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根拆(ねさく)

 熊野の奥深く、結界に覆われたとある地点に、天にも届こうかという大樹が存在していた。

 その幹の太さは、大人十人が手を繋いだところで五分の一にも満たないほどに嵩高かさだかだった。


 全高百メートルを優に超えるそれを下から見上げれば、鬱蒼とした葉が空を遮り、まるで天上に蓋でもされたかのような窮屈さを覚えてしまう。

 圧倒的な存在感で見る者を驚愕させるその大樹を見据えつつ、曹玲ツァオリンが静かに言葉を紡いだ。


「黄泉に行く方法は二つある。一つは黄泉比良坂よもつひらさかから侵入する方法。もう一つは地上と黄泉とを隔てる地層に亀裂がある箇所を、無理やり抉じ開けることだ」

「亀裂?」

「黄泉には吸っただけで肺を腐らせる瘴気があるのは教えたな?」

「……なるほど、墟街地きょがいちか」


 腕を組んで思い至る大和に相槌する曹玲。


「そうだ。全国に点在する墟街地と言われる場所、そこは境界線が薄いがゆえに黄泉に浸食された死の街というわけだ。そして、同時にそれらは黄泉を司るシェイクの巣穴でもある。次元を壊すような派手な動きを見せれば、即座に奴が飛んでくるだろう」

