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駆ける雷獣

 琥珀色の空の一部に、蠕動ぜんどうを続ける黒い景色が存在していた。

 ガサガサと、何も無い中空を足場にのたくっているのは、人の腕ほどもある巨大な蛆。

 それらが大量に押し寄せる地点は、宙に発生した地上とを繋げる境目であった。


 肉を、臓腑を、魂を。

 喰って喰って貪り尽くすと、異形の蟲は地上へ向かって群がり尽くす。

 明らかな意志があるかの如く、その巨大な牙と滑つく舌を見せつけるように大口を開けた瞬間――爆鳴ばくめいが空を染めた。


 それは雷轟らいごう


 亀裂より突如として発生したその閃光は、数百数千と凝縮された蟲の集合体を一つ残らず焼き千切り、炭塵たんじんの雨として黄泉の大地に降らせていた。


 稲妻が、今度は落雷として下へと超速で走り出す。

 途中で雲のような、中空に浮かぶ涅色くりいろもやの中心点をぶち貫くと、それは波紋のような巨大な輪となって空に広がり霧散する。


 突き抜け出て、紫電を纏って降下するのは一人の少年。

 体一つでくうに身投げし、迅速で迫る大地を見据えながら直前で旋転する。


 ダン! と、難なく着地した八城大和は帯電する力を確かめるように、掌をグッパと啓閉けいへいさせつつ雷光を発し、改めて自身に宿る雷の神格を認識した。


「ここが黄泉……か」


 初めて訪れた異界を見渡しながら呟き、感じたことを噛み砕いて脳内で整理する。


「なんつーか、意外に普通だな」


 第一印象はのどか、とまでは行かないが、予想していたよりは常識に近い世界であった。

 一面が草むらで、岩や池などが点在し、遠くの方には原生林のようなものが広がっている。草むらには獣道が細々と繋がり、大地が顔を出している。

 もちろん、ここは地下に存在する黄泉の世界。地上とは異なる点も数多く存在する。


 まず周囲の色が異常であった。

 地下だというのに辺りの景色が確認できるのは、空の色が琥珀色こはくいろに染まっていたからである。その影響なのか、茂る草木も、岩も池も黄褐色を帯びている。

 そもそも地下に身を置くあの空は、一体何で出来ているのだろうか。


 大地か、結界か、濃霧か、それとも――


「――っと」


 思考する大和に突然、猛速で飛来する物体が一つ。

 咄嗟に躱すが、再度襲い来るそれに向かって内在する雷の神――根拆を再び召喚して迎撃した。


「くそ、うざってえなこいつら」


 絶命し、ぼとりと落ちたのは巨大な蛆。先ほど空で焼き殺し、また熊野でも曹玲に飛び掛かった好戦的な黄泉の蟲である。開いた口から覗く牙は鋭く、とても虫が持つものとは思えない。

 蛆の死骸が発する焦げた臭い。けれど、その臭いは刹那に別のものに塗り潰される。


「……こりゃ墟街地の比じゃないな」


 先ほどから感じる極濃ごくのうの瘴気が鼻を刺す。

 死体をヘドロで溶けるまで煮詰めたような、臓器が一瞬で腐りかねない毒の霧。曹玲の訓練により抵抗力が付いた大和だからこそ平然としていられるが、常人がこんなものを吸えばその瞬間に毒屍どくしへと成り変わる。


 そう、平凡な景観に騙されてはいけない。

 ここは黄泉、死の世界。

 純度百パーセントの瘴気が蔓延るこの国で、まともなモノなど有りはしない。


 雑草を踏めば花粉が飛び、それが他の蛆に寄生すると同時に肉を突き破って花が咲く。

 餌食となり、のたくるそれに群がるのはこうべを垂れた花弁であり、その中央にある大口を開けて蛆の身体を噛み千切る。屍肉が茎を通る光景は、蛇が獲物を丸呑みしたときと遜色ない。


