愛しいと思った。絶対に失いたくないと思った。

 だから、そっと声を掛ける。


「さっきさ、よく自分だと分かったねって聞いたよな」

「うん……」

「匂いだよ」

「匂い……?」

「ああ」


 言って、大和は美琴の涅色くりいろの髪に手を伸ばす。「……ッ!?」と身体を強張らせる彼女だが、構わずに触れ続ける。


「こんな色になっちゃってるけど、お前からは懐かしい陽光の匂いがしたんだ」

「陽光の?」

「ああ、お日様の香りだ」


 晴天の匂い、太陽の匂い。それは誰しもが目を細めて胸いっぱいに吸い込む、無くてはならない香りだ。

 当たり前のように感じていたからこそ、人々は失ってからその大切さに気付いたのだ。


「さっきの奴は外見や声こそ美琴のものだったが、反吐が出そうなくらいに血と汚辱の臭いを放っていた。一発で偽物だと気付いたぜ」


 それに、お前だったら他人に指図なんかせずに、直接俺に座布団を出しただろうしなと、大和は痛んで絡まった美琴の髪を優しく手でいていく。


 美琴は全く抵抗しない。大和の成すがままである。

 緊張と面映さ、けれどそこに安心があるからこそ、彼女は大和に身を預けている。


 一通り美琴の髪を梳き終えた大和が、自身の左腕に巻いていた紅いリボンを解いていた。「あ……」という美琴の反応を受けながら、大和はそのリボンを彼女の髪にキュッと結んでいく。