「だから墟街地から黄泉に侵入するわけにはいかない、か。つーことは正攻法で、黄泉比良坂から行くってことか?」

「いや、黄泉比良坂の結界は厳重でな、少々の準備では歯が立たん」

「じゃあどうするんだよ」


 問う大和に曹玲が目線を動かす。

 圧巻、という言葉では到底足りない大樹を見やり、一言発した。


 この樹を割れ、と。


「……どういう結論なんだ?」

「黄泉比良坂には千引ちびきいわという、地上と黄泉の境界線を塞いでいる岩が存在する。そしてこの大樹も同じ役割を果たしているんだ」

「まさか熊野まで黄泉に浸食されてるんじゃないだろうな?」

「理由は話せば長くなるが、そういうわけではない。簡単に言えば少し制御下に置かせてもらっている。温泉に瘴気があるのもその影響だ」

「……何者なんだあんた?」

「貴様が無事に神崎を連れて黄泉から帰ってきたら教えてやる。時間が惜しい、さっさとやれ」

「いや、やれっつったって……」


 こんなもんどうやって割りゃええねん。

 尻込みしつつ、とりあえず近付いてみた。直径数十メートルはある極太の幹はもはや壁である。


「臆するな。三日間の成果、今こそ出すときだ」

「ふう……」


 呼気をはいて瞑想し、そのまま微動だにせず数秒おいて――

 直後、カッと目を見開き腰の入った正拳を突き込んだ。


 数瞬の静寂。曹玲がその光景を静かに見守る。

 が、沈黙を破ったのは案の定大和の絶叫だった。


「いいったああぁあぁああ!? 手が!? 手が痛い!」

「……阿呆か貴様?」


 手をブンブンさせてのたうち回る大和を憐れみの目で見る曹玲。気のせいかポニーテールもだらんと気落ちして下がっているように見える。

 はあ……と、こめかみに手をやって呆れる彼女に大和が抗議の声を上げる。


「だっておめーが特訓の成果とか言うからよ!」

「どあほう! 誰が素手でやれと言った! そんな真似は貴様には早いんだ馬鹿者が!」

「あんたにゃ出来るのか……」


 恐ろしすぎる。


「大和、お前が先ほど呼び出した力は何だ? 何のために意志を通わせた?」

「そーだぜー? お前のせいで俺まで黄泉に堕ちるとこだったんだからなー」


 曹玲と共に、彼女の肩に乗っている八咫烏やたがらすが文句を垂れてくる。

 集団感電死事件の犯人になりかけた大和は「すまん」と改めて謝罪する。


 そして、曹玲の言葉を受けた大和が呼応した自身に宿る神に意識を向けた。

 応えるように、パリッと電光を発する右手。


「この力であんなでかい樹を割れるのか?」

「出来なければ、神崎美琴は永遠に黄泉の住人だ」

「っ……」

「思考のスイッチを切り替えろ。お前の大事な家族を殺したのは誰だ」


 黄泉の醜女、第十マルクトのシェイク・キャンディハートの歪んだ表情が脳内を蔓延はびこる。きゃっきゃと嗤い、両親と美琴を殺害したその醜悪な笑顔が。


 雷光の電圧が急激に跳ね上がる。


「神力とは想いや精神力に比例する。だがそれを発現したり貫き通すためには強靭な肉体が必要不可欠だ。お前は三日三晩苦しみ、血反吐をはいてそれを手に入れた。乗り越えた。他の誰でもない、施されたわけでもない、自分自身で掴み取ったんだ、誇れ!」


 呼号が大和の耳を打つ。


「その力はどこへ向ける? 何のために使う? 臆するな、見誤らずに正しく使え。血肉と魂を神饌しんせんとして捧げ、己自身をやしろにして神と共存しろ」

「共存……」


 肉体を居住地として貸し与え、魂を贄として捧げることで、対価に神の力を借りける。


 それは言ってみれば相互扶助の関係だ。難しくなくて良い。

 半歩動き、改めて大和が大樹を見据えた。

 先ほどと比べ、不思議と幾分か小さく見えているような気がした。


 意識を内包する神に向け、全身を駆け巡る神気を右手へと集約させる。

 血肉を貸そう。魂を捧げよう。だから、どうかその神力を貸してほしい。


 仰ぎ見る空に太陽は存在せず、暗黒の世界には魑魅魍魎が跋扈する。昼は闇一色、夜は銀色の月光のみが照らす地上で人々は慄き、嘆き苦しんだ。地球の終わりだと。


(ざけんな……!)


 そうはさせない。させてたまるか。契り、歯を食いしばって固く誓う。

 噛み締めた口から、握り込んだ掌から――鮮血が垂れた。


 咄嗟、天空に雷雲が集まった。闇の景色が一層暗さを増す。その黒い雲には蛇のような紫電が爆ぜ、鈍く唸るような雷鳴が轟いて――


「オオオォォォオオオオッッ!!」


 太陽をもう一度空に呼び戻すため、そして神崎美琴を連れ戻すため、八城大和は遂に神格と共鳴し、その天錫てんしゃくを槍として咆哮させた。


 ――その名は、根拆ねさく







「ロゼネリア先生、この世はどうなっちまうんだろうねえ」

「お日様はいなくなって、気味の悪い化け物が徘徊するようになっちまって……。怖いよ先生」


 白皙はくせきの診療所には今日も患者が通い詰める。


 怪我や病気を置き去りにしても話題になってしまうのは、終末論すら囁かれている外の現状である。

 陽は消滅し、闇を蠢く怪異の数々。

 発生してから数日が経過し、人々の不安は臨界点間際にまで増幅していた。

 だが、そんな彼らの不安を拭うどころか浄化してしまう美しい医者が優しく諭す。


「ご安心なさって下さい。皆さんが心を強く保っていれば、決して闇や妖魔に屈することはありません。それは病気に対しても同じです。心の持ちようで現状は幾らでも変化しますので、どうか気を確かに、できるだけ笑顔でいるのが良いですね」