 同胞が喰われることなど歯牙にも掛けず、他の蛆たちは骨の上を蠢動しゅんどうする。

 それはサイズ的に人間のものに違いない。


「はあ……」


 我知らずため息をついていた。

 これは自然の摂理などという範疇を超えている。

 まるで小さな箱に多種多様な生物を放り込み、どの種が勝ち残るのか観察させられている気分に浸される。


 かぶりを振って、改めて空を見やる。

 曹玲が言っていた。陽光が輝く先にきっと彼女がいるのだと。


(美琴……)


 懐かしい匂いがした。晴天のなか優しく鼻孔をくすぐる陽光の匂いが。

 風上かざかみの空を見れば琥珀色を上塗るように、明るいオレンジ色がじんわりと広がっている。


 彼女はいる。ここにいる。

 その事実に安心し、そして気を引き締める。


「あの森の向こうかよ」


 見据える彼方は原生林。熊野の森以上に奥深く、そして気味の悪い気配を放っている。巨大さゆえに、迂回をしている暇は無いだろう。

 だが瑣末な問題だ。足を踏み出すことへの邪魔立てにはなりはしない。

 眼差しを引ん剥いて、沸々とした感情を稲妻と共に迸発させる。


「邪魔だ!」


 自分を餌と思い、一斉に牙を剥いて殺到してきた蛆と雑草を雷撃で焼き尽くす。

 それを合図に、大和は一気に駆け出した。


 身体が軽い、疲れない。まるで一歩離れた所から俯瞰ふかんしているかのようだ。

 腕を振れば風が斬れ、足を送れば大地が派手に陥没する。


 今の彼は雷獣らいじゅうだ。決して止まらず猛進する。疾風迅雷の速度で以て黄泉の生体を蹴散らしながら、怒涛の勢いで森との距離を殺し――そして突っ切った。


「オオオォォォオオオァッ!」


 咆哮し、勢いのまま原生林を直進する。

 大量の木々から垂れる複雑に絡み合う蔦、足を呑みこもうと湿った地面。遠くからこちらを窺う異形の動物たち、葉から落ちる巨大な塊は蛭だろうか。


 だが、それら全てをモノともせずに八城大和は疾走する。

 地面を蹴り飛び、枝から枝へと跳躍し、意志を持った樹が大和を襲えばかち割って粉砕する。

 それは黄泉を揺るがす勢いだ。向こう見ずの雷獣に、しかし邪な神気が突如伸び上がる。


「――っ!」


 地面を削って急停止。

 顔を向ければ、奇妙な出で立ちをした二人組がその場に立ち塞がっていた。


「……来ましたわよ、タヴ」

「はい、コフ」

「彼を斃せば、わたくしたちは再び地上へと戻ることができますわ」


 言って、二人が踏み出す。広葉樹の枝に隠れた素顔が露わになった。

 黒衣を纏った少年少女、そのこめかみにはアルファベットで書かれた刻印が窺える。

 珍妙な話し言葉をするコフと呼ばれた少女にはQ。

 相方である華奢な少年、タヴにはThが。


「……」


 そして、大和は両眼を鋭く裂いていた。

 彼らの頭上に、天使が持つ光輪が輝いていたから。

 そう、彼らは天の使い。セフィラ同士を接続させるパスの化身。


 第十マルクト第七ネツァクを繋ぐコフの大アルカナは月で。

 同じく第十マルクト第九イェソドを繋ぐタヴの大アルカナは世界である。


はなっから全開で行きますわよ!」

「チャンスを授けてくれたシェイク殿のためにも……!」


 第九イェソドの狼男によって黄泉に堕とされたコフとタヴ。

 腰を屈め、双眸をかっ開いて威武を迸らせていた。

 轟々と、森を揺らして震撼させ、目標と定めた大和を見据え――た時には、すでに彼はその場から消えていた。


「「――ッ!?」」


 驚愕する天使のコンビ。どこへ逃げたと辺りを見やる――が、


「お前ら、今シェイクって言ったよな?」

「ひ――!?」

「ァ…………」

「あのガキの居場所を知ってるか?」


 彼らの背後で、八城大和は静かに問うていた。

 トン、と。二人のうなじに指先を当てながら。


「ひ……あぅ……」

「し、知らない……。本当に知らないのです。わ、わたくしたちのような者に、シェイク殿は情報をお与え……なさいませんの……!」