「こいつらもお前のこと心配してたんだぜ?」

「え……?」


 間を置かず、大和が美琴の頭に留めていたのは先ほど見つけた花の形を模した髪飾り。


「無くしたと……思ってたのに……」


 瞬間、美琴を柔和な輝きが包み込む。


 キラキラと、キラキラと、髪飾りを留めている側頭部から、リボンを結っている髪の先端から、清浄で輝かしい光が放たれる。

 美琴の涅色くりいろに侵された髪が浄化されるかのように、明るい陽色ひいろへと塗り替えられていく。


「これでいつもの美琴だな」

「――…………っ」


 お日様の色、明るいオレンジ。

 美琴の髪色がパアッと輝き、その室内も柔らかな暖色に包まれる。

 そして、彼女を覆う黄泉の瘴気が寸分残らず爆ぜ消えた。


「壊れたなんて言うな、人間じゃないなんて言うなよ」


 いくらでも取り戻せる。また二本の足で歩いていける。


「だから、帰ろうや?」


 気さくに、気楽に、少しだけはにかみながらの一言。

 それを、一言一句逃さずに聞き届けた美琴は顔をくしゃくしゃにさせながら、


「――うわああぁぁああああ……ッ!」


 泣いていた。先ほどよりもずっと激しく、絶叫に等しい号泣だった。

 押さえ込んでいた感情のタガを外し、再び大和に飛び込んだ美琴はドンドンと彼の胸を強く叩く。


「怖かったよぉ……! 痛かった、辛かった寂しかった……ッ!」

「……すまねえ。俺が馬鹿だったせいで」


 胸の中で喚く小さな頭に手を置いてカリカリと引っ掻き、次いで反対の手を華奢な背中に回してあやすようにポンポンと叩いてやる。


「俺が言うのもなんだけどさ、さっきはお前もよく無反応を貫いたよな」

「だって……。あの子、あたしが反応したらあんたを殺すって……!」

「……まさか、シェイクの野郎は美琴を痛めつけるときにもその理由をチラつかせていたのか?」

「……っ」


 返事は無い。が、その無言は肯定の意だ。

 クソガキめと魂が灼熱するが、今一度深呼吸して心を落ち着ける。


「その腹も、絶対何とかする。心配すんな」

「うん……!」


 ようやく、美琴から力強い返事を貰うことができた。

 ホッとした大和にしかし、美琴はおずおずと問い掛けてくる。


「あの、さ……。チェルちゃんってどうしてる?」

「……」


 聞きたくない名前に顔をしかめ、我知らず言い返す。


「あいつのことは忘れろ」

「でも……」

「……分かった、その話は向こうに戻ってからにしよう」

「……うん」


 美琴の心を委縮させたくはない。妥協案を提示してこの場を流す。


 他にも課題はたくさん残されているが、とにかく今はここを脱出するのが先決だ。

 美琴から離れた大和は上着を脱ぐと、それを丸めて肩に置き、戸惑う彼女をそこに乗せるように片手で担ぎ上げる。


「そんなクッションじゃ気休めにしかならねえだろうが、ちっとだけ痛みは我慢しててくれ」

「え……、ちょ、あ……、それは良いんだけど、お、重くない?」

「重くねーよ、てめえなんざ」


 そんなどうでも良いことを気にする美琴に嘆息するが、良い傾向だ。

 こういう馬鹿みたいな会話をずっとしていたいと心底思う。


「それに……アホみたいな力が付いたしな」


 言って、小さな電気を発生させた。それを見た美琴が目を丸くして口を開く。


「え、何それ? 痛くないの?」

「ここに来るために修業ってやつをしてみてな。おかげで足はかなり速くなったぜ。……んじゃ、振り落とされねえようにしがみ付いてろよ!」

「――わっ!?」


 刹那、紫電を爆ぜさせた雷獣が畳を蹴り砕いて飛び出した。

 絶対に連れ戻すと誓った少女を見事に救い出し、二度と堕とさぬようしっかりと抱えながら。






「あれぇー? なんでバレちゃったんだろ?」


 虚空を仰ぎ見て、神崎美琴の姿をしたオレンジ髪の少女がその口許を吊り上げる。


 ケタケタと、ケタケタと、壊れたようなその嗤いと共に、彼女の足元から暗黒の瘴気が轟々と迸った。

 腐り落ちる襖や畳。木製の床や柱も浸食され、大きな屋敷が慟哭を上げながら崩れていく。

 落下する天上は彼女に触れる間際に溶かされ、瘴気の養分と成り果てる。

 グチュグチュと、周囲の家屋を喰って肥大化するその毒霧から、今度は巨大な蛆が何百と出現してきた。


「あっはははははは。ひひ、きひひひひ……。きゃはははははははははッ! まあいいや! 言ったもんね! ロゼ言ったもんね! 逃げたら殺して良いってさ!」


 諸手を上げての呵々大笑。

 体裁など考えない、我慢など考えない、慎みなど一切度外視した好き放題の下品な哄笑が一帯を呑み込み侵す。

 そして、少女のオレンジ色の髪が明滅し、それはやがて黄金色に輝いて――


 突如、頭から大きな雷が噴き出した。

 続いて胸から、腹から、下腹部からそれぞれ雷光が突き破り出てくる。

 締めくくりに両の手足からもその閃光が轟音と共に発生する。


 ――八色やくさ雷神いかずち


 生まれ落ち、明滅しながら少女に纏わりつく八つの雷光の正体は蛇。

 その親である少女の犬歯が鋭く光ると、なんと彼女は自身の顔を引き毟っていた。


「ひひひひひ……。っちゃー、大笑いするとまーだお腹痛いや。クソ、ウォルフの馬鹿犬め! 絶対、ぜえええったいに今度殺してやる!」


 けど、今はその前に……と、新たな可愛らしい顔を見せた金髪の少女は含み嗤い、濛々とした瘴気に、蠕動する巨大蛆に、そして全身に絡みつく雷の蛇に命令した。


「さあおまえたち! さっきの奴らが獲物だよ! 絶対逃がすな、捕まえてグッチャグチャにして喰っちまえ!」


 神崎美琴に擬態していた少女が正体を曝け出す。

 愉悦に染まりきった悪逆な笑みは十代前半の幼いもの。

 美しく、妖しく、可愛らしい黄泉の醜女しこめ


「きゃははははははは! お腹いたーい! でも痛気持ちいいや! あははは! にゃははははははははっ!!」


 闇色に染まる。空も大地も。まるで生きた臓器の如く収縮を起こし出す。

 第十マルクトのシェイク・キャンディハートの狂った嗤いが、黄泉の国を加速度的に変貌させていた。

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