 クスリと、待合室にまで出向いたロゼネリア・ヴィルジェーンが口を弓のようにしならせて笑みを浮かべた。

 その言葉に感銘を受け、頷く者やさっそく笑顔を作る者もいる。


 ロゼネリアには不思議な魅力がある。

 今しがたのように、語る言葉には柔らかさと同時に重みがあり、そして白に近いプラチナブロンドの髪を筆頭に、その整った美しい見た目も見る者を次々に虜にするのだ。


 患者たちの不安はどこへやら。たった今まで漏れ出ていた不安や恐れが、ロゼネリアの一挙一動によって寸分残らず消え去っていた。

 ああ大丈夫なんだと、安心して良いのだと、それはまるで強力な暗示や催眠のように即座に作用して場を鎮静させる。


「はーい、佐藤さーん。お薬ですよー」


 受付の女性が気さくな声音で患者に声を掛けた。

 佐藤と呼ばれた四十代の男性が呼ばれるままに受付に近付いた、その時である。


「……今ちょっと揺れたか? それに空が少し光ったような……」


 違和感を覚えた男性が辺りを見渡す、と――


「くふっ。くふふふふふふ……!」

「な――!?」


 信じられないものを見て、総毛立って後ずさる。

 常に微笑を浮かべ、柔らかな物腰で応対する天使のような彼女が、ロゼネリア・ヴィルジェーンが……。


 口の端を持ち上げて、まるで般若のように嗤っていたのだ。


 あまりにも普段と掛け離れた彼女を見て慄然し、更に後退する男性は我知らずカウンターにぶつかっていた。


「? どうなされました、佐藤さん」

「え、あ、いや……」


 受付の看護師にきょとんとした顔をされる。

 彼女はいつも通りだ。何も変わってはいない。

 これは何かの気のせいだったのだろうと、男性がもう一度ロゼネリアに目線を向けようとすると――


「カフ。この診療所も今日限りです」


 それは冷笑から放たれた、血の通っていない鬼の言葉であった。


「――畏まりました」

「……え? ――ゴボアッ!?」


 カフと呼ばれた受付の女性が突如手を伸ばして引っ込めると、何か赤黒いものを掴んでいた。


 否、抉り取っていた。


 その右手にある鼓動を続ける心臓を一息に握り潰す。

 ブチュリ、という間抜けな音と共に、ピュウッと赤い水鉄砲が斃れた男性の身体を濡らす。


 血だまりがジワジワと、その光景を唖然とした目で見つめていたギャラリーの足元へと浸食していき、一人の患者の靴に付着した――瞬間、


「「「うわあああぁぁぁぁあああああああああぁぁああッ!!」」」


 蜘蛛の子を散らすように、患者たちが我先にと逃げ出し始める。


 人殺し。

 どうしたんだ先生。

 嫌だ、死にたくない。

 出せ、出してくれ。


 パニックになって騒ぎ立てる衆愚しゅうぐの悲鳴を聞き届け、ロゼネリアは目を細めてカフに向かい、促した。


 数分後、白い外観の診療所の内部はおどろおどろしい光景になっていた。

 そこかしこに血肉が飛び散り、千切れた患者の手が救いを求めるように手首を曲げて佇立ちょりつしていた。

 薬品の臭いは血臭と脂臭で掻き消され、それを発する臓器は未だ喘鳴しているようである。


 椅子に腰掛けたロゼネリアが脚を組み替え、満足気に微笑んだ。


「あなたも感じたでしょう、カフ。彼の神気を」

「はい。ロゼネリア様が仰ったように、これは雷の力のようで」

「くふふふ。これは素晴らしいですね。そして彼はまだまだ力を……。他にも興味深い点がいくつかありますが、それはともかくあなたに一つ仕事をお願いしたいのですが」

「何なりと」


 ロゼネリアに対して厳粛な態度を取るカフ。

 いつしか彼女のこめかみにはKの刻印が浮かんでいた。


 ――大アルカナの怪天群かいてんぐん


 それは生命の樹における各セフィラを繋ぐパスの総称。

 第三ビナーの大天使がタロットカードに生命を吹き込んで誕生させた、それぞれのパスに帰属する天使たち。


 カフの大アルカナは運命の輪。

 そして、彼女が繋ぐ二対のセフィラは第四ケセド第七ネツァクである。

 第四ケセドのロゼネリアが厳かに告げた。


「熊野に赴き、元第七(曹玲)を消しなさい」

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