 ドサりと尻餅をついた少年の隣で、カタカタ震えながら質問に答える少女コフ。


「そうかよ」


 聞き届け、大和は手を離す。

 同時に、タヴに続いてコフもくずおれ、両手で自身を抱きしめるように縮こまる。

 その様子を見やり、踵を返した瞬間に大和は消えていた。

 少女、コフは滝のように汗を流して戦慄した。


 届かない。自分たちが手を伸ばしたところで、この少年には決して――


「……しまった」


 一方で、いつの間にか停止していた大和が我知らず呟いた。

 今しがたの天使とのやり取りで、方角を見失ってしまっていたのだ。

 空を確認しようと見上げても、鬱蒼と茂る枝と葉が光を極限にまで遮っている。


 いっそのこと焼き払うか? 

 逡巡する大和であるが、出来る限り無駄なエネルギーは使いたくないし、それにいくら黄泉のものとはいえ、自然相手にそういった行動を取るのも気が引ける。

 どうしたものかと思案すると、突然として左手が持ち上がっていた。


「なんだ?」


 そして、ググッと修正するように動いた腕が方向を示し、同時に手首がギュッと締め付けられた。

 圧迫したのはリボン。自らの意思を主張するように、手首に巻いていた神崎美琴の紅いリボンが動き出したのだ。


 美琴はあっち。あっちにいるよと。


「……そうだな、お前も持ち主に会いたいよな。サンキュ」


 思わず口許を綻ばせ、感謝の念を伝える。


 付喪神つくもがみ

 長い年月を過ごしたり、強い想いを込められた物質に霊魂が宿ることがあるが、これはまさしくそれである。霊力があった美琴が幼少時より大切に扱ってきたリボンだ、当然と言えば当然であろう。


 誰にでもその意思を感じられるわけではないだろうが、少なくとも今の大和には知覚できている、十分だ。

 美琴のリボンを信じた大和が再び原生林を激走し、遂に向こう側へと辿り着く。


 森を抜け、目に飛び込んでくる景色はいささか柔らかく感じられた。

 黄褐色、というよりは淡いオレンジ色に辺りは染まっている。

 数瞬だけ呆け、そして向けられる視線のようなものを感じた大和が構えを取った。


「……」

「……」

「……」

「な、なんだ……?」


 ポツポツと、周囲には人間がいた。粗末な着物を羽織った彼らは泥のような涅色の髪を伸ばし放題にしているために、その表情は窺えない。だが恐らくは死者の類だろう。

 呻きもせず、意志を見せず、胡乱うろんな動作のままフラフラと歩いている。


 遠くの方では一人の死者が倒れ込んでいた。見据えると蛆が数匹群がっている。抵抗の動作は取っているようだが、如何せん力量と数に差が有りすぎるために餌食になるのは時間の問題だった。

 それを助けようとする死人しびとは一人もいない。我関せず、というよりは単純に興味が無いようであった。あるいは、感情の類が存在しないのか。


「……っ」


 忌々しげに顔を歪めた大和。

 その右手から雷の神威を迸発させ、死者の上に群がる蛆を一掃する。

 が、対する死者は大和を一顧だにせず仰向けのまま空を見上げるのみ。

 一方の大和も、それ以上関わろうとはしなかった。


 一層濃く感じるオレンジの明かりへ向けて走り出す――

 そして、途中で再び左手が動き出す。そこに巻いたリボンが指し示すのは、草むらから発せられている陽色の輝きだった。


「これは……!」


 近付き、そこに捨てられていたものを拾い上げる。

 それはリボンと同じく、神崎美琴が常日頃から身に付けていた花の形をした髪飾りであった。

 壊さぬよう、けれどもギュッと握りしめる。


 そして視認した。

 リボンと髪飾りが大和に促した方角に、大きな屋敷が存在していたことを。


 そして――瞠目した。


「やま……と……?」


 その屋敷の前で、聞きなれた声でこちらに向かって問い掛けてくる、明るいオレンジ色の髪をした少女がいたことを。


 空に滲むオレンジの光は、この屋敷から発せられていた。

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